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「君は、誰だ?」


 もう一度、今度はゆっくりと噛みしめるようにして、同じ問いが降ってくる。


 ようやくその内容を理解した脳が衝撃に揺れたが、エルネスタにとってはこの状況も同じくらい問題だった。

 男性に押し倒されるなんて、まったく初めての経験だ。先程から心臓が馬鹿になったのかと思うほどに鳴り響いているし、頭に熱が集中しすぎて痛みすら感じる。


 ーーどうしよう。こんなの、どうしたらいいの。


 何か言わないと。そう、「何を言っているのかわからない、私はエルメンガルトだ」とでも伝えて、何も知らないふりをするのだ。

 それなのにこの口が動かない。燃えるような瞳に見つめられると、何もかも投げ出して許しを請いたいと思ってしまう。


 エルネスタは全てを断ち切るように目を瞑った。今はこの役目を全うすること、それだけを考えていればいい。


 口を開こうとすると目の奥が痛んで主張を始める。しかしその熾烈な攻防を制するよりも、イヴァンが次の言葉を落とす方が早かった。


「俺は……わからない。どうして、君を見ているとそんなことを思うのか」


 彼が何を言っているのかわからず、エルネスタは引きずられるようにして両目を開いた。イヴァンの藍色はこんな時でも輝いていて、独り言じみた囁きが星のように降り注いでくる。


「君は一体何者なんだ。そんなはずはないのに……君が来てから、落ち着かない。楽しい、などと思う、なんて」


「……イヴァン?」


 楽しい? 彼は今、楽しいと言ったのか。

 徐々に落ち着きを取り戻してきたので深呼吸してみると、その藍色が浮かべる炎は、先ほどよりもゆらめいているように見えた。


「許されるわけがない。俺は、一人で……行かないと。そうでないと、君は。俺も、あいつらに、かおむけ……」


 朦朧とした言葉は途切れがちになって、最後にはたくましい腕が力を失った。途端に広く分厚い胸がエルネスタの腹のあたりに密着して、金色の髪が肩口に倒れ込んでくる。


「わっ……どうしたの⁉︎」


 慌ててイヴァンの顔を覗き込んでみる。

 すると、彼は精悍な面立ちを緩めてすやすやと寝息を立てているではないか。


「ね、寝てる……」


 エルネスタも力が抜けてしまって、後頭部を枕に沈めることにした。男の体は大きく重かったが、緊張はしてもまったく嫌な感じはしない。


 冷静になってみると、イヴァンからは微かにお酒の匂いが漂ってくる。つまり彼はひどく酔っ払っていて、前後不覚のままここへやって来たという事か。

 エルネスタは意外に思った。彼ほどの戦士でも、お酒に潰れることがあるなんて。


「ふふ……」


 つい笑ってしまって、エルネスタは慌てて口に手を当てた。

 先程言われた事は焦るあまりに殆ど覚えていないが、とりあえず身代わりを問いただすものではなかったようだ。


 楽しい、だなんて。本当にそう思ってくれているなら、こんなに嬉しい事はないのに。

 エルネスタはイヴァンの髪をそっと撫でてみた。その金糸は見た目よりずっとさらさらしていて、ミコラーシュの手触りとも少し違う。


 最後の方の彼のうわごとには、深い苦悩が滲んでいたように聞こえた。せめてこの国王陛下の眠りが安らかなることを。


「おやすみなさい、イヴァン」





 ***



 その夜のラシュトフカは、やけに冷たい風が吹いていた。


 しかし初秋を感じさせる涼風もこの長屋の中には一切関わりがなく、集まった同胞の熱気で満たされている。ランプの炎が揺れ、その灯火に照らされた彼らの表情は、暗い笑みで統一されていた。


 しかしその中に冷静な無表情のままでいる男が一人。二十代後半と思しき年頃で、赤い目に強い意志を宿した青年だ。

 男は一様に座り込んだ男たちを見渡すと、よく通る声を放った。


「作戦については以上だ。何か意見あるか」


 男たちは誰も手を挙げる者はおらず、重々しく頷いて見せた。


「よし、それなら決まりだ。ぬるま湯に浸かった王城の連中に思い知らせてやろう。お前らの考えなんざ知ったこっちゃねえってな」


 短い気勢が上がって、この会合はお開きとなった。

 まとめ役である男は、めいめい解散していくメンバーたちの中で、今回の鍵となる顔を見つけて声をかける。


「カウツキー、もう陳腐な喧嘩は売んなよ。警戒が増すだけだ」


 カウツキーは気まずそうに頷いた。建国祭の祝宴で問題を起こした事は、彼の中でも反省すべき出来事として記憶されているらしい。


「わかっているよレート。私だってこの会の一員だ。もう勝手な行動はしないと誓う」


「ああ、頼むぜ」


 カウツキーはもう一度肯首すると、静かに長屋を出ていった。


 レートというのは夏という意味だ。男は九年前の昨日、一度死んだ。とても暑い日だったから、適当にレートと名乗ることにしたのだ。


 一人きりになった長屋にて、レートは鉄バサミを使ってランプの炎を消す。暗闇に沈む間際に照らされた彼の髪は、赤みがかった銅の色をしていた。






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