飲むや歌わず
エルネスタを衛兵に預けた後、イヴァンが向かったのは自身の執務室だった。すぐさまヨハンを呼び出して、前置きもそこそこに先程の出来事について述べ始める。
「工房からの帰り、何者かにつけられていた」
ヨハンは水色の瞳を瞬き、冷静を失わないまま切り替えしてくる。
「お心当たりは?」
「ありすぎる」
「そうでしょうね。同盟反対派か、それとも何処かの国の間諜か……ご苦労なことです」
宰相の溜息には、こうした状況にも動じない強者特有の貫禄が含まれていた。
「ご無事で何よりです。どの辺りでのことですか」
「一瞬だったな。帰りは大通りを通ったんだが、その間の短い時間だ」
あの時感じた視線の鋭さと気配の消し方は、決して国王夫妻だと気付いた一般市民のものではない。一人ならば追いかけただろうが、エルメンガルトを置いていくわけにもいかず、そのまま歩くことになった。もしかするとその対応を狙ってのことだったのかもしれない。
「なるほど。短かすぎて意図が読めませんね」
ヨハンは難しい顔をして眼鏡を押し上げたが、彼と同じくイヴァンもまたこの事態を読みかねていた。
「王妃様に変わったご様子はありませんでしたか」
「ないと思う。普通に会話をしていただけだ」
そう、変わった様子はなかった……筈だ。いつもの笑顔と、いつもの声。しかしどこか寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
イヴァンはまだ彼女のことをよく知るとは言い難い。その事実がひどく歯がゆかった。
「証拠もない以上、下手に尋問しようものなら国際問題ですからね。厄介なことです」
暗い笑みで物騒なことを言う友を、イヴァンはつい睨んでしまった。
何故だろうか。彼女が害されると思うと、それだけは許せないという思いが湧き上がってくる。
これは自らの感情そのものだ。感情だけでこんな重大事を判断するなど、最も恥ずべきことのはず。それを知っていて、何故……。
思考に沈み込みそうになったとき、奥の扉からミコラーシュが乱入してきた。噛みつかん勢いで何かを訴えてくるので、二人は人狼の姿を取って話を聞くことにする。
[エリーが悪い奴のはずないだろ⁉︎ そんな事、あの子を見てりゃ一目瞭然じゃないか!]
その途端に耳に飛び込んできたのは、苛立ちと焦燥を含んだ言葉だった。
[ミコラ、貴方の言いたいことはわかります。ですがこれは国家の重大事なのですよ。全ての可能性を考えて、一つ一つ確認せねばならないのです]
[お前は優秀な奴だよ、ヨハン。だからこれは一つの意見として受け止めてもらえりゃそれでいい。俺は、エリーはいい子だと思う。何か疑わしい点があるのはわかるけどよ……でもさ、きっとあの子も巻き込まれてんだよ。悪意なんか欠片も持っちゃいないさ]
その主張は全てイヴァンが考えていたことと同じだった。
そう、ミコラーシュの言う通り見ていればわかる。エルメンガルトは他者のために行動し、他者のために心を動かすばかりか、人狼族を知って受け入れようとしてくれている。
そもそも直接の害意があるなら、イヴァンはとっくに襲われているはずだ。いくら隙を見せてものほほんとしている彼女が悪意を持ち合わせているだなんて、もう可能性すら考えていない。
[わかってる。ミコラ、お前の言う通りだ]
[イヴァン……!]
ミコラーシュが驚愕の眼差しを相棒へと向けた。私情を殺し続けてきたイヴァンが感情的な意見を述べるのは、天地がひっくり返るほどに珍しい事なのだ。
甘すぎる自覚はある。しかしそれでも、自分の感じ取ったものを裏切ることができない。
[だからこそ調べなければならない。確実に何か事が起きている以上、遅れを取るわけにはいかないからな]
主君の力強い言葉に、ヨハンも渋々ながら頷いてくれた。
[ヨハン、尾行の件の調査を頼む]
[承知しました]
[王妃について調べは進んだか]
[恐れながら、まだまだですね。ブラルに向けて密偵を送りましたが、最低でも二ヶ月以上は見て頂きたいかと。あとはエンゲバーグ伯を当たってみましたが、そちらは空振りです。あの恐ろしいほど切れる男が、そう簡単に尻尾を出すはずがありません]
想像通りの内容を返されたので特に落胆は覚えない。こうなったらエルメンガルトにそれとなく聞いてみようかと考えて、すぐにやめた。
万が一ではあるが、勘付かれたのを察した瞬間に変な気を起こす可能性がある。もし奥歯に毒でも仕込んでいたらと思うと、抉るような喪失感が胸を満たした。
[陛下はくれぐれもお気を付けを]
[わかっている。油断するつもりはないから安心しろ。あとは今後についての対応だが、まずは王妃の護衛を増やして……]
そこからは長い会談が始まった。
ミコラーシュは途中で飽きて居眠りを決め込んでいる。それでもなお話し込んでいると、唐突に扉が音を鳴らした。
「陛下、少しお時間よろしいですかな」
この声は間違いなくシルヴェストルのものだ。返事をするとやはり英雄が入室してきて、人狼になった二人を見るなり目を瞬かせた。
「おや、ヨハンも。そのお姿はどうなさったのです?」
「ミコラも交えて昔話だ」
大恩ある相手に嘘をつく事は良心が痛まないでもなかったが、この重要機密は知る者が少ないほうがいい。とはいえ、神がかり的な勘の持ち主であるこの男なら、何かしらを察していても不思議ではないのだが。
「それなら丁度良かった。良い酒が手に入りましてな、ご一緒にどうかと思ったのです」
バスケットを掲げてニヤリと笑った将軍を前にして、イヴァンは反射的に時計を確認した。針は既に9時半を回っていて、規則正しい者なら寝ていてもおかしくない時刻だ。
今日はエルメンガルトと夕食を取ろうと思っていたのだが、これではとっくに食べ終えてしまっているだろう。
「いいですね、師匠。こういう時に独り身は気楽なのですよ」
お堅いはずのヨハンも敬愛する師に対しては素直で、ミコラーシュも起き出してバスケットの中身を覗き込んでいる。
帰るとは言い出しにくい雰囲気である上に、イヴァンは久しぶりに彼らと気楽に話したいと思った。
この数年は目の前のことにがむしゃらになるばかりで、支えてくれる者達のことを見ていなかったことに気付いたのだ。
「そうだな。たまにはこういうのも悪くない」
イヴァンたちに習ってシルヴェストルが人狼の姿を取ったことを合図に、ささやかな酒宴が始まった。
*
イヴァンは見た目だけはしっかりとした足取りで廊下を歩いていた。
しかし頭の中はぐるぐる回っていて、正常に物が考えられない境地にまで達している。
実のところ、この国王陛下はあまり酒に強くない。もてなしの席で困らない程度には飲めるが、今日は王城内きっての酒豪二人を相手にしたのだから、分が悪いにも程があった。
幸いにも気分は悪くない。久しぶりに飲んだ酒の味は沁み渡るようで、高揚感を得るのに一役買ってくれた。色々と喋らされたような気もするが、きっと考えすぎだろう。
しかしその浮ついた気分も、寝室の扉を開けた瞬間に吹き飛んでしまった。
バルコニーに佇む妻。月明かりに照らされた後ろ姿はひどく儚げで、瞬きをするうちに消えてしまいそうだとすら思える。
「イヴァン? どうしたの?」
振り向いたエルメンガルトはいつもの笑顔だった。彼女は微笑んだまま近寄ってきて、不安げな色を映した深緑でこちらを見上げている。
ーー君は誰だ。
脳内で幾度となく繰り返した問いが、性懲りも無く浮かび上がった。
話してはもらえないだろうか。知りたいんだ。ブラルの姫君としてではなく、果樹園に行きたいと言った君のことを。
何が好きなのか、何かしたい事はないのか、どうしてどこか悲しそうなのか。
そして、どうして夢の中で謝罪を繰り返していたのか。
助けたい。守りたいんだ。
なぜなら、おれは……。
いつもと同じところで思考が途切れる。イヴァンは見慣れぬ感情の正体を見出せないまま、衝動に従い手を伸ばした。




