たて琴
「使用人ならば客人の引き出しなどには触らないでしょう。つまり、何者かが私の身辺調査をしていると考えるのが普通です」
「……どうしよう。私、日記を書いているの」
「何ですって?」
エンゲバーグは目線を鋭くした。今まで見たことのない表情にエルネスタは肩を震わせたが、彼は目の前の娘が怯えているのに気付いてすぐに謝ってくれた。
「身代わりが露見するようなことを書いていましたか?」
「いいえ、それは書かないように気をつけていたわ。日々の覚書と、復習代わりにしていたの」
深いため息を吐き出したエンゲバーグは、額に滲んだ汗をポケットチーフで拭った。どうやら随分と心臓に悪い思いをさせてしまったらしい。
「貴女様が聡明でよかった。エルメンガルト様にお伝えするために書いて下さったのですか?」
「そうよ。けど、もし見た方がいるなら、ちょっと恥ずかしいわ……」
赤くなって俯いたエルネスタに、エンゲバーグはついと言った様子で笑いをこぼした。
「大丈夫ですよ。お嫌かもしれませんがそのままお書きください。このタイミングで止めてしまうと、あらぬ疑いをかけられかねません」
「わかったわ。それにしても、どこまで知られているのかしら」
想像してみても答えは見つからない。エンゲバーグも断定しかねているようで、腕を組んで難しい顔をしている。
「身代わりの件とも言い切れませんからな。ブラルの内情を探りたい、大使の思惑を図りたい……理由はいくらでも考えられます。とはいえ、私は証拠など残しておりませんから、真相に辿り着くには至っていないでしょう」
「そうなのね。ひとまずは良かった」
エルネスタはほっと息を吐いた。
確かにその通りだ。そもそも身代わりを知られているのなら、二人揃ってとうに投獄されているはずなのだから。
「ただ確実なのは、密偵を操る発言権を持った者が絡んでいるという事です」
「それは……」
そんな力を持つ者は自ずと限られてくる。青ざめたエルネスタに、有能なシェンカ大使は真剣な眼差しを向けた。
「エルネスタ様、どうかくれぐれもお気をつけ下さい。貴女様をご無事にお返しする事は、私の一番の願いなのですから」
*
今日も一人きりの夕食を終え、風呂も済ませたエルネスタは、寝室のバルコニーに出て星を数えていた。
途切れた雲の隙間からこと座が顔を出している。こと座といえば「オルフェウスのたて琴」に登場する有名な星座だ。
愛する妻のエウリディケを亡くしたオルフェウスは、冥王ハーデスの元へ行き、琴を爪弾いて妻を返してくれと懇願した。するとその琴を気に入ったハーデスはこれを許し、連れて帰る間は決して振り返ってはならないと約束させる。
しかしオルフェウスはあと少しというところで妻の顔を見るため振り向いてしまい、エウリディケは冥界に連れ戻され、二度と会う事は叶わなかった。その後、彼は地上を彷徨い歩き続けたという。
神話を語る母の声が思い出されて、エルネスタは手すりに額を押し付けて衝動に耐えた。
本当に自分の愚かさが嫌になる。ここでの暮らしに馴染みすぎて忘れていた。一番に考えるべき事は、この身代わりを成功させる事だったのに。
これではオルフェウスと同じだ。彼は妻を連れ帰ることだけを優先すべきところを、美しい顔を見たい気持ちを抑えられずに全てを失ってしまった。
これでは駄目だ。ここでの暮らしに馴染み、皆の温かさを愛おしいなどと思ってはいけない。イヴァンの優しさを知るたびに、嬉しいなどと思ってはいけないのだ。
不意に扉の閉まる音がして、エルネスタは室内を振り返った。
そこにはイヴァンが立っており、昼間のグレーのチョハを身に纏ったまま、こちらをじっと見据えている。
「イヴァン? どうしたの」
どこかいつもと違った雰囲気を漂わせる彼に、エルネスタは室内へと戻ることにした。
改めてイヴァンの目の前に立つと、かっちりとした衣装に剣を履いたままの彼と比べて、自身の薄い寝巻き一枚の姿が心許なく感じられる。エルネスタは肩にかけたストールを羽織り直して、一対の藍色を見上げた。
イヴァンは何の答えも返してはくれず、その瞳に映るものを読み取ることもできない。
昼間のエンゲバーグとの会話が思い出されて、背筋を冷たいものが降りていく。
「ねえイヴァン、もしかして眠いの?」
エルネスタは不自然なほどに明るく振る舞った。もしかすると彼に知られてしまったのかもしれないという恐怖と後悔が、体を勝手に動かしていた。
「今日も忙しかったものね。それなら、お風呂は明日にしてでも寝てしまったほうがーー」
その続きは悲鳴に取って代わった。
何故なら、エルネスタはイヴァンによって抱き上げられていたからだ。
突然の事に大きく心臓が跳ね、エルネスタは混乱の最中に陥った。重心を失った体が強張り、行き場のない手を胸の前で握り込む。
「な、何……⁉︎ イヴァン、何するの? ねえ……!」
いくら問いかけても、斜め下から見上げる彼の輪郭はピクリとも動かない。そうしているうちに長い足が寝台の側へと辿り着き、エルネスタは不自然なほどの丁寧さで横たえられてしまった。
もはや全くと言っていいほど思考回路が働かないまま硬直していると、今度はたくましい体躯が上からのし掛かってきて、秀麗な美貌が眼前へと迫る。
そして真一文字に引き結ばれた唇が言葉を紡ぐのを、エルネスタは呆然と見つめていた。
「ーー君は誰だ」




