茜色の帰路
太陽がしぶとく燃え上がり、昼間の熱を残した細い階段を橙色に染め上げている。エルネスタは隣を歩く横顔が夕日の色に映える様を見ていられなくて、他愛のない会話をしながらも顔を前へと向けたままでいた。
最終的にイヴァンは他にもたくさんの織物を買ってしまった。明日にでも遣いを出して受け取り、明後日には仕立て屋を呼んで採寸するのだという。
これも必要だ、あれも必要だと言って次々と気遣いを見せてくれる彼に、エルネスタは罪悪感で押しつぶされそうだった。
その心尽くしの衣装に自らが腕を通すことはない。
それは当たり前のことで、こんなに胸が痛むのもきっと気のせいだ。帰りたくないだなんてそんな恐ろしい事、思いつくことすら間違っている。
何のためにここへきたのか今一度考えるのだ。イゾルテを治す以外に大事なことなんてない。それなのにここで暮らしたいだなんて、そんなこと冗談でも考えてはいけない。
エルネスタは曇った思考を無理矢理に追い払い、笑顔を浮かべて隣を仰ぎ見た。
「そういえば、王城では果物を育てているのね。知らなかったわ」
「果樹園は生活圏から少し離れているからな」
不自然な話題転換になってしまったかと冷や汗をかいたが、イヴァンは特に疑問には思わなかったようだ。
「シェンカでは貴族も平民も日々の暮らし自体に大きな差はないんだ。ほとんどの家庭では何らかの野菜や果物を栽培し、時間のある者が面倒を見る」
「それなら、もしかしてイヴァンもアプリコットを育ててるの?」
「時間があるときはな。あとは狩りに出かけることも多い」
あっさりと頷かれてしまい、エルネスタは驚愕に目を見張った。
どうやら今までは目の前の事をやり遂げようと必死で、彼らの暮らしぶりにまでは目がいかなかったらしい。イメージ上の貴族とこうまで習慣が違うとは思いもしなかった。
「女は料理や裁縫を担い、男は休みの日には薪を割って狩りに出かける。得た食材は冬を前に乾燥させて蓄え、雪が降り始める頃には外に出ずとも暮らせるようにしておく。山間の暮らしとはそういうものだ」
「そうだったのね……私、何も知らなくて。ごめんなさい」
エルネスタは肩を落とした。この三週間、出て来たものを深く考えずに食べ、服を作ろうともせず、のうのうと過ごしてしまった。もしかすると皆に笑われていたのかもしれない。
「謝るような事じゃない。何も問題ないさ」
苦笑したような気配を察して再び視線を上げると、そこには優しさをにじませた藍色の瞳があった。
「言っただろう、時間のある者が行えばいいんだ。君は忙しくしていたのだから誰も責めたりはしない。そもそも王族や重要な役を務める貴族は多忙だから、使用人を雇う事が殆どなんだ。俺もなかなかそこまでは手が回らない」
いつしか二人は大通りへと足を踏み入れていた。仕事に出ていた者たちは家路を急ぎ、商店の主人は品物を売り切ろうと声を張り上げる。
賑やかな街が徐々に闇を濃くする中、すれ違う人々は国王夫妻に気付かない。
イヴァンの瞳が活気付く街を映し出す。彼の表情は穏やかで、同時に気高さを宿していた。
「全ては繋がりがもたらすものだと、子供の頃父に教えられた。俺を生かす糧を作り上げるのは民なのだから、この国を良く治める事で恩返しをしなければならない」
それは単純明快なようでいて、為政者の重い理だった。
エルネスタは今更のように理解する。民がこの国王陛下を敬うのは、同時に彼が民を敬っているからなのだと。
「その点、君は十分過ぎるほどによくやってくれている。……だが、その……だな」
その覚悟に感じ入っていると、イヴァンが珍しく言い淀むので、首を傾げて言葉の続きを待った。
「もし興味があるなら……週末にでも、果樹園に行こうか。今はアプリコットが収穫時期だ。ブルーベリーに、桃なんかもある」
言いにくそうに絞り出した声は低い。初めて何かに誘ってくれたように聞こえたのだが、気のせいだったのだろうか。
「……連れて行ってくれるの?」
「ああ」
彼は人に失望しながらも、様々なものを背負った上で人と歩む道を選んだ。その道は荒野でしかなく、石つぶてが転がり枯れ枝が這い、歩くだけで血が滲むような過酷な道程であったはず。
それなのに、人であるエルネスタに人狼族の暮らしを教えてくれるだなんて。
「無理にとは言わないが」
信じられずに何も言えなくなったままでいると、イヴァンは後悔に陰る瞳を逸らしてしまった。どうやら誤解を与えたらしいと理解した口が、自覚するよりも早く動きだす。
「無理なんかじゃないわ! 行きたい。絶対に行く!」
勢い込んで言ってしまってからはたと気付いた。
果物を収穫したいだなんて、まったくブラルの姫君らしくない考え方だったのでは。
「そうか、良かった。ならば行こう」
しかし後からくる躊躇も、この笑顔を見せられてしまっては、心の片隅で消え去ろうというものだ。
エルネスタは夕日に赤い顔が溶け込むように願いながら、心拍数を増す胸にそっと手を当てた。
だから、まったく気がついていなかったのだ。
黄昏時の街に潜むようにして、何者かが二人の姿をそっと伺っていたことなど。
*
王城に着くと、イヴァンは仕事を思い出したと言って執務室へと向かって行った。
自室に帰るとそこには誰もおらず、エルネスタは今のうちに日記を記しておく事にした。鍵を開けて中身を取り出し、羽ペンを使って今日あったことを書き留めていく。
半分ほど書いたところでノックの音が響いた。日記を引き出しにしまい込んでから声を返すと、開かれた扉の先にいたのはエンゲバーグだった。
「エルメンガルト様。少しお時間を頂けますでしょうか」
「いらっしゃいませ、エンゲバーグ伯爵。どうぞ入って下さい」
エンゲバーグは朗らかな笑みを浮かべて、エルネスタの示したラグの上に腰掛けた。彼は地面に座るのは慣れていないようで、自主的に正座の姿勢を取っている。
「ご様子を伺いに参りました。お風邪は良くなられたようで、安心いたしましたぞ」
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫よ」
エルネスタが笑顔で応じると、彼はほっと表情を緩めた。
「今日はいかがでしたかな。外でのご公務は初めてでしょう」
「ええ、ちょっと緊張したけど、一周して見学させていただいたわ。職人さんたちとも話せて、すごく有意義だったと思う」
「それは良うございました。何か変わった事はありませんでしたかな」
特に陛下周りに、と付け加えたエンゲバーグは、心なしか表情が強張っているように見えた。
「ええと……そうね、今日は織物を買ってくださったの。冬用の衣装は今仕立てておかないと間に合わないんですって」
「陛下が、見繕って下さったと?」
「ええ、そうなの。明後日にも仕立て屋を呼んで下さるそうよ」
エルメンガルト様は気に入って下さるかしら、と言いそうになって、エルネスタは慌てて口を閉ざした。身代わりが露見するような事は極力口に出すべきではない。それがたとえエンゲバーグと二人の時であっても。
「後は……そうね。陛下が、果樹園に連れて行って下さると」
「ああ、王城の果樹園ですか」
「シェンカでは王族でも果物を育てたり、他にも日々の仕事をこなすと教えて頂いたの。ちゃんと見て、覚えてくるわね」
エルメンガルト様が困ることのないように。言外にそう付け足せば、エンゲバーグは何故か切なげに眉を下げた。
「ご立派に職務を果たされながら、随分と楽しそうにお笑いにいなる。まさか貴女様は、イヴァン陛下を……」
そこで不自然に言葉を途切れさせたエンゲバーグは、いえと首を振ってこの話題を打ち切った。エルネスタはその憂いを含んだ表情に心配の念を募らせていたのだが、彼の次の発言は驚くべきものだった。
「本題です。もしかすると、我々の企みに勘付いた者がいるやもしれません」
その囁き声ははっきりと耳に届いて、エルネスタは両目をこれ以上ないほどに見開くことになった。
「どういう、こと……⁉︎」
「まだ疑いでしかありませんが、引き出しの中の物がやや動いていたのです。そうと分からぬほどの小さな変化ではありますが、私は記憶力には自信がありますゆえ」
「つまりそれは、誰かが引き出しの中を探っていたということ?」
エンゲバーグははっきりと頷いた。エルネスタは目の前が揺れるような心地がして、爪が食い込むほどに両拳を握りしめた。




