辺境の町娘 2
「本当ですか……!?」
今度はエルネスタが声を上げた。
一年前から床に伏せるようになった養母の痩せた顔が思い出されて、同時に雲間から光が差すような心地がした。
「どんな望みでも叶えてやれと、陛下より仰せつかっております。エルネスタ様が頷いてくれさえすれば、明日にでも遣いを出して、最も優秀な薬師を手配いたしましょう」
「わかりました。引き受けさせて頂きます」
二つ返事だった。母の命が助かる可能性があるなら何だってできる。どんなに危険な計画だって、どんなに無茶な使命だって構わない。
「何言ってる、エリー! この男の言う事を鵜呑みにする気か!?」
これに異を唱えたのは、やはりブルーノだった。
エルネスタは毅然と強面を見据えた。何を言われても、どれほど敬愛する父を悲しませることになっても、一歩も引くつもりはなかった。
「父さん、母さんが治るかもしれないのよ。それも今までで一番可能性のある話だわ」
「駄目だ、身代わりで結婚だなんて! しかも相手はあのシェンカの国王なんだぞ!」
シェンカの国王といえば、非情なる人狼王として悪い意味で有名である。
戦場では悪鬼の如しと恐れられ、部下を死地に向かわせることに何のためらいもない無慈悲な国王なのだと。
「そんなことどうだっていいわ。私の身に何があったって、母さんの命には代えられないもの」
娘の覚悟を感じ取って、ブルーノは一瞬口を噤んだようだった。
しかし納得したわけではなかったらしく、すぐに怒りに燃える瞳で睨みつけられてしまった。
「この馬鹿娘! そんなことで助かって、母さんが喜ぶわけないだろう!」
「そう、自己満足よ。母さんには身代わりの話は伝えないんだから、それでいいでしょ?」
「そういう問題か! これはお前の命に、そうでなくとも将来に関わる話なんだぞ!?」
それは店全体を震わすような怒鳴り声だった。きっとイゾルテの寝室にまで響いたことだろうが、内容までは聞こえなかったと思いたい。
ブルーノの心配が痛いほどに伝わってきて、エルネスタは目の奥が熱くなるのを感じた。
今この状況にあって、イゾルテのためにその身を捧げよと言われない事が苦しい。ブルーノからすれば女房の命より優先すべき事なんて無いはずなのに、義理の娘と天秤にかけて苦渋の決断を下したのだ。
充分だ。この大好きな両親は、後に産まれた弟と同じだけの愛情を注いでくれた。
返さなければ。今まで受けた恩を考えたら、これくらいのことでは足りないけれど。
「私は母さんに命を救ってもらった。だから、今度は私が母さんを助ける。可能性が百でなくてもいい、できる事はなんだってする。父さんが何を言ったって、絶対に止めるつもりはないわ!」
見事としか言いようのない啖呵が白熱した空気を吹き飛ばしてしばらく、ブルーノはエルネスタから目をそらして深い溜息をついた。それは自らに言い聞かせるための重さを伴っていた。
「……それなら勝手にしろ。俺は育て方を間違えたらしい。最後には自分のことを優先するよう言い聞かせておけばよかった。もっと人並みに狡く、柔軟な子だったなら、こんな事にはならなかったのに」
自嘲と冗談が入り混じったような呟きに、エルネスタは胸が一杯になってしまった。
心配をかけることを謝りたいのに、上手く言葉に乗せる事ができずに口を閉ざす。そうしているうちにブルーノは顔を上げて、エンゲバーグを睨み据えていた。
「三ヶ月だ。たとえエルメンガルト様とやらがみつからなくても、三ヶ月で絶対に返してもらう。いいな」
これ以上は絶対に譲らないという威圧感に、エンゲバーグは飄々と頷いた。
「構いません。必ず見つけ出しますゆえ」
ブルーノは未だに眼光を鋭くしていたが、それ以上否やは唱えなかった。
店から居住スペースに繋がる扉を開けると弟が待ち構えていたので、エルネスタはもう少しで声を上げるところだった。
「びっ……くりした。コンラート、あなた聞いて」
「ばっかじゃないの!? 姉さんって、なんでいつもそうなわけ!?」
コンラートは今年で十五歳。固そうな短髪と知的な目元が両親それぞれにそっくりの、利発なかわいい弟である。彼はエルネスタの出生の秘密も知っていて、それでも姉と慕ってくれているのだ。
きつい物言いはいつもの事だったが、ここまで激昂しているのを見るのは初めてで、エルネスタはどうしたものかと足を止めた。
「そうやって遠慮ばっかりしてさ……! このかっこつけ!」
「コンラート、聞いて。私は」
「知らないよ! 自己犠牲を良しとするなら、勝手にしたらいいんじゃないの!?」
いつの間にこんなに大人びた言い回しを覚えたのだろう。まだまだ子供だと思っていたのに、背の高さもいつしか追い抜かれてしまった。
この弟は労りを言葉に乗せることは少ないのだが、本当は心優しいことを、エルネスタはよく知っている。
「お願いよ。母さんのこと守ってあげて」
「言われなくてもそうするよ! 馬鹿!」
顔を真っ赤にして叫んだコンラートは、足音荒く家の外に出て行ったようだった。
喧嘩別れのようになってしまった事に心を痛めつつ、エルネスタは再び歩き出す。母にしばしの別れを告げるために。
ノックをしてから部屋に入ると、イゾルテはすっかり目を覚ましていて、ベッドに起き上がってエルネスタを迎えた。
「エリー、一体何があったの。大丈夫だった?」
寝巻きから覗く腕と首は骨と皮だけになっていて、エルネスタはそのやつれ方に不安を覚える。
病床に伏していてもイゾルテは綺麗だった。一つにまとめられた栗色の髪も、輝きを失わない青い瞳も。エルネスタの持つ色とは違うそれらが、今は酷く遠く感じられた。
もうきっと残された時間は多くない。今回のことで治療の可能性が垣間見えて、本当に良かった。
「大丈夫よ。父さんがお客さんと喧嘩してただけ」
「もう、お父さんは血の気が多いんだから。それで、喧嘩は終わったの?」
「うん。両方納得したみたい」
ここまでは嘘ではない。しかし明らかにホッとした様子の母を前に、エルネスタは胸が張り裂けそうな程の痛みを感じた。
「母さん。実は私、奉公に出ようと思うの」
イゾルテは目を見開いた。いきなりの話題に驚かせてしまったことを詫びたエルネスタは、ベッドの側の椅子に腰掛けて、やせ細った手を握る。
「と言っても三月だけなんだけどね。この店も忙しくなっちゃうけど、許してもらえる?」
違う、本当は皇帝陛下の使者が来たのだ。ここまで育ててくれたイゾルテには、本来ならば包み隠さず話さなければならないのに。
「エリーあなた、無理をしているわね」
心中を言い当てられてしまったエルネスタは思わず手を強張らせた。その小さな動揺は確実にイゾルテへと伝わってしまっただろう。
「一体どうしたの。私の治療費のことなら、あなたが気にすることじゃないって前にも言ったはずよ」
この鍛冶屋はそれなりに儲かっている。今のところは薬代に困ったことはなく、だからこそ治らない事が歯痒かった。
エルネスタが病身の母を残して無意味な奉公に出るはずがない。イゾルテは娘の性格をよく理解していて、きっと突然の申し出に違和感を感じているのだろう。
「うん、だからそういうわけじゃないわ。ちょっと北方で染織の勉強をしてこようと思って」
「北方?」
「そうよ。北の民族は技術が凄いって聞くでしょ? ずっと行ってみたかったの」
とっさの嘘にしては上出来とはいえ、不自然な申し出の理由付けにはいささか心もとない。当然イゾルテを信じ込ませるには説得力が足りなかったようで、彼女はしばらく娘の瞳を見つめると、最後には苦笑を零したのだった。
「もう決めたみたいね。いいわ、いってらっしゃい」
「……いいの?」
「ええ。可愛い子には旅をさせろって言うしね。あなた決めたら引かないんだもの」
私の良くないところが似ちゃったわね、とイゾルテは笑う。エルネスタは罪悪感と寂しさと、今までの感謝やいろいろな感情がごちゃ混ぜになって、訳も分からないまま視界が滲むのを感じた。
私がいない間に、最高の薬師とやらは母さんを治してくれるのだろうか。
もし駄目だったら? 私がいない間に、万が一のことがあったとしたら……?
違う。それは考えてはならない可能性だ。たとえ母の最期に立ち会えなかったとしても、エルネスタは行かなければならない。
そうでもしなければ、決して返しきれる恩ではないのだから。
「ねえ、母さん。どうして私のこと育ててくれたの? なんでそうまでして、助けてくれたの?」
イゾルテは殺される寸前の赤子を救ったことで、宮殿を辞さなければならなくなった。学問の国の最高研究機関で働いていたのに、大好きな天文学者の仕事も捨て、弱冠二十歳の若者が他人の子を背負って街に出たのだ。エルネスタにその頃の記憶は無いが、想像を絶する苦労があったに違いない。
娘の真剣な瞳に思う事があったのか、イゾルテは少し居住まいを正したようだった。相変わらずその顔には優しい笑みを乗せていたけれど。
「うーんそうね。姫様の……ええと、今の皇后さまの講師もやらせて頂いてたから、あの方が悲しむのを見たくなかったっていうのは大きいかな。まあ何より、可愛かったのよね。あなたが笑ってたから」
これから死ぬ運命であることも知らず、その赤子は無邪気に笑っていたらしい。
こんなにも純粋な命を大人の都合で消し去ろうとする傲慢。それが何よりも許せなかったのだと、イゾルテは苦笑した。
ああなんて、母さんらしい動機なのだろう。
母親として、女性として、それ以上に人として尊敬できる人だと思う。
この人に育ててもらえて良かった。自分は多分、この世で一番の幸運の持ち主だ。
生きていて欲しい。たとえ自らがどんな目にあったとしても。
「母さん。私、頑張るからね。だから母さんも頑張って」
決意をもって告げると、イゾルテもまた力強く頷いてくれた。
「ええ、ありがとうエルネスタ。いい? 苦しくなったら星を数えるの、そうしたら」
「自分の悩みのあまりの小ささにどうでも良くなっちゃう、でしょ? わかってるわ」
娘がしたり顔で天を見上げる動作をして見せるので、イゾルテもまた満足そうな笑みを浮かべたのだった。




