工房へ 1
エルネスタは今、ダシャによって髪をくしけずられていた。年若い侍女は頬を赤く染めながらも、懸命に手を動かしている。
「あ、あの、王妃様。先程は大変失礼致しました。私ったら、今までも無遠慮に扉を開けてしまって……陛下は早起きでいらっしゃいましたから、お会いする事がなく完全に油断しておりまして。ですが陛下とて、ゆっくりなさりたい時もありますよね。ご夫婦の朝を邪魔しちゃいけませんよね! 私、これからはちゃんとお返事を聞き取ってから開けるようにいたします! ですからご安心ください。朝からたっぷりいちゃいちゃをーー王妃様? あの、どうかなさいましたか?」
少女の口上はかなり恥ずかしい内容に仕上がっていたのだが、残念ながらエルネスタの耳には入ってこなかった。心配そうに顔を覗き込まれてしまい、そこでようやく意識を取り戻す。
「……ああ、ダシャ。どうしたの?」
「王妃様こそどうなさったんですか? 心ここに在らずと言ったご様子ですけど」
「それはその、ちょっと思い出してしまって……」
呆けていた原因を素直に口走るわけにもいかず、エルネスタは言葉尻を濁した。
初めてだったので酷く動揺してしまったが、いい加減切り替えないと。嫌じゃなかったんだから……。
ーー嫌じゃなかった?
自分の思考のはしたなさに、エルネスタは一気に頬を染め上げた。するとダシャは何を思ったのか、主と同じくらい赤くなって、鏡の中でつと目を逸らす。
「私ってば、また失礼なことを……申し訳ありません」
「どうしたの? 謝るようなこと言ったかしら」
「とんでもなく無神経な質問でした。反省します」
よくわからないが謎の納得を得たらしいダシャは、以後は黙々と手を動かして髪を整えてくれた。三つ編みとリボンを絡めて一つにまとめた髪型は、艶やかな髪を持つエルネスタによく似合っていた。
「ありがとう、ダシャ。本当に上手ね」
「えへへ。王妃様の御髪が綺麗だからですよ」
ダシャは道具を片付けながら、そういえばと言葉を続けた。
「本日は機織り工房の視察の予定がございます」
機織り。その言葉を聞いて、エルネスタは目の奥を輝かせた。
何を隠そうエルネスタは、家を出る言い訳に使うくらいには染織が好きで、この国の生地には大層興味があったのである。
「外でのお仕事は初めてだわ。頑張らないと」
どうやら好奇心に身を滅ぼされないよう、気をつける必要がありそうだ。
*
昼食を挟んだ午後。エルネスタは今、イヴァンと二人で街中の階段を歩いていた。
シェンカでは織物や工芸品が盛んに作られている。大陸の西と東を隔てるこの地では、独特の文化様式が形成されており、その意匠はどこかエキゾチックな風情を醸し出す。
エルネスタはこの国の衣装や家具、そして食事など、あらゆる物をすっかり気に入ってしまっていた。だからその素敵な品々が生み出される現場を見れるとあって、すっかり上機嫌だ。
「随分楽しそうだな」
「ええ! 楽しいもの」
青色のアークリグは光を反射し、階段を登るたびにさらさらと舞う。その様にも気分を高揚させたエルネスタは、煌めく瞳を周囲へと巡らせた。
石造りの町並みは夏の陽光に映えて白く浮かび上がっている。吊るされた洗濯物は色鮮やかで、行き交うひとびとの表情は日差しに負けない程に明るい。
シェンカの王都ラシュトフカは山間に位置する防衛都市。急峻な山に囲まれたこの地では、やはり街中でも坂や階段が多く、乗り物に乗る習慣が存在しない。そもそも彼らは人狼なので、変身して走っていけば一番早いというのも理由なのだそうだ。
今もまた一人の人狼が階段を駆け上がってきて、国王に気づいて帽子を取る。
「陛下、こんにちは」
「ああ」
随分と軽いやりとりだ。先程から感じていたことなのだが、彼らは気楽に国王と挨拶を交わす。驚いている内に、男は笑顔で走り去っていった。
疲れを感じさせない鋭敏な動作に感心していると、目の前に分厚く硬い皮膚に覆われた掌が差し出された。
「目移りしすぎて転びそうだ。掴まっておけ」
いちいち動悸を速める心臓を憎らしく思いつつ、エルネスタは礼を言ってその手を取った。
大丈夫。平常心さえ保てばなにも問題はない。
いくらなんでも今朝のことを引きずり過ぎなのだ。イヴァンからすれば挨拶程度なのだろうし、いちいち気にしていたら身がもたない。
先を行くイヴァンはエルネスタの手をしっかりと掴み、これならば転ぶことはないという安心感をもたらしてくれる。じっと灰色のチョハを纏った背中を見つめていると、彼はこちらを見ないまま言葉を投げかけてきた。
「徒での移動は、辛くはないか」
表情は見えなくとも、そこに気遣いが込められていることはすぐに分かった。
「大丈夫。いろんなお店や、暮らしぶりに……街並み全部綺麗で、珍しくて。楽しくて仕方ないくらい」
嘘偽りない本心を語る声は弾み、夏の色を映した瞳を輝かさずにはいられない。
この街を見ていると、イヴァンがいかに心血を注いで治世を行なっているのかがよくわかる。
飢えた様子の者は一人として見かけないし、店先に並ぶ商品も品数豊かで賑わいを見せている。街にはごみがほとんど落ちておらず、少しの異臭もしない。一定年齢以上の子供を見かけないのは、例外なく全ての民に学校が開かれているからだ。
「素敵な街だわ。なによりも皆の笑顔が一番素敵」
微笑んでそう告げると、イヴァンは身をひねって横顔でこちらを流し見た。
「そうか。君にこの街を褒めてもらえるのは、嬉しいものだな」
そんな風に優しく微笑むのはやめてほしい。心臓がもたないから。
赤くなった顔を伏せると、イヴァンもまた前を向いて歩き始めた。エルネスタはそうと気取られぬように深呼吸をしてから、意識して話題を変える。
「ねえ、イヴァンは護衛をつけないの?」
これは以前から気になっていた問いだ。
貴人は常に護衛を付けるもの。ブラル皇族は城の中ですら一人では歩かないのだと聞いたことがある。
「ああ。いくら王侯貴族といえど、人狼族の男はいちいち用心棒など雇わないんだ。そんなものを側に置くということは、自らが武で劣ると看板を下げて歩くようなものだからな」
その考え方はあっさりと納得することができた。人狼の戦士らしい理屈だし、実際イヴァンならばどんな相手でも倒してしまいそうだ。そういえば今日の彼はしっかりとした剣を腰に下げているので、もしもの時への備えは万全ということなのだろう。
けれど、エルネスタは嫌な想像に眉を下げた。
「でも、イヴァンは国王陛下なのに……危ない目にあったことはないの?」
「なんだ、心配してくれるのか」
「当たり前です。心配くらいするわ」
その時、イヴァンは急に足を止めた。何事かと思えばちょうど階段が終わったところで、エルネスタは自らの息が弾んでいることにようやく気付く。
「……少し休むか。登りばかりで苦しいだろう」
「ううん、大丈夫よ」
「時間ならある。座ろう」
結局、程近くにあった石造りのベンチに腰掛けることになった。
エルネスタは山歩きをよくしていたので、体力には自信がある方だ。しかし姫君ならばとうに音を上げているような道のりだったのかもしれない。
ひょいひょい登りすぎたかと後悔していると、イヴァンがおもむろに話し始めた。
「先ほどのことだが」
「はい」
「心配してもらったこと、嬉しかった。礼を言う」
エルネスタは驚いてしまって、急いで隣を仰ぎ見た。前を見る横顔はこちらをちらりとも伺うことはなかったが、よく見ると耳のあたりが赤くなっている。
そういえば建国祭の折に緊張の取れるまじないを教えてくれた時も、こんないかめしい表情をしていたような。
「もしかして……照れてる?」
「照れてない」
「嘘。絶対照れてる!」
「照れてないと言ってるだろ」
イヴァンは語気を強めたが、一切こちらを見ようとしない横顔も、最早まったく恐ろしく感じない。
申し訳ないと思いつつ、エルネスタは小さく吹き出してしまった。
「……何を笑っているんだ」
彼はようやく目だけでこちらを見たが、その恨みがましい視線も笑いを誘発する種になった。
本当に律儀なひと。こんなに照れ屋のくせに、わざわざお礼を言うなんて。
もしかすると、過去にそっけなかったその時々も、彼は照れていたのかもしれない。そこまで思い至れば胸が温かくなって、笑いを収めることができなくなってしまう。
「ご、ごめんなさい、つい。何だか嬉しくて……ふふっ」
「そんなに元気なら、もう行くぞ」
せめてと口元に両手を当てて笑っていると、たまりかねたイヴァンがついに立ち上がった。エルネスタはわざと朗らかに返事をして、広い背中に着いて歩き始めるのだった。




