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 神さまどうか、この優しい人狼王を救って下さい。

 私の残虐な偽りという罪を罰して、切なる願いを聞き届けて下さい。

 私はどうなってもいいから。未来永劫業火に焼かれ続けても構わないから、どうか。


 次から次へと涙が溢れ出て、我慢しようとすら思えなかった。それくらい自分が情けなかったし、自らの醜い感情を上回るほどに、この国王陛下に幸せになって貰いたかった。


 ふいにぐちゃぐちゃになった顔が灰色の寝巻きに押し付けられ、エルネスタは汚れてしまうと反射的に腕をついた。しかし背に回された腕は有無を言わさぬ力を持っていて、更に強く抱きしめられてしまう。


『私は、王妃様ならば陛下をお支えくださると思っております。お仕事だけではなく、あの方のお心こそをお支え頂きたいのです』


 厳しくも優しい侍女長の言葉が蘇って、何も言えずにかぶりを振った。


 ーー駄目なのよ、ルージェナ。私にはこの方を支えることなんてできない。偽りで塗り固めた私にそんな資格はないんだもの。


 イヴァンは人と関わることをやめずにいてくれた。それなのに一番身近な人間であるエルネスタが裏切っていただなんて、冗談にもならないほど酷い話ではないか。

 だからエルネスタには何もできない。彼を幸せにすることも、救うことも、安らぎを与えることも。決して望んではならないのだ。


 エルネスタは目を閉じて、広い胸に縋り付く。手が白くなるほど灰色の生地を握りしめ、ひたすらに祈りを捧げ続けるのだった。


 *


 目を開けたらやたらと端正な顔が間近にあったので、エルネスタの心臓は危うく止まるところだった。


「……ああ。おはよう、エリー」


 眠そうに目を細めたイヴァンは、いつにも増して色気に満ちていた。


 真冬の夜を思わせる美貌も、夏の朝に至ってはどこか温かみを含んで見えた。朝日に透ける金の髪は少々乱れ、寝巻きから覗く鎖骨が濃い影を落としている。紡ぐ声は掠れて低く、寝起きの気だるさを象徴するかのようだ。


「おはよう……?」


 正直に言って艶めかしさの面で完全に負けている。敗北感に苛まれつつ挨拶を返してみたものの、頭はまったく着いて来なかった。


 そうだ、昨夜はバルコニーで彼の昔話を聞いたのだ。それから眠った覚えなどないのに、一体何がどうしてこうなったのだろうか。

 イヴァンは普通なら先に起きて、さっさと出て行ってしまうはず。それなのに二人して寝台に横になってーー。


 エルネスタは一気に赤面した。

 抱きしめられたまま眠っているという、とんでもない状況にようやく気付いたのだ。


「な、なんで……⁉︎」


「君が離してくれないからこうなった。お陰で俺は眠りが浅かった」


「えっ⁉︎ ごめんなさい!」


 イヴァンは恨み言を口にする割に、面白いのを我慢している顔だ。しかしエルネスタは慌てるあまりにその表情には気付かない。

 そこで追い討ちをかけるようにノックの音が響く。その軽快な音が意味する事態に思い至れないまま、無情にも扉は開かれていった。


「おはようございます、王妃様! 今日も良いお天気で、す……」


 ダシャの朗らかな声は、顔をのぞかせた段階で不自然に途切れた。


 動じた様子もなくどこか気怠げなイヴァンと、中途半端な表情のエルネスタと、笑顔のまま動かなくなったダシャ。鳥の囀りだけが聞こえる静寂を過ごしたのち、一番に動き出したのは若き専属侍女だった。


「へ、へ、陛下あっ! 申し訳ございません、まさかいらっしゃるとは思わず……わ、わたし、その……し、失礼いたしましたあ!」


 真っ赤になってまくし立てたダシャは、大慌てで扉を閉めて去って行った。


「相変わらずやかましい娘だ。あいつにそっくりだな」


 よくわからない事を言いながら、イヴァンは欠伸をして起き上がった。エルネスタもまた彼に倣って上半身を起こし、正面から向き合うことにする。


「行ってしまったわ……あんなに狼狽えなくても」


「二人揃っているのが初めてだったから、誤解したんだろう」


「誤解……?」


 噛みしめる様につぶやくと、その言葉の示すところが脳内に徐々に浸透して行った。


「うあ……⁉︎」


 よくわからない呻きが口からこぼれ出た。赤くなった顔を隠そうと、殆ど無意識に頬に手のひらを当てる。


 ーー違う、違うのよダシャ。そんなことしてないってば!


 消えてしまいたいほど恥ずかしかった。

 それと同時に、なんというか、色々と申し訳ない思いがしたのだ。

 役目のせいで絶対に回避しなくてはならないものの、今まで一度も求められたことなどないというのに。


「エリー。俺は君が拒む理由を聞かないことにする」


 突如として真相を突かれてしまい、エルネスタは今度は顔色を青くした。何を、とは聞かなくとも流石にわかる。今まで拒むようなことは口にしていないはずなのに、どうして知っているのだろうか。


「それだけ青ざめていたら誰でもわかる。もう心配するな。人狼の戦士は女に無理強いはしない」


 心を読んだかのように答えを返されて、エルネスタは開いた口が塞がらなくなった。

 願っても無い心遣いだが、本当に良いのだろうか。国王には跡取りが必要な筈で、その務めは王妃の最大の義務ではないのか。


 疑問が顔に出ていたようで、イヴァンはすぐに答えをくれた。


「無論、ずっとというわけにはいかない。期限がいつと決めるつもりはないが……まあ、できる限り長く取るように努力しよう。俺なりにな」


 俺なりに、というところに妙な力がこもっていた気がしたが、どういう理由かはわからなかったので指摘しないでおく。

 エルネスタには気にかかることがあった。今の話でいくと、イヴァンはこれまでも待っていてくれたという事になる。


「じゃあ、愛人がいると思っていたのは、私の勘違い?」


 ついぽろっと口に出してしまったら、イヴァンは露骨に変な顔をした。


「なんだそれは。いる訳ないだろう、そんな面倒なもの」


「面倒なの? 男のひとは愛人を囲いたがるものなんでしょう」


 先に結婚した友人たちは夫の浮気が心配だとか、最近怪しい動きをしてるとか、そんな話をよくしていたものだ。

 それに、ブラルの貴族間では男の二心など日常茶飯事だという。以前イゾルテが語っていたところによれば、宮殿に漂う軽薄な風潮には馴染めなかったのだと。


「ブラルの常識は知らないが、シェンカでは結婚すれば慎むものだ。王族においては公妾を囲うこともあるが、それもあまり褒められたことではない。人狼族は基本的には恋愛結婚だからな」


「恋愛結婚……」


 知らなかった。シェンカではそういう考え方が浸透していたのか。

 ブラルでは庶民もお見合い結婚が一般的だからこそ、とても素敵なことのように思えた。自由に恋をして、好きな人と結婚する。自然を愛する人狼族らしい考え方だ。


 それに、これでイヴァンの覚悟をまた一つ知ることができた。彼は恋愛結婚が主流の中、国のために政略結婚を選んだのだ。


「そうだったのね。それなら、何か私にして欲しいことはない? 代わりにというわけじゃないけど、何でもするわ」


 せめて彼に何かを返したい。これだけの温情をかけて貰って、受け取るばかりでは気が済まない。

 エルネスタは胸を張って返事を待った。しかしイヴァンは困ったように頭をかき混ぜて、額にかかった髪の毛を後ろに追いやってから、俯いて深い溜息をついている。どんな仕草もいちいち様になるのが羨ましい。


「何でも?」


「ええ、何でも!」


 傾いだ瞳に問われて、自信満々で肯首した。

 するとすぐさま腕が伸びてきて、エルネスタの手より二周りも大きいであろうそれが頬を包んだ。何をと問おうとしたが、やけに強い光を灯した藍色の瞳に絡め取られて何も言えなくなる。


 それは刹那の出来事だった。


 唇の端に触れた柔らかい熱。それが何なのかを理解する前に離れていったのを、エルネスタは身じろぎひとつできないままに感じ取っていた。


「何でもする、などと軽々しく口にするものではない。特に君のような美しい女は」


 眼前の美貌が苦笑に歪む。頭は全機能を放棄してしまったかのように真っ白になっていて、その言葉の意味を思い知ることすらできない。


「これで解ったかな。奥方様」


 実のところ何も理解していなかったのだが、問われたという事実だけを解釈した頭が勝手に前後に揺れた。

 それだけで一応の満足を得たらしいイヴァンは触れる手を離し、ついに寝台から立ち上がった。


「俺はもう行かねばならない。また後で」


 また頭が勝手に揺れる。部屋の扉が開閉する音が届いたが、それでも動くことができなかった。

 鳥の囀りが聞こえる。今日も本当にいい天気のようだ。うん、これなら色々とできることがありそう。洗濯とか、掃除とか……。


「わあぁーーーーーっ!」


 エルネスタは情けない悲鳴をあげて布団の中に潜り込んだ。


 史上最高と思しき熱を帯びた頬が熱くて仕方がなかったが、もう二度とここから出たくない。ダシャが恐る恐る様子を見に来るまで、エルネスタは簀巻きにされていたのだった。

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