夜のしじま
どれほどの時間そうしていたのだろうか。華奢な体が自分のそれと同じ温度を帯びた頃になって、エルメンガルトはようやく泣き声を収めた。
背を撫でていた手を止めたイヴァンは、わずかに身を離して、そっとその細面を覗き込む。
すると彼女は小さな寝息を立てているではないか。
イヴァンは拍子抜けしてしまって、緊張に強張る体から力を抜いた。
「……大物だな。この状況で、しかも立ったまま眠れるとは」
皮肉交じりの独り言だというのに、その声音は自分で思っているよりも優しく響いて、思わずぎょっと口を噤む。
イヴァンは眉間をもんで、心の中で落ち着けと念じた。
近頃少し緩みすぎている気がする。明日もいつものように仕事が待っているのだから、そろそろ眠らなければならない。
起こしても可哀想だし、運んでやるか。
独りごちて抱きかかえようとしたイヴァンは、その時ある事に気が付いてしまった。エルメンガルトの華奢な手が、イヴァンの胸元を掴んで離れないのである。
違和感が頭の隅を掠めて行ったのは、その瞬間の事だった。
なんだろうか。そのしなやかな感触に、どこか覚えがあるような気がする。
何の根拠もない思考に、イヴァンはそんなはずはないと首を振った。彼女とは彼女がこの王城にやってきた時が初対面だ。
早く寝てしまおう。妙な事を考えるのは、思い出話のせいで気が昂ぶっているからだ。
狼一匹いない寝室はしんと静まり返っていて、ランプが揺れる様だけが暖かみをもたらしている。
イヴァンはエルメンガルトの体を寝台にそっと横たえた。それでもなお手が離れないので、自らも彼女の側に身を沈める。
ランプの明かりに照らされた寝顔は涙の跡が痛々しく、寝巻きの袖で頬をぬぐってやった。
こうして改めて眺めてみると、なんとも可愛らしい顔立ちをしている。
ツンと尖った鼻も桃色の唇も年頃の娘らしい丸みを帯びていて、ブルネットの髪は透明感があって艶やかだ。溌剌とした輝きを宿す深緑の瞳が閉じられていても、その愛らしさは失われるはずもなく、むしろ無防備なぶん違った魅力が増すようにすら見える。
この美しい人を奪ってしまっても、何ら問題は無いはずだ。
それなのに、先程この部屋に現れた時の彼女の怯えた様を思い出すと、頭の中に警鐘が鳴り響く。
思えば最初の夜からそうだった。エルメンガルトは緊張と恐怖と、そして何か得体の知れない不安をないまぜにした瞳でこちらを見つめていた。
ーー君は一体何者だ。
ブラルの姫君が人狼に嫌悪感を抱かないはずはない。かの国は封建的で、蛮族とみなした種族を一緒くたにして嫌うのだ。
初めて同盟の交渉に出向いた時、連中がなんと言ったかは未だに覚えている。
『満月の夜に変身が解けなくなるなんておぞましい。まるで呪いだ』
いつもは口うるさいヨハンですら、帰路では沈むような怒りを持て余していた。剣を交えたことのないブラル相手でも、人間とはそれくらいに遠く離れた存在であったはずだ。
それなのにエルメンガルトだけはこんなにも近い。イヴァンのために泣き、イヴァンの目の前で笑う。
彼女は本当にブラルの姫君なのだろうか。エルメンガルト本人だったとして、本当に相応の環境で育てられたのだろうか。
わからない。この感情は何だ。彼女を見ていると、胸をかきむしりたくなるような気持ちになる。
ふと寝巻きを鷲掴みにする小さな手に視線を移した。そのか細い指が、姫君としてはあり得ないはずの労働の跡を残している事には、少し前から気付いている。
この人のことを守らなければならないからこそ、まだ聞けない。こちらが勘付いたこと自体が、彼女の命を危うくする事態に発展するかも知れないからだ。
その時、エルメンガルトが身をよじった。起こしてしまったかと慌てたのもつかの間、彼女はイヴァンの胸に頬を寄せて、再び深い寝息をたて始める。
ーーもう勘弁してくれ。
心の中で泣き言を連ねながら、イヴァンは観念して細い背中に腕を回した。この人が安眠できるなら、多少の我慢は不可能じゃない。ああ、そのはずだ。
夜は未だ明ける気配を見せず、狼の鳴き声一つしない暗闇は静かな息遣いで満たされている。腕の中の体温を心地いいと感じながら、イヴァンはそっと目を閉じた。




