戦火の過去 3
空気を裂く轟音に遅れて、砲弾が石の混じった砂を巻き上げた。
不明瞭な視界でも隣にテオドルの気配を感じる。しかしこの男も赤銅色の毛並みを血に濡らしていて、刃こぼれしたジャンビーヤを持つ腕をだらりと垂れ下げていた。
イヴァンも似たようなものだ。さっきから左腕が嫌に痛むし、脇腹もなんとなくずきずきする。
敵の総大将の首級を挙げたと報告が上がったのはつい先程のこと。ここを撤退してしまえば終わり。そうすれば辛くもシェンカの勝利として終戦に向かうことができる。
それを解っているから、連中はせめて王子の首を取ろうと必死になっている。
ここでは死ねない。もしそうなれば形勢が拮抗し、また元の戦況に引き戻されてしまう。
イヴァンは鉛のような腕を振って目の前の敵兵を斬った。今までどれほどの敵を屠ってきたのか、それすらもわからない。
「イヴァン! 動けるんだろ⁉︎ 先行け!」
土煙の向こうで闘志を失わない赤い瞳が燃えているのが見えた。その強い意志に背筋が冷えるような思いがして、イヴァンはロングソードを一閃しつつ怒鳴り返す。
「馬鹿言うな! お前は本当に馬鹿だな! その体でどれほどの時間持つんだ、かっこつけのつもりか⁉︎」
「馬鹿馬鹿連呼すんじゃねえええ! お前王子だろ、こういう時は部下にしんがり命じてさっさと行けえ!」
どこにそんな力がと思う程の勢いで体を押された。すると先程までいた場所に砲弾が降り注いで、友の姿を覆い隠してしまう。
「テオ!」
名を呼ぶ声に返事はなく、築かれた敵兵の亡骸と瓦礫のせいで、慣れ親しんだ赤銅色を見つけることができない。
イヴァンは全身の血が足に降りていくのを感じた。蒼ざめていても腕は習い性のまま動き敵を殲滅していったが、それは別人が操っているかのような感覚だった。
「テオ、おい! ふざけているのか⁉︎ さっさと出てこい! お前だって跡取りだろう⁉︎ 返事をしろよ、テオドル!」
ミコラーシュが銀色の体躯をしならせて現れたのはその時のことだった。
[イヴァン! 何してる!]
イヴァンは驚愕でもって勇敢な戦士を迎えた。今までも戦場を駆けてくれたことはあったが、ここまでの激戦地に来るなんて危険すぎる。
[ミコラ、何故ここへ来た!]
[これを届けにきたんだよ! ほら、新しい剣!]
ミコラーシュは背中に何本かの剣を携えていた。息のある者が集まって来て、礼を言いながら真新しいそれを手にする。
ーーそうだ。王たるもの、理想で物事を選びとってはならない。
イヴァンは奥歯が折れそうな程に裂けた口を噛み締めると、あらん限りの大声で戦士達に檄を飛ばした。
「ここへ来て剣を取れ! 第四路を辿って撤退する! しんがりはバジャント将軍だ! 諸君らも人狼の戦士たらんと欲するならば、這ってでも俺についてこい!」
見慣れた笑顔がひょっこり現れることは終ぞなかった。イヴァンはいつのまにか陣地へと到着して、血相を変えて飛び出して来たシルヴェストルやヨハン達に迎えられることになる。
父は戦で負った傷が治らずに床についたままとなり、イヴァンは事実上の指導者となった。嘆く間もないまま戦後の混乱を処理し、そんな中でもテオドルの恋人を探してみたが、見つかることはないまま時は過ぎる。
ラドスラフ王は一年後に崩御し、イヴァンは国王へと即位した。
その頃には体の弱かった母が体調を崩し、別邸での療養を余儀なくされていた。一人になったイヴァンがまず取り掛かったのは、各地に散った戦士を集め、国王軍を再編することだった。
人狼たちは傭兵業を生業としている者も多く、国内外の領主に雇われている場合が殆ど。それを国で一括管理し、不当な扱いや給料未払いが起きないように目を配る。
シェンカが大した資源もないのに攻め込まれるのは、その武力そのものが諸国にとっては脅威だからだ。利害の一致した国と同盟を結び、条文で派兵を約束すれば、脅かされる可能性は格段に低くなる。
父が語り、友が助けてやると言った道を進むのは、イヴァンにとっては譲れないことだった。しかし一歩足を進める度に、身動きができないほどの棘が心の臓に突き刺さっていく。
ーー俺は同胞を死地に送っているのだ。
即位後の勲章授与式では、一騎当千の活躍をしたヤーミルがいた。彼は国王軍の兵士になったお陰で以前より暮らしが楽になったと笑ったが、イヴァンの心は戒めを増すばかりだった。
かつて共に戦場を駆けた戦士はその数を減らしている。新たなる戦は今のところ起きてはいないが、これまでにあまりにも多くの血が流れすぎた。
誇り高き人狼の戦士たち。お前たちを殺したのは俺だ。そして己が剣で屠った魂も。
それなのにのうのうと生き存えた分、全ての責は俺が背負い、地獄まで歩いて行こう。
理想は抱かず、望むのはこの国の安寧だけ。いつでも正しい判断を下せるなら、悪鬼になろうが構わないのに、俺は未だに心を殺すことができずにいる。
***
「今日はテオドルと戦場ではぐれた日なんだ」
だいぶ噛み砕き、柔らかい表現を心がけたつもりだが、エルメンガルトにはきっと衝撃的な話だったことだろう。改めて見つめた新緑の瞳は案の定震えていて、イヴァンの胸中を後悔が覆った。
「悪かったな。こんな話、気分が悪くなっただろう」
残酷な部分は話さなかったとはいえ、か弱い女性の耳に入れるものではない。それくらいわかっていたのに。
嬉しかったのだ。彼女が話を聞きたいと言ってくれたことが。
「いいえ。話してくれて、嬉しかった」
イヴァンは瞠目した。可憐な唇が紡ぐ力強い言葉が、現実のものだと信じられなかった。
この何の力も持たないはずの姫君は、いつも勇敢で誇り高く、人狼の戦士など霞んでしまうほどの生命力に満ちている。
そのしなやかな手で、おぞましい罪すらも許そうというのか。
「イヴァンは、自分は幸せになるべきじゃないって思っているの?」
静謐な光を湛えた深緑に射抜かれて、イヴァンはほんの一瞬息を止めた。
彼女は目の前の男が何を思って、ここまでの偏屈者に成り下がったのか気付いている。過去は語っても心情面など話してはいないのに、本当に聡いことだ。
頷かなければならない筈なのに、どうしてもそれができない。果たしてこの心優しい妻は、側に幸せを拒む夫がいたとして、自らのみ幸せを手にすることなどできるのだろうか。
「そんなの悲しいわ。貴方はただ、目の前の困難を必死になって乗り越えて行っただけなのに。それを知っているから、誰も貴方の不幸なんて望んでいない。むしろ皆が望むのはこの国の安寧と……いいえ。それはきっと貴方も同じなのね」
エルメンガルトはいつしか俯いていた。ブルネットのまつ毛が瞳を覆い隠し、そこに映す感情を読み取ることができない。
けれど、震えている。いつもは朗らかなはずの声が。細く頼りなげな肩が。
「けど、私……私からは、何も言えない。それが、こんなにも悔しい」
伏せられた目の端から、溢れた涙が滑り落ちていく。
その透き通るような美しさと、泣かせてしまったという事実に、胸が引き裂かれたように軋んだ。
彼女が「何も言えない」といったのは、人間である自らへの呪いの言葉か、それとも明かし得ぬ事情を思ってのことか。
イヴァンは衝動的な思いに突き動かされて手を伸ばしかけたが、縄を引かれたように動きが止まる。
この血塗られた手で、彼女に触れることが許されるのだろうか。
「貴方は、優し過ぎるのよ。律儀者で義理堅くて、酷く自分を戒めてる。苦しくて、当たり前だわ……」
逡巡の間にも白い頬を透明な涙が伝って、幾筋もの軌跡を描いていく。
ーー優しすぎる? そんなことを言うのは君くらいなものだ。優しいのは君の方だろう。
小さな嗚咽を聞き留めた頭が、ついに自制を放棄した。
腕を伸ばして肩を掴んで抱き寄せる。何の抵抗もなく腕の中に収まった体は、想像以上に細く頼りない。
この小さな体で国を渡る覚悟とは、一体どれほどのものなのだろう。
「泣くな、エリー。君が泣くことなんて、一つもないんだ」
小さな力で胸を押されたが、構わずに強く抱きしめた。
艶やかな髪も、薄い背中も、夜の外気と同じだけ冷たくなって、途方にくれているようだった。
「やっぱり冷えているじゃないか。気付いてやれなくて、悪かった」
嫌がられてはいないだろうかと恐々としながら、細い肩を覆うストールを首元まで引き上げてやる。今は真夏の森のような瞳を見ることも叶わず、微かに伝わる鼓動と縋り付く小さな手だけが彼女の心を知るよすがだった。
いつのまにかミコラーシュは姿を消していて、悲痛な色を増した嗚咽だけが夜の静寂を乱していく。夜空は高く澄み渡っていて、身を寄せ合う二人の姿はちっぽけだった。




