戦火の過去 2
初陣から実に五年もの時が過ぎ去り、イヴァンは十九歳になっていた。
その間の戦闘は小さなものから大きなものまであって、参加した数すらわからない。ただ一つ言えるのは、近頃はシェンカが優勢だということだ。
人狼の戦士は強い。騎兵相手どころか銃火器にも全く引けを取らない闘いぶりは、いつしか世界中に轟き、諸国を恐れさせるに至っていた。
「ひっ……金色の、人狼! まさか、イヴァン王子か⁉︎」
恐怖に顔を引きつらせた敵兵を一刀の元に屠る。数ばかり揃えた烏合の衆は、斬っても斬っても湧くように現れる。
「悪鬼め……! 地獄に落ちろ!」
死の間際に至った男が呪詛と血を同時に吐いた。呪いの言葉を浴びすぎて、もう何の感慨も抱かなくなってしまった。
ーー安心しろ、どうせ地獄行きだ。俺はこれだけの命を奪ったのだから。
太鼓の轟音を聞き留めて、イヴァンはおもむろに顔を上げた。今この場での戦闘が終わろうとも、眼前にはあざ笑うかのように終わりのない戦場が広がっている。多くのものを背負うようになったイヴァンにとって、それは残酷な光景だった。
冷徹な無表情を崩さないまま、部下に向かって指示の声を飛ばす。イヴァンは剣に付いた赤を飛ばしてから鞘に収めると、自らも状況把握のために踵を返した。
夜の闇が宿営地を押し包んだ頃、イヴァンは一人近くの森へと入って行く。
自然は好きだ。王都ラシュトフカは山間の防衛都市で、少し歩けば森や田畑に辿り着く長閑な場所。イヴァンは昔から自然と遊びながら育ったし、それはシェンカの民なら貴賎の別なく同じ事である。
散歩に出た理由は何となくという他ない。湿った土を踏みしめながら、この国の今後について想いを馳せる。
今日も一人の戦士が命を落とした。この戦いはいつになったら終わる? どうすれば彼らに平和を与えてやれる?
人狼族は狼と気心の知れた関係になることができるのに、人間とはそれができない。両方の姿になれる事は、そんなにも難しく罪深いことなのかーー。
その時、奥歯を噛みしめるような呻き声を聞いた気がした。
イヴァンは足を止めて耳をそば立てる。人間の姿だと五感は人並みだが、人狼の姿なら遠くの音も聞き分けられるのだ。
同時に漂う微かな血の香りに、何も考えないまま地面を蹴る。
走って辿り着いた先には一匹の銀色の狼が横たわっていた。人狼族かと思ったが、違う。これは本物の野生の狼だ。
[……人狼族か。どうしてこんなところに?]
[俺は人狼の戦士、イヴァンだ。近くに陣を張っている]
狼は背に怪我をしていて、苦しそうな息遣いで問うてきた。同じように狼の言葉で返すと、彼は安堵したように頷いたようだった。
[ああ、そうだったのか……お前らがこの森、守ってくれたんだな]
[そんなことより今はとにかく手当てだ]
イヴァンは腰に下げた携行袋から炎症止めの軟骨を取り出した。水筒から水をかけつつ、傷の具合が命に関わるものではないことを確認する。
[刀傷だな。誰にやられた?]
[人間さ。たまたま出くわしたんだが、武装してやがった。追い払ってやったけどな]
[何? 斥候がこの森にいたのか]
近頃のリュートラビア兵は、人狼族の鼻の良さを察して臭いを消す術を心得ている。宿営地は森と山に隠れた場所に定めたのだが、この分では既に敵に知られていると思った方が良さそうだ。
イヴァンは狼の傷に化膿止めを塗り込み、包帯を巻いたところで手当てを終えた。
[礼を言う、狼殿。お前のお陰で敵に裏をかかれずに済みそうだ]
[そりゃこっちの台詞だ、人狼の戦士。助かったぜ]
[歩けるならもう住処に戻れ。家族を守ってやれ]
イヴァンは当然の事を言ったつもりだった。しかし狼は目を一度瞬くと、ゆっくりと首を横に振った。
[もう、いない。戦の中ではぐれたんだ。俺は一人でここに住んでいた]
年若い狼は凛とした鳶色の眼差しでそう告げた。
人間と人狼の争いの犠牲者が、今イヴァンの目の前にいた。
[いくつも森を焼かれて、その度に仲間が死んでいった。俺は群れじゃ若い方でね。ボス達や子供連中を逃がせるならなんだって良かった]
この狼は勇敢で、誇り高い心を持っているのだ。
彼が一人きりで傷ついていたのは、元を正せば我々のせいだ。狼の住処にも戦を呼び込んでしまった。
[そうか]
イヴァンはそれだけ言って立ち上がった。本当は謝りたかったが、彼がそれを望んでいないことも解っていた。
[なら、共に来ないか。気の向く間だけでいい、食料くらいは分けてやれる]
だからせめて、この狼を孤独にしないための言葉を口にする。
[……いいのか? 戦争中は食料も貴重だろ]
[狩ればいい。俺たちは元来狩猟民族なんだ]
[は……それもそうか]
狼は銀色の毛を煌めかせて優雅に立ち上がった。痛むだろうに、その足取りには迷いも苦しみも感じられない。
[狼殿、名は?]
[そんなもんあるかよ]
[ならばお前はミコラーシュだ。良い名だろう]
[いいけどさ、どっから出てきたんだ? その名前]
怪訝そうにこちらを見上げるミコラーシュに、イヴァンは大きく裂けた口で笑いかけてやった。
[先日、又従姉妹が産まれてな。男だった時のために用意されていた名だ]
[おい! お前不採用の名前拾ってんじゃねーか! 絶対考えるの面倒くさかったんだろ!]
[目出度くていいだろう。いい名なのにもったいないと思ったんだ]
[目出度くねえよ! おいイヴァン!]
やかましく吼える狼を伴って森を出る。そして宿営地に辿り着いたところで、同じくぶらついていたらしいテオドルと出くわすことになった。人間の姿になっているのが不思議だったが、その疑問はすぐに解消された。
「テオか。こんな時間にどうした」
「彼女のとこ。どーだ、羨ましいか?」
テオドルはやけにすっきりとした笑みを浮かべて、両手を使って下品なハンドサインを決めて見せた。隣でミコラーシュが呆れ返っているのが伝わってくる。
そういえばヨハンが言っていたか。近頃の奴には近隣の村に想う娘がいるらしい、と。
「そうか、良かったな」
「おおい! そのそっけない反応はないだろ⁉︎ どんな子かとか聞かないのかよ!」
適当に相槌を打つと、テオドルは大袈裟な程に食い下がってくる。イヴァンは溜息をついて、やかましい友人をまっすぐに見つめた。
「お前が手を出すぐらいだ、覚悟はあるんだろう。それなら俺から言うことは何もない」
「イヴァン……」
テオドルは赤い瞳を見開いて、次期国王をじっと見つめ返した。
「お前、本当にいい奴だな。今度紹介するわ」
「ああそうだな、俺の機嫌は取っておくといい。国王になったら婚姻届に判を押してやる」
「いつだよそれ。はは……!」
テオドルは心底面白そうに腹を抱えている。戦の重みを吹き飛ばすような笑顔につられて、イヴァンもまた珍しく声を上げて笑った。
「なあ、ところで気になってたんだけどさ。その狼、どうしたんだ?」
それから更に数週が過ぎた。
過酷な戦いの最中でも休憩時間というものは存在する。最後の決戦を控えて荒野に陣を張った戦士達は、一時の休息を求めて火の周りに集まっていた。
「殿下! 呑んでますかあ⁉︎ もーこれで帰れるんですよお! 兵糧余っても勿体無いんで、呑んでくださいよお!」
「ああそうだな。頂こう」
ヤーミルを始めとした戦士たちに絡まれたイヴァンは、それに応えて盃を思いっきり呷った。
途端に周囲が沸き返り、宴会は混沌の様相を呈し始める。
やんややんやと囃し立てる兵士たちの間で、王子は瞬間的に後悔をしていた。
ーー流石に呑みすぎた。
隣からミコラーシュが胡乱げな眼差しを投げてくるのを感じる。明日に響くほどのものではないが、少々涼しいところに行きたい。
本能的な願望に駆られたイヴァンは、酒宴の輪をそっと抜け出した。上座には国王が座しているし、指揮官の一人がいなくなっても何ら支障はないだろう。
[おいおいイヴァン、大丈夫か]
[大丈夫だ……]
狼と歩いた先にはちょっとした池があった。水面を渡る風が火照った頬に心地よく、草の擦れる音が耳に優しい。
イヴァンはどっかりと腰を下ろして、焦点の合わない視線を水面に映った満月に向けた。今日は人狼の夜だが、ずっとこの姿を取っている我が身には関係のない話だ。
[ミコラ。お前はこんなところまで着いて来たんだな]
[そうなんだよな。お前、王子のくせに危なっかしかったからよ]
[よく言う。家族がいないって泣きべそかいてたのはお前だろう]
[泣きべそはかいてねえよふざけんな]
他愛もない会話を繰り広げていると、背後に二つの気配が発した。振り返るとそこには親友二人の姿があった。
「なんだ、来たのか」
「来たのかじゃないですよ、準主役のくせに。いなくなったっていうから探しに来たんでしょうが」
ヨハンが不機嫌そうに言って隣に腰を下ろすと、そのさらに隣にテオドルもまた胡座をかいた。
「お前酒強くないもんな。そんなこったろうと思ったぜ」
[ミコラには肉を持って来ました。はい、どうぞ]
ヨハンはいつも通り淡々としていたが、実は誰よりもミコラーシュを可愛がっていることに全員が気付いている。その証拠に、嬉しそうに肉を食む狼を見る視線は、いつもとは比べものにならないほど優しい。
「ほれ、水。しっかり飲んどけよ」
「テオ、助かった」
イヴァンは水を受け取って、片手で鷲掴みにして一気に飲み干した。水滴が残るばかりになった椀の底には、もう満月は映っていない。
「せっかく来てもらって悪いが、俺はお前達に話すことなど何もないぞ」
なぜならばこれは最後ではないからだ。
明日は厳しい戦いになるが、そんなのはいつものことで、今更特別視する必要などない。
二人はわかっているとばかりに笑った。大胆不敵で、それでいて気心の知れた笑顔だ。
「俺にもねーよ、気色わりい! 勝つだけだ、そうだろ?」
「ええ、その通りですね」
ミコラの鳴き声が後に続く。
流れる雲が満月を覆い隠す中、若者達は未来を信じた。