戦火の過去 1
過去編全3話です。
凄まじいまでの劣勢を跳ね除け、イヴァンは初陣を勝利で飾った。
首級を上げたのはクデラ将軍だったものの、王子の率いた隊が多大なる働きをしたことは全軍に広まり、イヴァンは陣を歩けば気さくに声をかけられるようになっていた。
人狼族は一度戦に出れば故郷に帰るまでずっと人狼の姿で過ごす。陣地でもそれは同じで、天幕の側にいくつもの円陣を作った彼らは、狼頭のまま歌ったり踊ったり、実に楽しそうに過ごしている。
「あっ、殿下! 聞きましたぜ、ものすっごい戦果をお挙げになったって。この調子で頼みますよ!」
「おお、聞きしに勝る立派な王子様だなあ。こりゃ今後が楽しみだ」
どうやら二十歳前後のこの集団は、酒が入っているらしく焚き火の周りで浮かれている所だった。
市井出身の兵士たちは皆気さくで荒っぽいが、その分話しやすく馴染みやすい。
「もう既にガタイいいっすねえ。どれ、背比べしてくださいよ」
一人の人狼が立ち上がって肩を並べてきたので、イヴァンは口の端を上げて切り返してやった。
「良いのか、俺の方が高いぞ」
「言いますね。やってみなけりゃわかりませんよ!」
目の高さは判断に迷う程度に同じ。お互い反対方向を向いて背を合わせたところで、どっと場が沸いた。
「おいおいヤーミル、十四歳に負けてやんの!」
「はっはっは! ほんと、頼もしい王子様だぜ!」
野太い笑い声が響いたと思ったら、腕を引かれてその場に胡座をかくことになった。
シェンカの民は建国の祖を敬うが、王侯貴族と平民の垣根は低い。焼いた肉を受け取ったイヴァンは、気の置けない連中と束の間の休息を楽しむのだった。
「おお、イヴァンか! よく来た!」
指揮官用天幕に入った途端、イヴァンは黒いチョハを纏った金色の人狼に手招きされた。
父親であるラドスラフ王は、同じ金髪と藍色の瞳を持ち、イヴァンがそのまま年齢を重ねたような風貌の男だ。しかし不思議と性格だけはあまり似ておらず、酒好きで豪放磊落な気質を備えている。
導かれるまま絨毯に座すと、今度は盃を押し付けられてしまった。
「初陣を勝利で飾るとは、流石は俺の息子だ。まあ飲め」
「……頂戴する。父上」
成人を迎えたばかりの王子はまだあまり酒に慣れていない。並々に注がれたワインを見て渋面を作る息子に、ラドスラフは豪快に笑った。
「無理しなくていい。ぶどう果汁飲むか?」
「いや、これを飲む。苦手だのと言ってはいられないからな」
初陣の祝いに果汁を飲まされては人狼の戦士の名が廃る。イヴァンは裂けた口を開け、お世辞にも美味しいとは思えない液体を喉の奥に流し込んだ。
「真面目だなお前は。まあ、飲んでるうちに慣れてくる。……さて、初陣はどうだった?」
「人間は数が多い上、俺たちを見下している。それが非常に面倒な事だというのがよくわかった」
短くも要点を射抜いた答えに、ラドスラフはまたしても吹き出した。
「ははは! そうかそうか、それがわかったなら、中々の収穫だな」
ただこの国を滅ぼすために攻め入ってくる人間たち。彼らは当然話し合いをする気などなく、それが当然の権利であるかのように全てを奪おうとする。
「父上。貴方は人間の国との国交を結ぼうとしているが、それは何故なんだ?」
イヴァンはまっすぐな瞳で父を見つめた。
仲がいいならそれに越した事はないと返ってきたのは戦が始まる前のことだ。今となってはそんな簡単な答えで納得できるような状況ではない。
「お前は人の国との関わりなど持つべきではないと思うか?」
「そうじゃない。ただ、それが可能だと思えないんだ」
ラドスラフは面白そうに顎を撫でた。しばし思案するように目を細め、盃を煽ってからおもむろに問いかけてくる。
「では質問を変えよう。イヴァン、お前は王にとっての一番の罪を何と心得る」
予想外の問いに、イヴァンは狼の鋭い目を見開いた。
国王がするべきではないとされている事は山程あり、習った全てを心に刻んである。これを踏まえて答えを出すならば。
「民を不幸にすることだ」
「……ふむ。シルヴェストルもルージェナも、随分よく教えていると見える」
ラドスラフは褒める言葉を口にした割に、どこか幼子を見るような柔らかい目をしていた。それが気に入らないイヴァンは、ついむっと口を尖らせてしまう。
「勿体ぶるのはずるい。違うならそう言って欲しいものだ」
「いいや、お前はよくやっている。この答えは王の数だけ存在するだろうよ」
「では、父上は何と考える」
ラドスラフはここでまた杯を傾けた。
そうして喉をたっぷり潤してから、力強い瞳でこちらを見据えたのだ。
「俺の考えはな、イヴァン。理想で物事を選び取る事、だ」
父の意図を十全に理解することができず、イヴァンは噛みしめるように鸚鵡返しをした。
「理想で物事を、選び取ること……」
「そうだ。理想とは個人の感情に過ぎない。その理想が狂気ではない保証は、この世のどこにもないんだ」
ようやく話を掴むことができた瞬間、それがとても重い理であることに気付いて息を飲んだ。
「国家とはその国に住む者、違う国に住む者、それら全ての認識のみによって成り立つだけの、確証のない存在だ。不確かなものは移ろいやすい。一見正義に見える理想ほど、危ういものはない」
静かに述べるラドスラフは、いつもの明るさと豪快さは鳴りを潜め、賢王そのものの堂々たる佇まいをしていた。その言葉を汲み取って、イヴァンもまた考えを表し始める。
「つまり王たるもの、理想ではなく現状で物事を見定めよということか。その瞬間の最善策を打ち出し、国を少しでも良い方向に導けと」
「ああ、その通りだ。理解が早くて結構なことだな」
それは理想を否定しながらもとてつもなく理想的な話だった。
そんなことを常にできる者がいたならば、もはや全てを超越した存在と言えるだろう。
だが、ラドスラフはこれを実践しようとしている。私的な空間では愛情深い父親でありながらも、王としては冷酷無比であろうと努めている。だからこそ、この父王は賢君たり得るのだ。
「さてイヴァン、確かに今はリュートラビアと戦の真っ最中だ。だがしかし、それですべての国との国交を絶望視するのは、あまりにも早計だと考える。民族どころか種族が違うとしても、それを理由に視野を狭める事はすべきではない」
「……我が国は、資源に乏しい。狭い国土とやせた土地は、自然の力の前には度し難い。何より、全ての人間を敵に回した状態では、今後生き残る道はない」
「そうだ。ゆえに、俺は人と解り合うことを目指す。可能かどうかではない。やらねばならないんだ」
力強く言い切る王の姿に、イヴァンは己の浅見を恥じて目を伏せた。
どれほど知識を蓄え、どれほど見識を深めたつもりでも、遥か先を往く父の背中は未だに見えない。
果たして、自分などがこの王の後継者足り得るのだろうか。
「なあ、お前がまだ幼かった頃、吟遊詩人の父子を城に滞在させたことがあったな」
唐突な思い出話に嫌な記憶が蘇ってきて、イヴァンは奥歯を噛み締めた。
そう、確か六歳やそこらの頃、人間の吟遊詩人の息子と親しくなったのだ。
しかし庭で遊んでいた折、その子供が運悪く迷い込んだ猪に襲われかけた。そこでイヴァンは咄嗟に人狼に変身して彼を守ったのだが……子供は素直で、時に残酷だ。
彼は化け物だと悲鳴を上げ、逃げ去って行った。
今更そんな思い出を説いて何になる。息子から抗議の視線を向けられたラドスラフは、しかし慈しむような笑みを浮かべていた。
「お前は人と関わるなとは言わなかった。あの経験を経て、今この状況にあってもそう考えることができたのなら、公正な目を養えている証拠だ」
父は自信満々に頷いて見せる。
そうなのだろうか。この王の言う通り、自分は成長を重ねることができているのだろうか。
「色々なものを見ろ、イヴァン。大丈夫だ。お前は俺などより良き王になる」
その夜は寝ずの番をすることになっていた。国王との会話を幼馴染二人に話したイヴァンは、夜空から視線を友二人へと滑らせる。黒い毛並みの人狼は決意を秘めた瞳でこちらを見据えていたが、赤銅色の方は何だか微妙な顔をしていた。
「難しくてよくわかんねえな。そうすれば食いもんが増えるって認識で間違いないか?」
相変わらずの理解力を晒す友人に、ヨハンは露骨に顔をしかめた。
「勉強を怠って剣術体術の稽古ばかりしているからそうなるんですよ」
「しゃあねえだろ、勉強嫌いなんだから。けどさ、まずは勝ちゃあいいんだろ。んでもって東西南北めがけて友達作りに行けばいいわけだ」
テオドルは子供のような事を言いながら、マントの端と端をかき合わせた。春の荒野の夜は凍てつくようで、戦いに疲れた戦士たちの力を削ぐのにはちょうど良かった。
しかし彼は友人を肯定するために、なんら二心の無い笑みを浮かべている。
「それが叶うなら一番いいと思うぜ。ヨハンもそうだろ?」
「まあ、テオは簡略化しすぎですが……国王陛下のおっしゃることは非常に理にかなっています。人と解り合うなど難しいことこの上ありませんが、文官共々力を尽くす価値はあるでしょう」
淡々と語るヨハンもまた、年若い王子の目標を否定するつもりは無いようだ。
改めて思う。自分はなんて良い友を得たのだろうか。
「よっしゃ、俺たちがお前の剣と盾になってやる! 俺が剣で、ヨハンが盾だ」
しかしテオドルがやたらとくさいことを言い出したので、つい半眼になってしまった。ヨハンもまた目を釣り上げたのだが、宰相候補の怒りの焦点はややずれていた。
「なんで私が盾なんですか」
「俺の方が強いし、剣の方がかっこいいからだ!」
「わかりました、あなた馬鹿なんですね。馬鹿のくせに私に喧嘩を売るとは命知らずもいいところですよ。私は基本的に頭脳労働をしますので、剣も盾も体力馬鹿のあなたが担って下さい」
「馬鹿馬鹿連呼すんじゃねえ! てめヨハン、相変わらずノリの悪い奴だなお前は!」
二人は口論による角突き合いを始めてしまった。しょうもないことで言い争いになる辺りはまだまだ子供で、それはこの三人に共通して言えることだった。
ぽつりと礼を紡いだ声は口喧嘩にかき消されたが、イヴァンはひっそりとした微笑みを浮かべた。
それは遠き春の出来事。五年の月日を経て少年達は青年へと変わり、戦局は終盤を迎えることになる。