星
エルネスタが主寝室に入ると、まずはミコラーシュが寛いでいるのが視界に飛び込んできた。彼は目を閉じラグの上に丸くなっていたが、耳だけは天を突いている。寝ているようで起きているのは、彼の相棒がまだ眠りについていないからだ。
視線を滑らせるとそのすぐ側の窓が開け放たれていて、奥に男の大きな背中があった。
イヴァンはいつもの丈長の灰色の寝間着に、ウールのストールを羽織ってバルコニーに立っていた。室内のランプが彼の後ろ姿を茫洋と照らし出し、その上では白く輝く三日月が優しい光を落としている。
エルネスタはほんの一瞬だけ声をかけるのを躊躇ってしまった。一枚の絵のようなその光景を壊したくなかったと言えば聞こえが良いが、それよりも強く感じたことがあったからだ。
ーーどうしてそんなに、悲しそうなの?
「風邪はもう良いのか」
不意に声をかけられて、エルネスタは肩を震わせた。こちらを振り向いたイヴァンの表情は何時もと何ら変わりない。
「もうすっかり元気になりました。心配かけてごめんなさい」
「そうか、良かった」
「イヴァン、は……何を、していたの?」
未だにぎこちなく己の名を呼ぶ妻に、イヴァンは目を細めたようだった。
「天体観測だ」
まさかその単語が出てくるとは思っていなかったので、心の中で驚いてしまった。
バルコニーに出てイヴァンの隣に立つ。辺りはインクを落としたように黒一色に染め上げられ、空だけが無数の星を瞬かせていた。夏とは言え夜になると熱気は消え、心地のいい風が頬を撫でていく。
「と言っても、見ているだけだ。詳しいわけじゃない」
「そう……イヴァンは、星が好きなの?」
「ああ、そうだな。星それ自体が好きというより、星を眺めるのが好きなんだ」
私も好きなの、奇遇ね。
喉元まで出かかった言葉を寸での所で押し留めた。
そんな事を言ってはいけない。今のエルネスタはエルメンガルトなのだから、勝手に好き嫌いを語るわけにはいかないのだ。
「そうだったのね。どうして?」
「昔ある人間に教えられた。苦しい時は星を数えるのがいいと」
エルネスタは両目を大きく見開いた。イゾルテの様な事を言う人物が他にもいたとは。
「そうして見上げた星空は綺麗だった。その時の俺は、生きてきた中で最も人間との関わりを諦めようとしていた時期でな。それなのにその人に窮地を救われ、折れかけた心も繋がれてしまった」
静かに語るイヴァンの横顔が、冴え渡る夜空へと向けられた。
彼は今その人物について思いを馳せているのだろう。意志の強い瞳がさらなる熱を宿す様は眩しいばかりで、エルネスタは目を細めてその輪郭を見つめた。
「恩人というやつだな。それ以来、興味なんてなかったはずの星を眺めるようになった。あの者がいなければ俺は死んでいたかもしれないし、同盟は結ばれなかっただろう」
横顔が示す柔らかい微笑みに、何故だかやけに胸が痛んだ。
イヴァンの心には大事な人がいる。恩人と称したその人間に向ける感情は温かく、きっとエルネスタなど比べるべくもないほど大きな存在なのだろう。
だからといって悲しむ必要など無いはずだ。こうして大事な話を打ち明けてくれるようになった。それ以上何を望むことがあるというのか。
その人物がどんな人で、どんな思い出があるのか聞きたかったけれど、そう願うのと同じくらい聞くのが怖い。
エルネスタが黙り込んでしまったのをどう思ったのか、彼は羽織っていたストールを肩へと着せ掛けてくれた。
「冷やすとぶり返すぞ。戻ろう」
ほら、やっぱり優しい。
エルネスタは堪らなくなって顔を伏せた。掛けてもらったストールの裾を握りしめ、小さく首を横に振る。
「……今日は、どうして星を見ていたの?」
勇気を出して口にした問いは、今選ぶには随分と核心を突いていた。
そう、彼は言ったのだ。「苦しい時は星を数えるのがいいと教えられた」のだと。
苦しみを打ち明けて欲しいだなんて、図々しい質問を投げかけている自覚はあった。それでもエルネスタは知りたかったのだ。
「やはり君は聡い」
イヴァンは怒るどころか、苦笑じみたものすら浮かべていた。
「九年前のこの日、友が死んだ」
エルネスタは息を止めた。さらりと告げられた言葉に、どれ程の悲しみが乗せられていたのか解ってしまったから。
「そんな話、聞きたくないだろう」
「いいえ、聞きたいわ。話すのが嫌じゃなければ」
「……そうか。それなら付き合ってもらおうか」
イヴァンは昔を懐かしむように目を細めた。覆い尽くすような星空の下、低い声が過去を紡ぎ始める。
***
イヴァンが初めて戦に出たのは十四歳の頃、成人と時を同じくしての事だった。
人狼族の男子は生まれながらの戦士。誇り高くあれと教えられて育った同胞は勇猛果敢で、故国の安寧を胸に戦いへと身を投じる。
当時のシェンカは南方に国境を接するリュートラビアと事を構えており、人狼族の個の力と相手の数の力によって、戦況は膠着状態にあった。
シェンカの民はウルバーシェク王家に絶対の忠誠を誓っている。かといって力の無いものは一人前とみなされず、イヴァンの様な若造は戦場に居場所を作るところから始めなければならない。
まずは初陣で戦果を上げる事を目標に掲げた。今イヴァンの隣にはヨハン・オルジフ・スレザークと、もう一人の幼馴染であるテオドル・シモン・ザヴェスキーがいる。
三人は揃って人狼の姿になり、枯れた草木に身を隠しつつ荒野に立っていた。この時はまだ英雄の称号を持たないため、身に纏うのは砂に溶け込むような茶色のチョハと防具だ。
後ろには人狼族十の戦士。これは別働隊であり、人間ならばごく小さな規模といえたが、人狼族である彼らはひとりが人間三十人分の力を誇る強者だ。多大な戦力と幼馴染二人の気力は、揃えば無敵とすら思える心強さがあった。
「おいテオ、お前今更怖気付いたなんて言わないだろう?」
イヴァンは首を鳴らしながら、遠くに押し寄せる敵影を木立の隙間から見据えていた。テオドルは赤銅色の毛並みの顔を硬くしていたが、幼馴染の挑発に奮起したらしい。
「んなわけあるか! イヴァンお前見とけよ、ぜってえ俺の方が先に大将首取ってきてやるからな!」
真紅の瞳に苛烈な輝きを宿した親友を前に、イヴァンは鼻で笑って見せた。
「俺が取るに決まっているだろう。あまり夢を見過ぎない方がいいんじゃないのか」
「おうおう言ってくれるじゃないの王子様、ちょっと腕が立つからって調子に乗りやがって。そのお綺麗な面に傷をこさえねぇようせいぜい気をつけるんだなぁ!」
チンピラさながらの態度で王子に接するこの男も、れっきとした貴族の子弟である。イヴァンはヨハンとテオドルとともに育ったと言っても過言ではなく、この気安い会話もその絆の賜物なのだ。
「ああもう、やかましいですよ二人とも! 殿下は指揮官なんですから、それくらいにしてください!」
ヨハンの一喝が響き、二人の少年は諍いを止めた。その目が向けられたのは友人ではなく遠方の敵で、既に彼らの心中は戦へと向かっている事を伝えている。
「まったく。最初からそれくらい集中してくれたらいいんですけどね」
友人の嘆息を耳に挟みつつ、イヴァンは背中に背負ったロングソードを引き抜いた。ヨハンが双刀のレイピアを手にし、テオドルもジャンビーヤを抜刀する。
遠くから鬨の声が上がった。今頃は国王とシルヴェストル・クデラ将軍の率いる本隊が、正面から敵の陣形を打ち崩している筈だ。
一つも恐れる気持ちが湧いてこないのは、自らが誇り高き人狼の戦士だから。
イヴァンは木立の隙間から身を躍らせると、前方へ大きくロングソードを振り下ろし、地面と平行になったところでピタリと止めた。それはなんら恥じるところのない、一人前の戦士そのものの姿だった。
「全軍前進! 敵を背後から突き崩す!」
人狼たちは一斉に遮蔽物から打って出た。裂けた口で鬨の声を上げ、全員で敵兵の背後へと飛びかかっていく。
奴らは二千の大軍だ。普通なら根を上げるような状況も、信頼する友とならば何とかなるような気がしてくる。
それは初陣にしては厳しすぎる戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。