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故郷

 鍛冶屋北極星を旅の薬師が訪ねてきたのは、一週間ほど前のことだった。

 国境の街道沿いの町とはいえ、若い女性が一人旅とは珍しい。ブルーノからの紹介を受けて、イゾルテは内心首をひねる。


 元学者の聡明な頭脳が警鐘を鳴らしていたが、実際のところ腕は確かなようだったので、大人しく渡された薬を飲むことにした。

 するとどうだろう。日を追うごとに体調が回復していったのだ。


「……信じられない」


 八日目の朝、イゾルテは床を踏みしめる自らの足を眺めながらポツリとつぶやいた。


 本当に信じられない。一応は一通りの学問を修め、薬草学にも秀でる自分が、街の薬師と研究を重ねても駄目だった。その病をわずか一週間で治してしまうだなんて。


 いっそのこと嫉妬心すら巻き起こる神業だ。どんな魔法を持ってすれば、このようなことが可能になる?

 いや、違う。これは最新技術の賜物だ。あの薬師は只者じゃない。


 イゾルテは神は信じても魔法は信じていない。自らの知らない領域は、時に想像の範囲を超えた事象を巻き起こす。

 確かめなくては。あの薬師が一体どこから来たのか。ブルーノはあれ程の実力者をどこから見つけて来たのか。


 久しぶりに歩き出すと、筋肉がすっかり失われてしまって力が入らない。部屋の扉まで辿り着いたところで体力の限界を迎え、イゾルテはドアノブを掴んだまましゃがみこんだ。


 嫌な予感がする。こんなに上手い話があるなら、世の中はもっと平和になっている筈だ。この奇跡のような現実の裏にあるものは。


 脳裏に愛娘の顔が浮かんだ。不自然な時期に旅立って行った、優しい優しい最愛の娘。自己犠牲精神を過ぎるほどに持ち合わせたあの子なら、もしかして。


「……行かないと!」


 それは勘でしかない思いつきだった。イゾルテは衝動に突き動かされるまま震える手でドアノブを押し、転がるように廊下に出る。

 焦ったような気配が階下から発したのは、その時のことだった。


「イゾルテ⁉︎」


 階段を駆け上がる足音がして、すぐに姿を現したのはブルーノだった。廊下に倒れこむ妻を見つけるなり顔を青ざめさせた彼は、慌てて痩せた体を抱き起こしてくれた。


「何してるんだ! 寝ていないと……!」


「ブルーノ! エリーは、どこへ行ったの……⁉︎」


 夫の焦り以上に平静を失ったイゾルテが、鍛冶屋の薄汚れたシャツに摑みかかる。震える手が病人とは思えないほどの力を宿しているのに気付いて、ブルーノはますます顔を白くした。


「北方だよ。修行だって、エリーも言っていただろう」


 そう言って気まずそうに目をそらした夫は、相変わらず嘘が下手だった。イゾルテは怒りにも似た衝動を得て、白かったはずの顔を赤くして叫ぶ。


「本当のことを言いなさい! そうしないと、這ってでもここを出て行くわ!」


 エルネスタの頑固さは母譲りだ。

 普段は温厚なイゾルテが出て行くなどと言うのは初めてのことで、だからこそ説得力があった。ブルーノは観念したらしく、とにかくベッドに戻ってくれと呟いたのだった。





「……なんてこと」


 ベッドに横たわったまま話を聞き終えたイゾルテは、重いため息を吐いた。

 自分への憤りと後悔が胸の内を支配していく。ここまでの事を娘にさせておいて、何が親だというのか。


「すまない。俺が止めるべきだったのに」


 ブルーノの面持ちは沈痛だった。おそらくこの夫もまた、自身と同じような気持ちを抱いている事だろう。


「想像はつくわ。エリーは言い出したら聞かないけど……それ以上に、気風のようなものを備えているもの」


「気風?」


「そう。帝室の一員として受け継いだとしか言いようがない、不思議な力」


 エルネスタは産まれた時からイゾルテが育ててきた。幼い頃からどこか遠慮がちな娘は、いざという時に存在感を発揮したものだ。


「今の皇帝は凡才だけど、エリーのお爺様……先代皇帝はそれはそれは名君だった。その才を引き継いだとしか思えないくらい、あの子の言動には人を動かす力がある」


「確かに、そうだな。エリーは昔から人と打ち解けるのが上手だった」


 いつも朗らかなエルネスタは、北極星の看板娘として評判だった。

 コンラートをいじめていた悪ガキを、言葉だけで説き伏せたこともあった。店のクレーム対応もお手の物だし、正しいと思った事は絶対に曲げない。誰かのためならば、という条件つきだったけれど。


「だから、心配だったの。いつかこんなことがあるんじゃないかって。誰かのために、危険な道を行こうとするんじゃないかって……」


 宮殿から逃げ延びてこの街にやってきて、自由な人生を歩ませてやれると思った。

 けれど出自の秘密を伝えた瞬間から、愛娘との間に薄い壁が生まれた。


 言わなければよかったのか。しかし帝室から逃げ切ったと思っていたのに、実際は居場所を知られていて、こうして使者が来てしまった。もし伝えていなかったらエルネスタをどれほど傷付ける事になったのだろう。


 イゾルテはいろいろなことを考えながら娘を育てた。万が一皇帝に呼び戻された事を想定して、言葉遣いや立ち居振る舞いも、町娘として違和感のない程度に丁寧なものへ。体力をつけさせて、薬の調合の腕を磨いて、どんな困難も乗り越えていけるように。


 そしてブルーノと二人、ありったけの愛情を注いだ。

 杞憂など無駄に終わって欲しかった。あの子が幸せに、平穏な毎日を過ごせるならそれでよかった。


 エルネスタは親のひいき目としても素直で可愛い娘に育ってくれたが、その大部分は彼女の努力によるものだと知っている。

 どれほど自分を顧みない子なのか、知っていたのに。


「どうしよう、ブルーノ。あの子が帰ってこなかったら。まだ、何もしてあげられていないのに……!」


 病に疲弊した心が弱音を吐き出す。

 今エルネスタはどうしているだろうか。辛い目にあってはいないだろうか。考えれば考えるほど嫌な想像が頭をもたげ、イゾルテは目を細めて衝動に耐えた。


 すると鍛治で硬くなった掌が両目を覆って、視界が暗闇に閉ざされてしまった。


「……帰ってくる。期限を過ぎても帰ってこなければ、俺が迎えに行くよ。だから今は、もう少し寝ていなさい」


 ブルーノの表情はもう見えなかったが、彼が渋面を作っているであろうことは容易に想像がついた。

 夫婦が共有する後悔と自己嫌悪は果てがない。イゾルテはせめて夫に小さな安堵をもたらすため、眠気に従って目を閉じた。


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