辺境の町娘 1
神さま。偽りという罪は、どうしたら贖うことができるのでしょうか。
*
街外れの空き地に差し掛かると、いつも大木の下に視線を飛ばしてしまう。そんな癖がエルネスタにはあった。
八年前の夏、一匹の狼とここで出会って傷の手当てをした。
まるでお伽話のような思い出は家族に話すと卒倒されそうだったので、未だ自分の胸の内だけに留めてある。
金色に輝く狼だった。ただし十歳の頃の記憶なので、月明かりに照らされただけの土色の毛並みだった可能性の方が高い。
今はもう朧げになった精悍な姿。もう一度会えたならどんなに嬉しいだろうとは思うが、便りが無いのは元気な証拠だ。どこかで無事に生きていてくれるならそれだけでいい。
エルネスタは微かに笑って前を向いた。
蝉の鳴き声が背後から追い立ててくる。薬草摘みに精を出した体が盛大な疲労を訴えていたが、そろそろ日が落ちる時間なので家路を急がなければならない。
エルネスタは薬草の入った籠を背負い直すと、お下げにしたブルネットを揺らして歩き始めた。
街の中心部に近付くにつれ人通りも多くなり、道を挟む店が活気を帯びてくる。軒先に吊るされたランプが深緑色の瞳に反射して輝き、様々な国の者が行き交う賑やかな町並みを映し出した。
このヴァイスベルグは東の国境に接していて、人狼族の国シェンカと隣り合わせの位置にある。同盟を結ぶ前からかの国と行き来する者は少なからず居て、昔から交通の要衝として名高い街だ。
そして一本路地を入った所に、北極星という鍛冶屋がある。ここはエルネスタが住む家であり、養父母の営む大事な店でもあった。
しかし、数時間ぶりに帰ってきた我が家は、出る前とは少し様子が違っていた。
まず店の前に見覚えのない馬車が止まっている。華美な造りではないが、頑丈そうで堅牢な佇まいの馬車。
そして何よりも、店の中から騒がしい声が聞こえてくるのだ。言い争うようなその声音に、エルネスタはやれやれとため息をついた。
きっと変な客が来て難癖をつけているのだ。
有象無象が訪れるこの街ではそう珍しい事ではないので、特に何の感慨もなく扉を押し開く。果たしてそこには、予想したのとは少々違う光景が広がっていた。
「帰ってくれ! そんな頼み、聞けるわけがない!」
「お願いします! これはこのブラル帝国の危機なのでございます……!」
悲痛な叫びとともに床に額を擦り付けているのは、まったく見覚えのない男だった。貴族らしく整った身なりをしているものの、ひれ伏す姿勢を取っているので威厳は皆無である。
男に相対するのはエルネスタの養父ブルーノ。筋骨隆々でいかにも鍛冶屋といった大男は、実のところ温厚で家族思いなのだが、今はその顔を憤怒に歪めていた。
ブルーノはエルネスタを見るなり眉を上げた。組んだ腕を解き、この場を去るように身振り手振りで伝えてくる。
かなりの異常事態が起きていることは明白で、父に力を貸さなくてはという思いが足をその場に縫い付ける。その僅かな躊躇の間に、土下座男はエルネスタの気配に気付いてこちらを振り返った。
年齢はおそらく五十程だろう。男は皺の刻まれた顔を切羽詰まったように歪めていたのだが、エルネスタを視界に収めると、溢れ落ちんばかりに目を見開いた。
「エルメンガルト様……!」
複雑な出自を持つエルネスタにとって、その名は特別なものだった。
未だ見えたことのない姉。そしてこれからも会うことのないであろう、我が国の第一皇女の名前だ。
エルネスタはこのブラル帝国の現皇帝夫妻の子として産まれ落ちた。ただ一つ普通と違っていたのは、双子の妹であったこと。
ブラルの帝室において双子は不吉とされている。万が一双子が産まれた場合は下の子をその場で亡き者にし、それは一切公表されることはない。
その第二皇女は幸運の持ち主だった。当時宮殿のお抱え天文学者だったイゾルテが、育ての親になることを申し出てくれたのだ。
そのような申し出があった場合は、市井で育てるという条件つきで許可が下りる。そうして、エルネスタは今日まで一般市民として育ってきた。
「まさか、本当に瓜二つとは……! なんということだ!」
男は感嘆のため息を漏らして絶句してしまった。その反応を見ただけで、エルネスタは自身の出自について知られていることを悟る。
「エルネスタ様! 私はベンヤミン・フォン・エンゲバーグと申す者でございます!」
男ーーエンゲバーグは、今度はエルネスタに向かってひれ伏して見せた。
「な、何ですか? 顔を上げて下さい……!」
「私は皇帝陛下より、あなた様に依頼を仰せつかって参りました」
エンゲバーグは一応顔を上げてはくれたが、床に座り込んだまま動こうとしなかった。
エルネスタは困惑しきった視線をブルーノへと飛ばす。彼は激した表情を崩さないまま腕を組み直し、恐れ多くも皇帝陛下の使者を一喝した。
「帰れと言ったはずだ! この子に助けて欲しいなどと今更よく言えたな。恥を知れ!」
この口ぶりからして、どうやらブルーノは既に話を聞かされているらしい。すっかり激昂してしまって取り付く島もないが、理由も解らないまま追い返す訳にもいかない。
「落ち着いて、父さん。こんなに頼んでいるのに、話も聞かずに無下にするわけにいかないわ」
「連中がしたことを忘れたのか、エリー。お前には奴らの頼みを聞いてやる義理などない!」
この国の権力者たちによって、エルネスタは産まれた瞬間に殺されかけた上、捨てられたのだ。確かに今更どういう事かと思わないではない。けれど。
「この方は貴族なのよ。私達なんてどうとでも脅して従わせることができるのに、誠意を尽くして話し合おうとなさってる。それなのに問答無用で追い返したりしたら、この北極星の名折れよ」
正面から見つめて言い切れば、父は嘆息して首を横に振った。
「……仕方がない。お前ならそう言うと思ったから、会わせたくなかったんだがな」
ブルーノは娘の言い出したら聞かない性格をよく理解してくれている。エルネスタは父の思い遣りに申し訳ない気持ちを抱きつつ、改めてエンゲバーグに向き直った。
「確かに、私がエルネスタ・ゲントナーです。お話を伺います」
「エルネスタ様……! ありがとうございます!」
エンゲバーグは感極まったように声を震わせて頭を下げた。そうして語られた彼の話は、とんでもなく突拍子のないものだった。
「謹んでお願い申し上げます。どうか、エルメンガルト様に代わって、シェンカに嫁いで頂きたいのです!」
「……はい?」
あまりの内容に失礼にも程がある返しをしてしまったのだが、エンゲバーグは全く気にしていないらしかった。
「近々、エルメンガルト様が隣国シェンカのイヴァン王にお輿入れになる事はご存知ですね?」
「え、ええ……それは知っています。国を挙げての慶事ですし」
隣国シェンカは人狼族が住まう国。主に山間部に狭い領土を持つ小国ながら、個々の傑出した武によって大国並みの軍事力を誇る特異な国だ。
彼らは総じて身体能力が高く、この店に来た者は揃って大きめの武器を買っていくところが面白い。狼の姿と人の姿を持つそうで、大体は豪快かつ真面目な気質の持ち主という印象だ。
「実のところ、エルメンガルト様はこの婚姻をお厭いになっておられました。そしてついに、たったお一人で出奔してしまわれたのです」
俄には信じ難い話だった。
第一皇女が伴も付けずに出奔? それが本当だとすれば、国家を揺るがす一大事である事は間違いない。
「エルメンガルト様は絵を描く事のみに徹してこられた芸術家。置き手紙には世界を描いてくる、とだけ記されていました。……そこでエルネスタ様、エルメンガルト様を探し出す間、あなた様にシェンカへと嫁いでいただきたいと言うわけです」
「ちょ、ちょっと待ってください! 色々と話が飛躍しすぎです!」
ブルーノが奥で憮然と頷いている。きっと彼も同じ事を思い、同じ事を質問したのだろう。
「普通に考えて、婚姻を白紙に戻すべきでしょう!? 国家ぐるみで詐欺を働くなんて、そんな事許されません!」
「シェンカとは一年前にようやく同盟を結んだ間柄です。婚姻によって関係を更に盤石なものとしなければならず、土壇場で白紙に戻しては大きな軋轢が残るのは間違いないでしょう。皇帝陛下のご勅命によって、此度の計画は実行に移されたのです」
エルネスタは目眩がした。自身の産みの親の人柄についてはあまり考えないようにしてきたが、これではあまり期待はできないようだ。
「けど、入れ替わりだなんて、絶対に気付かれるに決まっています。私は姫としての教養など持ち合わせてはいませんし」
「それについては問題ありません。エルネスタ様とエルメンガルト様は、驚くほど瓜二つでいらっしゃいますから、まず間違いなく誰も気がつかないでしょう」
「それでも……! エルメンガルト様を見つけてくるだなんて、本当に可能なんですか?」
「今現在、できうる限りの力で持ってお探ししております。所在が判るのも時間の問題かと」
反論材料が無くなってしまい、エルネスタは口を閉ざした。とんでもない計画だと言うのに彼の瞳に嘘はなく、ただ切実さだけがその奥底で光っている。
「そんな大役、私には無理です。どんなに顔がそっくりでも、やっぱり私はお姫様なんかじゃないもの」
エルネスタはきちんと話を聞いた上で、そう結論付けた。
そう、自分にそんな大層な役目は似つかわしくない。この店を手伝いながら日々を暮らし、いつかは誰かに嫁いで平凡な家庭を築く。そんなありふれた人生を送るのだと何の疑いもなく信じてきた。
生まれがどうであっても関係ない。エルネスタは育ててくれた家族が一番大事で、彼等を心配させるような事はしたくないのだ。
しかしエンゲバーグもただでは引き下がらなかった。
「もちろん、お役目を引き受けていただけるのでしたら、相応の謝礼をご用意致します。もしかしてイゾルテ殿は、病を患っておられるのでは?」
その指摘への反応は、エルネスタよりブルーノの方が早かった。どうやらここからは彼も聞いていなかったようで、鋭い眼光を使者へと向ける。
「そんな事を言った覚えはないが」
「少し考えればわかる事です。まず、私が到着した時、この店から薬師が出てきました。中に入ると御子息らしき人物と貴方が居ましたが、お二人とも元気なご様子。そしてこの一大事に、エルネスタ様を引き取られた本人であるイゾルテ殿は顔を見せていません。となると、病気なのはイゾルテ殿と考えるべきでしょう」
鋭い洞察に、エルネスタとブルーノは同時に息を呑んだ。その間にもエンゲバーグは冷静に考えを連ねていく。
「エルネスタ様がお持ちの籠には大量の薬草が積まれていますね。つまりはイゾルテ殿の病状は、この先もそれが続くとされている……と見るのが自然です」
それは凄まじいまでの観察眼によって導き出された、まごう事なき事実だった。
エルネスタは舌を巻くばかりで何も言えなくなってしまったのだが、父はそうではなかったようだ。
「……何が言いたい」
ブルーノは地鳴りのような低音で使者を威圧した。結果的に肯定となったその返事を、エンゲバーグは一切怯む様子はなく受け止めて見せた。
「引き受けていただけるのなら、我が国の最新医療を提供させて頂きましょう」




