寝言の行方
用意された病人食を平らげて、薬を飲み込んだ頃には、エルネスタの体調はそこそこ回復していた。
ヤロミールの診察も終わり、部屋に残ったのはルージェナにクデラ、そしてエンゲバーグという面々だった。
「ご心配申し上げましたよ。ご無事で何よりです、エルメンガルト様」
エンゲバーグは随分と気を揉んでいたらしく、部屋に入ってきた時などは血相を変えていた。ここまで心配をかけてしまうとは、彼の心労を増やして申し訳なく思う。
「これからは体調がお悪いのならお申し付け下さいませ。倒れて頂いては困ります」
ルージェナはもう少し怒ってやりたいが、病人相手なので我慢しているといった様子だ。
「ルージェナ、ご無事なのだからそれだけでよかろう。王妃様、今はごゆっくりお休みください」
シルヴェストルが鷹揚な笑みを浮かべるので、エルネスタも素直に頷くことにした。こんなに迷惑と心配をかけてしまったのだから、今は一刻も早く治すのが肝要だ。
「……そう、よね。早く元気になるわ。心配かけてしまってごめんなさい。皆、ありがとう」
感謝の気持ちを伝えれば、全員が気にするなと返してくれる。彼らの表情に嘘はなく、だからこそエルネスタはたまらなくなってしまった。
ーー私は、皆に心配してもらうような者ではないのに。
エルネスタの心情を知ってか知らずか、その場を辞することを提案したのはエンゲバーグだった。彼の言によりめいめい解散して行き、ついに王妃の部屋は元の静けさを取り戻す。
しかし、そこで新たなる訪問者がやってきた。相も変わらず続きの間から姿を現したのは、銀の毛並みも艶やかな狼だった。
「ミコラ! 来てくれたの」
ミコラーシュは静かに寝台まで近寄って来て、エルネスタの枕元に顔を乗せた。狼は賢い生き物だから、目の前の人物が病を得たことに気づいているのかも知れない。
「心配してくれるの? ありがとう。あなたは本当に優しい子ね」
エルネスタは狼の頭と顎を両手で撫でさすってやった。ぐるぐると喉が鳴ったのが聞こえて来て、彼もまた気待ちがいいのだと知る。
柔らかな光を宿した鳶色を見つめていると、不意に故郷のことを思い出してしまった。先程の悪夢のせいもあって、今まであえて考えないようにしてきた事が一気に押し寄せてくる。
イゾルテの病状はどうなっただろうか。エンゲバーグは薬師を手配したと言ってくれたけど、今頃到着しているだろうか。ブルーノとコンラートには随分心配をかけてしまっているが、変わりなく過ごしているだろうか。
不意に視界が滲んで、エルネスタは銀色の毛並みに頬を寄せた。
考えてはいけない。信じるのだ。エンゲバーグがきっと最高の薬師を連れてきてくれる。イゾルテも頑張っている。ブルーノとコンラートも、献身的に支えてくれる。
そう信じて待ちながら、この役目を精一杯務めるだけ。エルネスタにできる事はそれくらいなのだから。
***
その日の夕刻。イヴァンが執務室で仕事をこなしていると、辣腕宰相が訪ねてきた。
「陛下。お忙しいところを申し訳ありませんが、追加分です」
ヨハンはいつもの淡々とした口調でそう述べると、持っていた羊皮紙の束を文机に積み上げた。
イヴァンは午前までエルネスタに付きっきりだったので、その分の仕事が溜まっているのだ。彼もまたこの現状をよく知っている筈なのだが、容赦のない采配ぶりはいつものこと。
呆れるほどに頼もしい。国王相手だろうが表裏のないこの男には、幼少の頃から随分と救われてきた。
「ヨハン。聞きたいことがある」
いつになく真剣な様子の主に、ヨハンは眼鏡を直してから居住まいを正す。イヴァンは緊張感を帯びた水色の瞳を正面から見据えた。
「高貴な姫君は、自分の母をなんと呼ぶんだ」
さしもの宰相閣下も、あまりに突拍子も無い問いに面食らったらしい。訳がわからないとばかりに口を開けた友人兼臣下に対して、イヴァンは更に言い募った。
「客観的な意見が聞きたい。何も考えずに答えてくれればそれでいい」
「はあ……。よくわかりませんが……大方、母上とか、お母様あたりじゃないですか。それがどうなさったんです」
ヨハンは答えつつも怪訝そうな表情を隠しもしない。しかしイヴァンはといえば、ある疑惑が形を成していくのを感じていた。
『…めんなさ……ごめんなさい……! 助け…れなくて……嫌だ……母さん』
悲痛な寝言を口にしながら、丸くなってうなされるエルメンガルトの姿が脳裏に浮かぶ。
当然だが高貴な姫君は母さんという呼称は使わない。それに、助けられなかったとはどういう意味だ。ブラル帝国の現皇后は存命だし、事故にあったとか病気になったとか、そんな話もとんと聞いた試しがない。
おそらく、彼女は何かしらの事情を抱えている。
それは確信に満ちた答えだった。その事情が何であるかはわからないが、言い知れぬものがあるのは間違いない。
「これは正式な仕事だ。ブラル帝国の帝室について調べてくれ」
ヨハンはその一言でさっと表情を引き締めた。
「まさか王妃様が、何か不可解な言動をなさったと?」
不自然な文脈から話を読み取る力は流石としか言いようがない。イヴァンが沈黙を答えにすると、ヨハンは見る間に青ざめてしまった。
「でしたらこうしている場合ではありません。御身の安全が第一なのですから、こちらが悟った事を気取られぬよう、なるべく距離を置くように致しましょう。理由付けならば私が考えますのでーー」
「いや、いい。俺はこのまま暮らす」
「なっ……」
にべもなく進言を遮られ、ヨハンは眉を釣り上げた。
「何をおっしゃるのです。正気の沙汰とは思えません! 貴方様はもっと御身を大事になさるべきです!」
ものすごい剣幕の割に小声なのは、かなりの重要機密だと理解してのことだろう。対するイヴァンは自分でも意外なほどに冷静で、湖畔のように凪いだ胸中のまま顔を赤くした友人を見つめ返した。
「許せ。俺は、あの姫君を知らなければならない気がするんだ」
イヴァンが勘とでも言うべきものを頼りにするのは、とてつもなく珍しいことだった。
まさかとばかりに目を見開いたヨハンは、やがて観念したように溜息をつく。
「……わかりました、調べて差し上げます。私の苦労をわかっているんでしょうね、イヴァン」
近頃は見られなくなった無礼とも取れる態度が、イヴァンにはとても嬉しかった。
昔はこんな風にもっと親しく話をしていたのに、そうしなくなったのが自分のせいだという自覚はあった。常に張り詰めた君主と相対した臣下達は、その糸を揺らすまいとさぞ気を遣ったことだろう。
「頼んだぞ」
「ご勅命光栄にございます。まったく、相変わらずの無鉄砲ですね。貴方は国王なんですよ? 替えの効かない唯一無二の存在なんですよ? 皆が貴方を尊敬し、ご心配申し上げているのです! もし貴方に何かあればーー」
よほど怒髪天をついたのか、ヨハンの小言は留まるところを知らない。しかし説教に晒されているイヴァンは、胸の内に住み着いた考えに気を取られて半分ほどしか聞いていなかった。
ーーこれからはあの姫君と話をしてみたい。そう俺は、人というものをまだまだ知らないのだから。
長年に渡って築き上げた壁を取り払ってそう思わせるものは、一体なんなのだろうか。