歩み寄れば易し
そろそろ二人が仲良くなれそうです。ここまでお付き合いくださいました皆様、誠にありがとうございます。
目を開けた途端に、眦から涙が滑り落ちていくのがわかった。
ぼやけた世界に映り込むのが誰だかわからず、無遠慮な視線を注いでしまう。やがて躊躇いがちに大きな手が伸びてきて、目の縁に残った雫を拭い取っていった。
「……陛下?」
明瞭になった視界の先に、己を覗き込む端正な顔があった。それはどう見てもイヴァンでしかなく、エルネスタは状況が読めずに呆けたまま彼を見つめる。
「うなされていた。大丈夫か」
「はい……。すこし、嫌な夢を見ただけ、です」
口に出してみると、あの心の底から震えるような未来が、夢だったのだという実感が湧いてくる。エルネスタはほっと息をついて、周囲の風景を見渡してみた。
どうやらここは王妃の部屋のようだ。一度しか使っていない寝台に久しぶりに横になっていて、窓からは夏の爽やかな青空がのぞいている。イヴァンはどうやら側の椅子に腰掛けているらしいが、なぜこんなことになったのか皆目見当もつかなかった。
「これは……なんで。私は……」
気のせいでなければ喉が引き攣れたような痛みを訴えていたし、頭も絶え間無く締め上げられているかのようだ。思考回路がぼんやりとして働かず、息もしにくくて苦しい。
「風邪だ。君は昨日、高熱を出して倒れたんだ」
言われた途端に当時の状況が蘇ってくる。
確かカウツキー相手に偉そうに啖呵を切り、激昂させてしまったところをイヴァンに助けられた。そして体のだるさに気付いてーーそこからは、何も覚えていない。
「薬師を呼んでくる。そのまま横になっていろ」
「ま、待って下さい……!」
エルネスタはとんでもないことをしでかしたのを自覚し、背を向けた国王を引き止めた。
祭りの席で揉め事を起こすだけでは飽き足らず、しかも倒れただなんて。
「申し訳、ありません……私、なんてお詫びしたらいいのか」
「落ち着け、起きるんじゃない」
しかしせっかく起こした体は、イヴァンによって再び寝台に沈められてしまう。
「ですが……!」
「どれ程の高熱だったと思っているんだ。いいから安静にしていろ」
まるで心配しているような言葉を掛けられて、エルネスタはまともに面食らってしまった。
そういえば、どうして国王陛下が看てくれているのだろう。こういうのは普通なら侍女や女中の仕事ではないのか。
ますます不可解なこの状況について考えていると、こちらをまっすぐに見つめる藍色と視線を交わらせることになった。
「君は何も悪くない。剣舞も、立ち居振る舞いそのものも見事だった。悪いのは俺だ。臣下の無礼と、これまでの俺の態度について謝りたい。すまなかった」
そして、イヴァンは言葉を選び選び、真摯な謝罪を告げた。いつもの無表情ではあったが明らかに沈痛な面持ちに、エルネスタは更なる混乱をきたしてしまう。
「そんな! 陛下が謝られるような事は、何も。だって、私は」
ーー私は貴方を騙しているのだから。
エルネスタはみんなに優しくしてもらえるような人間じゃない。身勝手な願いのために、嘘を貫き通す事を決めた欲の塊だ。
友好や愛情、親切を受け取るのはエルメンガルト本人であるべきだ。エルネスタはいずれここからいなくなる。すべてをまだ見ぬ姉に引き渡して、無責任に消え去る身なのだから。
「……私、は。少しも、酷い事をされただなんて、思っていませんから」
嘘をついているという絶対的な楔が、エルネスタの胸を今更のように締め付ける。
なんておこがましい。誰かに許しを与える資格など自分にはありはしないというのに。
それでも、口に出すことだけは真実でありたかった。何故だかやけに悲しそうに目を細めるこのひとには、心まで偽ったまま接したくないと思った。
「陛下が、そう思われるのだとしても、私はそうは思いません。ですから……謝られる必要なんて、無いんです」
「君は……」
イヴァンの夜空を映したような瞳が見開かれて、すぐに細められた。その眼差しには自嘲が含まれているようだった。
「君は、寛大にも程があるな」
「そうでしょうか? 私も怒ることくらいありますよ」
「ほう。それなら怒らせないようにせいぜい気をつけるか」
イヴァンが肩を竦めて見せるので、エルネスタは思わず声を出して笑う。
彼と普通の会話ができることが、こんなに嬉しいだなんて思わなかった。エルネスタはやけに沸き立つ気持ちを持て余しつつ、今までは遠くで煌めくばかりだった夜空の瞳を見つめた。
こうしてみるとやはり見覚えがあるような気がして仕方がない。しかしそれがいつどこだったのか思い出せないし、そもそもイヴァンであった筈もないのだ。結局それ以上の思考は続かずに途切れてしまった。
「実は頼みがあるのだが」
「な、何でしょう?」
いつのまにか目と目を合わせてしまっていた事に気付き、エルネスタは慌てて視線を外した。しかしイヴァンの視線はそれでも尚逸らされることはなく、真っ直ぐにこちらを見据えているようだ。
「先程うなされていた時に、何と呼んでやればいいのかわからず困った。これからは名前で呼びたいのだが、構わないか」
「え」
あまりにも予想外の申し出に、国王に対するにはかなり不躾な反応を返してしまった。
彼はこの国の最高権力者なのだから、いちいち確認せずとも好きに呼べばいいのではないのか。
エルネスタは不思議に思い、先程の恥じらいも忘れてイヴァンを見返した。直線的な眼差しは特に冗談を言っている様子ではない。
もしかしてこの方は、真面目で律儀で、ひたすら義理堅い性格の持ち主なのでは。
エルネスタを避けていた理由はわからない。けれど今この瞬間からは、少なくとも向き合う事を考えてくれている。そう思っても、良いのだろうか。
「エリー、と。そうお呼びください。親しい人はそう呼ぶんです」
その時、自身のあだ名を告げてしまったのは、熱に浮かされていたからだという他無い。エルネスタはエルメンガルトへの罪悪感で頭を抱える事になるのだが、それは我に帰ってからの話になる。
何故なら、次の申し出は更に驚くべきものだったから。
「ならば俺のこともイヴァンと。名で呼んでくれないか」
エルネスタは今度こそ固まった。
この立派な国王陛下を名前で呼ぶ? そんなことはあまりにも勿体無い。
それに、何だか妙に気恥ずかしいのだ。エルネスタは頬を染めたが、イヴァンは引く気がないらしく、相変わらずじっとこちらを見つめている。
エルネスタは自己暗示をかけることにした。エルメンガルトの代わりなのだから、自身がこの美しい国王を名前で呼ぶわけではない。断じて違うのだ。
「それでは……イヴァン様、でよろしいですか?」
「様はいらない。敬語も必要ない」
「ええっ! ですが、それではあまりに!」
これにはエルネスタも大声を出した。
流石にその申し出はハードルが高すぎる。男性に免疫のない乙女を舐めないでいただきたいものだ。
しかし、イヴァンの真っ直ぐな眼差しと視線を交わらせると、否やが出てこなくなってしまう。それが彼の持つ気風によるものなのか、はたまた全てが熱のせいなのか、エルネスタにはもう判断がつかなかった。
「シェンカでは普通、貴族であっても家族間では敬語を使わない。落ち着かないので検討してほしい」
「う……! わ、わかりました。では……イ、イヴァン。これで、いい……?」
頬が熱を持ち、傍目から見ても赤くなっているだろうことが伺えた。エルネスタはせめて見咎められないように、布団を口元まで引き上げる。
イヴァンの端正な面立ちが静かな笑みを形作ったのは、その瞬間の事だった。
「ああ、それでいい。エリー」
細めた目は柔らかさを宿し、口元は穏やかに弧を描いている。雲間から顔をのぞかせた月のような、淡く穏やかな表情。
冷徹と噂の国王陛下の笑顔は、想像だにしない破壊力を持っていたらしい。エルネスタは目が潰れるのではないかと本気で心配した程だ。
何の言葉も返せなくなってしまった王妃に、イヴァンは風邪のせいだと捉えたようだった。
「長話だったな。ルージェナ達にも君が目を覚ました事を報せてこよう」
イヴァンが部屋を出て行った瞬間、エルネスタは大きなため息を吐いてうつ伏せになった。もう見咎める人は居ないと解っていても、赤くなった顔を隠したかった。
今までずっと無表情だったくせに、いきなり笑うなんてずるい。
やけに胸が沸き立つのは彼が男前だから。妙に温かい気持ちになるのは、隣の家の犬が初めて撫でさせてくれた時と同じこと。
ただそれだけの筈だ。何せ、エルネスタは身代わりの王妃なのだから。