助けてくれたのは
「王妃様はお風邪をお召しです。重大なご病気ではありませんのでご安心下さいますよう」
王族付き薬師であるヤロミールの言葉に、王妃の部屋に残った三人は肩の力を抜く。イヴァンもまた眉をしかめたまま、長い溜息を吐き出した。
剣舞の直後に倒れた時も、そうして抱き上げた体の軽さにも、心底肝が冷えたものだ。
今のエルメンガルトはぐっすりと眠りに就いている。しかし未だに顔が赤く、苦しそうに見えるのも事実。
ルージェナも沈鬱な面持ちをして、主の額に乗せた布を取り替えている。ダシャなどは目に涙を溜めて、熱を持った頬に滲む汗を拭ってやっていた。
「どう見ても熱が高い。何か方法は無いのか」
この老薬師はイヴァンが産まれる前から王宮に勤める熟手なのだから、疑うつもりはもちろん無い。しかし食い下がらずにはいられなかった。
「お目覚めにならない以上、こうして解毒効果のある香を焚き、室内を暖めるくらいしか……。あとはこまめに額の布を冷やして差し上げることです」
ヤロミールは困ったように目を伏せた。
そうだ、当たり前だ。この親切で腕の良い薬師ならば、手を尽くした上で治療を終えるに決まっているというのに。
「……そうか、わかった。感謝する」
「勿体ないお言葉。いつでも結構でございます故、ご用命の際にはお呼び立て下さいませ」
ヤロミールが一礼を残して退室して行くのと同時、イヴァンはエルメンガルトの枕元へと向かう。
側のチェストには香炉が置かれていて、かすかな煙と共に草原を思わせる香りを漂わせていた。しかしその側で眠る彼女は苦しげな息遣いをしていて、普段の朗らかさなど見る影もない。
「俺が看る」
侍女二人がはっとしたように顔を上げたが、その驚愕の視線に自らの妻を見つめる国王は気付かない。
「陛下が、御自ら王妃様を看病なさると仰るのですか?」
かつてはこの国王の教育係を務めた侍女長は、聞いたこともないような掠れ声で主君に問うた。
イヴァンはその驚きがどこから来たものかよく知っている。だからこそ目を合わせてしっかりと告げた。
「ああ。仕事を譲ってくれ、ルージェナ」
ルージェナの紫色の瞳が見開かれたのも、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
思えば彼女には心配ばかりかけていたのかもしれない。そんなことを考えてしまえば、急に足元がぐらつく様な感覚を覚えるのだから、拳を握りしめて耐えなければならなかった。
「畏まりました。陛下の仰せのままに」
ルージェナは直ぐに冷静を取り戻して頷いて見せた。ダシャはといえば、状況が飲み込めていない様で、視線を王妃と国王とで往復させていたが、やがて侍女長に促されて礼を取る。
「陛下。王妃様は大変優秀な生徒でしたよ」
珍しく柔らかな笑みを浮かべた鋼鉄の上司を前に、ダシャが幽霊でも見た様な顔をした。ルージェナが鉄面皮を立て続けに崩すのはそれくらい珍しいことなのだ。
「王妃様はどうやら、自らを二の次になさるお方。大切にして差し上げて下さい。どうか、お願い致します」
その言葉が看病だけではなく、今後を指している事に気が付いてしまった。ぎこちなく頷いた主君に、ルージェナは満足げに礼を取り、部下を従えて退室していく。
扉が閉まるのを待って、イヴァンは寝台の側の丸椅子に腰掛けた。
額の布に触れると早くも温くなっていたので、水に浸して絞り、また乗せる。静寂に満ちた部屋に身を漂わせていると、思い出されるのは先程の出来事だった。
『勿論よ、カウツキー卿。私はこの国に嫁いだ身。なればこそ、皆と解り合いたいと思うのは当然のこと』
その凛とした眼差しが脳裏に焼き付いている。
異国から嫁してきたはずの姫君は、いつのまにか周囲の信頼と敬愛を得てしまっていた。顔を合わせなくとも聞こえて来るのは、王妃様が頑張っていること、そしていつでも笑顔を浮かべていること。
しかし今の彼女は顔に玉の汗を浮かべて、苦しそうな息遣いのまま眠りに就いている。
歩み寄ろうとしない夫と、どうしても存在する周囲との壁。この現状を何とかしようと出来る限りの努力をした結果、彼女は倒れた。
どうしてそこまでするのかと思っていたが、今ならわかる。彼女は公平な目を持ち、ただ純粋に両国の関係を憂いていた。そのために邁進する気高さを持ち合わせて。
ーー皆と解り合いたいと言った彼女に、俺は何をした。
緊張を解くまじないを教えたくらいのことで喜んでくれる、その笑顔が少しの表裏もない事に気付いていたのに。ただ遠ざけて、一人の人間としての彼女を知ろうともしないまま、俺は。
「……とんだ臆病者だ。君は、俺を笑ってくれるだろうか」
***
エリー、大切な話があるの。
七歳の夏の日のこと。イゾルテが改まってそう告げた瞬間から、エルネスタの世界は一変した。
確か居間での夕食を終えて、風呂に入ろうかという時のことだった。ブルーノとコンラートも同席していたが、弟に関しては話の意味がよくわかっていない様子で、馬のおもちゃで遊んでいたものだ。
「じゃあ……私は父さんと母さんの本当の子じゃないの?」
冗談であってほしい、と思った。それなのに両親は揃って真剣な面持ちをしていて、嘘をついていないことなど見ればすぐにわかる。
次に、悲しいと思った。本当は皇帝陛下の子だとか、そんな事はどうだっていい。無条件に信じられた親子という絆は本当は存在していなかった。その残酷な真実が、小さな胸をズタズタに引き裂いていく。
「そう……なんだ。そっか……」
なぜか自然と笑みが浮かんできた。悲しみのあまり心が麻痺を起こしていて、子供らしい反応ができなかった。
「わかった。もう、わがまま言ったりしないから」
「エリー! それは違うわ」
イゾルテが腕を伸ばしてきて、幼い娘を思い切り抱きしめた。そんなことを言わないでと、悲痛なかすれ声が耳に届く。
「あなたは母さんと父さんの子よ。今まで通り、何も変わらない。思いっきり甘えて、思いっきり遊んでちょうだい。あなたが悪いことをした時は、ちゃんと叱ってあげるから」
抱きしめる力が更に強くなる。震える肩がイゾルテの感情を直に伝えてくるのに、それでも抱きしめ返すことができない。
「あなたは知らなきゃいけなかったの。きっとどこかで知る時が来るから、その前に私から教えないともっと傷つく事になる。けど……ごめんね。あなたはまだこんなに小さいのに。悲しませて、ごめんね……」
イゾルテの表情は見えなかったけれど、その声が涙に滲んでいたのは幼心に理解できた。
ごめんね、母さん。私がいなければ、泣かなくても済んだんでしょう?
大好きなのに。父さんもコンラートも大好きなのに、どうして私だけ血がつながっていないんだろう。
泣かないで。私泣かないから。大丈夫、わかってるもの。三人とも私のことを愛して、大事にしてくれてることくらい。
それなのに母さんも父さんも私のせいで悲しんでる。ごめんね。ほんとうにごめんね……。
心の中で謝り続けていたら、今度はブルーノにイゾルテごと抱きしめられてしまった。コンラートも楽しそうに走ってきて、エルネスタの腰のあたりに張り付いている。
鍛治屋の腕は太くて大きくて、エルネスタはそこにぶら下がるのが大好きだった。
けれど、この日を境にそうする事は二度となかったのだ。
瞬きをしたら場面が切り替わって、エルネスタはすっかり今と同じ姿になっていた。先程まで見ていた悲しい過去は今は思い出せず、懐かしい我が家に向かって一直線に駆けている。
エルネスタは逸る気持ちを抑えて北極星の門をくぐった。扉の先には父と弟がいて、久しぶりの再会に涙腺が緩む。
「父さん! コンラート! ただいま……!」
二人まとめて抱きしめると、同じように抱き返してくる腕。本当に懐かしくて、温かい。
「頑張ったなあ、エリー。お疲れ様」
「姉さん、もうこんな無茶したらダメだよ。心配したんだからね」
それぞれに労われながら、エルネスタは体を離した。しかし二人の顔を覗き込んだ瞬間、違和感を感じて息が止まる。
「どうしたの、二人とも……? 何か、あった?」
ギクリと体を震わせたのはブルーノだった。エルネスタは嫌なものを感じて、それを否定するために店の奥へと駆け出した。
「姉さん!」
「エリー、待ちなさい! 父さんと一緒に……!」
やけに悲痛な声を無視してたどり着いたのは、イゾルテの部屋の前だった。
心臓が嫌な音を立てている。しかし立ち尽くしている場合ではないと、エルネスタは勇気を持って扉を開けた。
果たしてそこには、最悪の結末が待っていた。
美しい姿のまま、やせ細った体を横たえる母。その胸が上下することはなく、色を失った顔はピクリとも動かない。
「あ、ああ……あ……」
唇の端から自分の声とは思えない呻きが漏れた。馬鹿みたいに心臓が鳴り響き、頭の奥がかき混ぜられたように痛む。
「ごめ、なさ……母さん、ごめんなさい……!」
後から後から涙が溢れてくるが、拭き取ろうとも思えなかった。深い絶望と後悔、そして失望が胸中を満たし、それ以外の感情が押しつぶされていく。全身が力を失って、エルネスタは膝をついて蹲った。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 助け、られなくて……嫌だ……母さん!」
意味のない呟きが湧き出しては消える。それを繰り返していると、不意に肩を掴まれる感覚があった。
〈し……しろ! ……ぶだ、……せ〉
何を言っているのだろう。顔を上げる気力もないし、よく聞き取れない。
〈大丈夫だ、それは夢だ。目を覚ませ!〉
今度の声ははっきりと響いた。エルネスタはのろのろと顔を上げたが、それが誰であるかを確認する前に視界が白いものに閉ざされてしまった。