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月下の舞

 わからない。君は何故そこまでする?


 イヴァンは舞台から視線を逸らせずにいた。か弱い人間であるはずの少女が剣を払う度、宴席の淀んだ空気が割かれていくのがわかる。諸侯たちはすっかり静まり返っていて、新たな王妃の舞を吸い寄せられる様に見つめていた。


 銀の剣はしなやかな太刀筋を描き、スリットの入った長い袖が翻るたびに光を透かす。飾りのついた腕輪が涼やかな音色を奏で、地面を蹴る音が時折鋭く響く。


 これは月の女神に感謝を示す舞だ。彼女はそれをよく解っているようで、優しい微笑を浮かべていた。先程まであんなに青い顔をしていたと言うのに。


 これは普通ならば成し得なかったことだ。人狼族でも一月かかる舞をたった二週間で習得するには、文字通り血の滲むような努力があったのではないか。


 どうして、そこまで。

 疑問ばかりが脳内を占拠し、それと同時にまたあの感覚が襲ってくる。

 胸が痛む。耐え難い痛みだ。


 先程、彼女は二度笑った。一度目は緊張に効くおまじないを教えた時。二度目は同盟反対派の貴族から庇った時。

 彼女はそれくらいのことでどうして笑うのだろう。恐怖の対象でしかない人狼族に囲まれてなお、どうして前に進む事をやめないのだろう。


 一度高く飛んだ爪先が、右から左へと静かに着地する。一拍おいて衣装の裾がふわりと舞い降りてきて、幽玄なる時は終わりを告げた。

 エルメンガルトの頬は遠目にも判るくらい紅潮しており、荒々しい呼吸がその舞の厳しさを物語っていた。場内は相変わらず静まり返っていたが、次の瞬間、爆発的な拍手が巻き起こった。


 誰もがこの歳若い王妃の努力を推察していた。貴族たちは口々に褒め称え、場内は剣舞の最中とは打って変わって猛烈な熱気を帯びる。

 エルメンガルトは荒い息のまま放心していたが、やがてハッとした様に剣を胸に抱きかかえると、丁寧なお辞儀をした。その初々しい姿も魅力的に映ったようで、歓声が一段と大きくなる。


 王妃が恥ずかしそうに大歓声の中で舞台を辞す間、しかしイヴァンは少しも動けずにいた。


「陛下」


 声をかけられて顔を上げると、側にはヨハンが控えていた。主君があまりにも動かないので心配になったのかもしれないが、その割には彼の顔には苦笑が浮かんでいる。


「お見事でございましたね」


「ああ……」


「何を考えておいでです」


「俺が、何を考えると」


 突き放すような台詞の割に、その藍色の瞳は揺れていた。

 およそ弱音などというものとは無縁の主君が迷いを見せたのは、ヨハンにとって喜ばしい事だったらしい。彼は眼鏡の奥の瞳を細めると、無情にも言い放つのだった。


「私は知りませんよ。これは貴方が考えるべき事なのです、陛下」


 そうだ、これは自分で決めるべき事だ。選び取った道が揺らぐのは、自らの変化ゆえに他ならないのだから。



 ***



「クデラ将軍!」


 エルネスタは舞台を降りるなり、万雷の拍手の中で師と抱擁を交わす。シルヴェストルは満面の笑みを浮かべて自らの生徒を迎え入れてくれた。


「私、踊れていた?」


「もちろんですとも。素晴らしい舞でしたぞ、王妃様」


 師匠の太鼓判を得て、エルネスタはようやく緊張から解放された。瞳に薄い膜が貼り、喉の奥が焼け付くように痛んだが、あまり取り乱すわけにはいかないので我慢する。


「ルージェナ!」


 今度はルージェナがやってきて、エルネスタを自ら抱きしめてくれた。


「ご立派でございました、王妃様。本当によく頑張られましたね」


 駄目だ、やっぱり泣いてしまいそう。

 その温もりはエルネスタにイゾルテを思い出させた。病気に臥せりながら、いつも娘を応援してくれた優しい母を。


 遠くの壁際では、エンゲバーグが泣きそうな笑みで拍手をしているのが見える。少し離れたところではダシャも嬉しそうに手を叩いている。見知った侍女たちも、侍従たちも、貴族も皆が。


 少しはやれることをやったのだと、思ってもいいのだろうか。

 もちろんこれくらいのことで人間と人狼族の関係が変わるとも思わないけれど、せめて。


「いやはや、大喝采ですな王妃様。そんなに我々からの人気を得たいのですか」


 多分に棘を含んだ声が耳に届いたのはその時のことだった。

 ルージェナがさっと視線を鋭くして声の主を睨む。シルヴェストルもまた、同じように剣呑な目つきで男を見やった。


 すぐ近くの席でにやにやとした笑みを浮かべていたのは、先程会話を交わしたばかりのカウツキーだった。彼は人間の王妃が恥をかくのを期待していたのに、当てが外れてがっかりしたのだろう。


「今の恥知らずな物言いは貴様か、カウツキー。この私の前でよくもそんな大口を叩けたものだ」


 シルヴェストルは明らかな怒気を纏って腰の短刀に手を掛けたが、彼の妻が素早く制したので事なきを得た。師の短気な一面を意外に思いつつ、エルネスタは一歩前へと進む。


 この会場中が突然の諍いに釘付けになっているのがわかる。ここで引くわけにはいかない。身代わりでも立場を与えられたのなら、それに準じた姿を見せなければ。


「勿論よ、カウツキー卿。私はこの国に嫁いだ身。なればこそ、皆と解り合いたいと思うのは当然のこと」


 あまりにも堂々とした切り返しに呆気に取られたのは、なにもカウツキーだけではなかった。ルージェナもシルヴェストルも、会場にいる全ての者が、その誇り高い立ち姿に目を奪われていた。


「そこには貴方も含まれているわ。そう考えることに、何か悪いことがあるの?」


 カウツキーはそこでようやく覇気を取り戻したようで、顔を真っ赤に染め上げると、持っていたグラスを絨毯へと叩きつけた。重く鈍い音が会場内に反響し、冷静を失った喚き声が続く。


「な、何を……! 強欲で非情な人間の分際で、人狼族を解ろうなどと」


 それは一瞬の出来事だった。

 エルネスタは隣を大きなものがすり抜けていったのを感じ取る。それが何であるかを認識する頃には、カウツキーの口を戦士の手が塞いでいたのだった。


「イヴァン陛下……」


 名前を呼ぶ声は会場の騒めきに掻き消された。

 イヴァンはこちらに背を向けていて、どんな表情をしているかなど解りようもない。しかし自らの主君と相対した上で顎を鷲掴みにされたカウツキーは、既に紙のような顔色へと変貌を遂げている。


「それ以上は言うなよカウツキー」


 カウツキーは壊れたからくり人形のように頭を縦に振った。頷いているつもりなのだろうが、周囲の者の目にはただ滑稽に映った。

 王の手に力が入り、カウツキーの顔色が白から赤に変わる。

 エルネスタは一言も発せないまま、その信じがたい光景を眺めていることしかできなかった。


「貴様こそが身の程を弁えろ。妃への侮辱はこの俺への侮辱と心得るがいい」


 それは地を這うような声だった。

 相対した者ならば一切の例外なく、地面に頭を擦り付けて許しを請うことだろう。そう思わせる程に彼の背中が発するものも、その言葉が纏う怒気も、途方も無い力を有していた。


 臣下が必死の形相で頷いたのを受けて、イヴァンはようやく手を離す。


 カウツキーは力なく地面に蹲って咳き込んだが、彼を助けようとする勇者は一人もいなかった。

 その場にいた殆どの者が、国王の持つ唯一無二の気迫に飲み込まれていたのだ。それはシルヴェストルのように慣れた者ですら、一瞬動けなくなるほどのもの。


 イヴァンがゆっくりとこちらを向く。エルネスタは完全に硬直していたのだが、彼と目を合わせた瞬間にある事に気付いてしまった。


 ーー何でそんなに悲しそうな目をするの。


 いつもの無表情からどうしてそう感じ取ったのかは分からない。ただエルネスタは、この孤高の王様をこのままにしておけないと思った。

 せめて一度でいいから、どうか。


 心から笑った顔が見たい。


 衝動的に、そう願った。


「陛下。どう、なさったのですか」


 それなのに一歩を踏み出した足が、不意に力を失った。剣舞に全神経を集中させすぎたのか、そういえば全身がだるくて動かしにくい。


「私のことなら、大丈夫、ですよ」


 もう一歩進もうとしたら、今度は膝が役目を放棄したようだ。顔が火照り頭がぼんやりとして、何故か思考回路までもが働かない。急速な眠気に襲われて、体が傾いでいくのに受け身すら取ることができないままうつらと目を瞑る。


 遠くに悲鳴が聞こえた。それと同時に逞しい腕が受け止めてくれるのを、エルネスタは確かに感じたのだった。


余談ですが、アークリグとチョハはジョージアの民族衣装をお借りしています。こちらはものすごく美しい衣装ですので、興味のある方はぜひ検索してみて下さい。

地球上には存在しない種族の国なので、独特の雰囲気が出せるように東欧と中近東の文化をごちゃ混ぜにしています。

ファンタジー世界ということで大目に見て頂ければ…!

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