建国祭
期日までに何かを成さねばならない時、時の流れは早く感じられるものだ。
エルネスタは毎日を勉強と稽古に費やした。夜の自主練も取り入れて、ひたすらに舞う。もはや意地とでも言うべき日々は瞬く間に過ぎ去り、あっという間に建国祭当日がやってきた。
エルネスタはこの日、朝から大忙しだった。来賓が次々と来城するのでその度に出迎え、会場に顔を出して女中達を労う。その合間を縫っては剣舞の最終確認をし、ほんの少しの食事を取りながら準備を進めていく。
そして今、エルネスタはついに剣舞の衣装へと着替えをしているところだった。いつものアークリグと比べて多くの布を重ねた非常に豪華な品で、一人で着ることができずに手伝ってもらっている。
「王妃様、とってもお似合いです! 本当にお美しいですっ!」
ダシャはいつも以上に目を輝かせて己の主を褒めそやした。
髪は舞の際に邪魔にならないよう編み込みにされ、青い花の髪飾りをあしらってもらった。月の女神への剣舞に合わせ、紺色の絹と金糸を駆使して作られた衣装は美しく、エルネスタのほっそりとした肢体を浮かび上がらせている。
「ありがとう。ダシャ」
しかし褒められた本人は曖昧に笑うことしかできなかった。緊張と、分不相応な事をしているという焦燥感が、今更のように胸中を苛んでいる。
「王妃様、大丈夫ですよ。貴女様はクデラのお墨付きを得ているのです。自信をお持ちなさい」
ルージェナが主の緊張に気付いて静かに語りかける。彼女にしては随分と好意的な台詞に、ダシャが面白そうに笑った。
「ルージェナ様は近頃お優しいですよね」
「ダシャ、無駄口を叩いていないで早くお水をお持ちしなさい」
「は、はい、すぐに!」
脱兎のごとく走り去った少女の背を見送って、エルネスタは目を細めた。
頑張らなければ。応援してくれる彼女らのためにも、絶対にやり遂げるのだ。
大広間はすっかり建国祭の仕様へと様変わりしていた。
月を象った飾りがそこかしこに取り付けられ、ランプの明かりが夕方の薄暗がりを照らし出している。
絨毯の上には所狭しとシェンカ料理が並べられ、馥郁とした香りが漂う中、凄まじい数の諸侯たちが歓談する様は壮観という他ない。
エルネスタは上座で体を強張らせていた。緊張すればするだけ失敗に近付くことはわかっているのに、どうにもならない。喉が乾燥してヒリヒリと痛むし、頬には熱がこもって逃げ場を失っている。
ふと近くからの視線を感じて、エルネスタは隣を見やった。
そこにはイヴァンが胡座の姿勢で鎮座している。先ほどまでと違ったのは、その藍色の瞳がこちらを見つめていたことだ。
「……あの、陛下? 私の顔に何か付いていますか?」
「いや。酷い顔だと思ったまでだ」
その指摘は確実な鋭さでエルネスタの胸をえぐった。
やっぱり緊張が顔に出ていたようだ。いやむしろ、そのまま容姿をけなされたのだろうか。顔に手を当てて恥じ入っていると、次に聞こえてきたのは輪をかけて信じられないような言葉だった。
「シェンカでは、緊張した時に指の腹を小指から順番につまむ」
エルネスタはあからさまに驚きを表情に乗せてしまった。
まさか、まさか、もしかして。この方は今、助言をくれたのだろうか。
「えっ……ええと、こうですか? 小指から、順番に……」
言われた通りに小指、薬指、中指……とつまんでいく。イヴァンは冷徹な無表情のままではあったが、そうだと頷いてくれた。
「親指まで終わったら反対の手だ。緊張がほぐれるまで繰り返す。時間が潰れる分、気休めくらいにはなるだろう」
イヴァンの言葉通り、五周目に入る頃にはだいぶ落ち着いてきた。我ながら単純だと思うが、何よりも彼の気遣いが嬉しかった。
「本当に楽になりました……! ありがとうございます、陛下」
「そうか」
その瞳はすでに逸らされて、もうこちらを見てはいない。冷たい表情は相変わらずだったが、エルネスタにとってはその泰然とした姿が心強く感じられた。
皆が揃ったタイミングで国王から乾杯の音頭が放たれ、祝宴は本格的に始まった。
同時に国王夫妻の前には、挨拶を目論む者たちによる輪が形成されてしまう。結婚式で経験したこととはいえ、倍以上年の離れた重鎮達に囲まれるのは、そう愉快なものではない。
エルネスタはできうる限り朗らかに努めた。イヴァンはというとエルネスタと話す時より饒舌で、諸侯たちと如才無い受け答えを交わしている。
この国王は誰かと話すこと自体が嫌いという訳では無いのだ。エルネスタとの会話が無いのは人間相手だからか、それとも単に興味がないからか。
こちらに来て二週間が経つのに、何よりもこの国王陛下の事が一番わからない。いつもの疑問が胸に重くのしかかって来て、エルネスタは無理矢理にでも気持ちを浮上させねばならなかった。
落ち込んでいてはだめだ。今はただ、そろそろ始まる剣舞のことだけを考えていれば良い。
「王妃様。此度は剣舞をご披露いただけると伺っておりますぞ。いやはや、楽しみですなぁ」
輪の中の一人が嫌にべっとりとした声で話題を提供して来た。すると周囲も呼応してどこか白々しい雰囲気が漂う。
「人狼族の舞は難しいでしょう。よくお申し出になりましたなぁ」
「なんでもクデラ将軍のお墨付きを得ているとか。かの英雄からの指導となれば、少しの間違いも無いでしょうな」
「それは素晴らしい。とはいえ王妃様の美貌にかかれば、多少の粗など気にならなくなるというものです」
普通の会話に聞こえるようでいて、その言葉は明らかな棘を含んでいた。こういう時は相手にしないのが一番だとエンゲバーグに言われていたので、明るく笑って聞き流す事にする。
彼らが「同盟反対派」の貴族であることは、エルネスタにはすぐに判った。人狼族の中では人間との同盟に異を唱える者も多く、その急先鋒となっているのが一番最初に声を上げたカウツキー卿なのだ。
彼らが人間の王妃を気に入らないのは当然のこと。しかしこう悪意を向けられては、仕方がないとわかっていても鉛を飲み込んだような気分になる。
「あまり言ってくれるな。貴君らにこぞって期待されては、王妃もいらぬ緊張を得てしまうだろう」
エルネスタは思わず隣に視線を飛ばした。イヴァンは相変わらず落ち着いていて、こちらを見ようともしていない。
だから先程緊張に効くおまじないを教えてくれたことよりも、もっと信じられなかった。
ーーまさかこの方が庇ってくださるだなんて。
それを自覚した瞬間、エルネスタは胸に温かな火が灯るのを感じた。
本当によくわからないひとだ。けれど、きっと優しいひと。
これ以上の優しさが向けられる事はないのかもしれないけれど、それでも構わない。
やれるだけのことをやろう。人間の王妃に対する悪い印象を少しでも変えられるように。
断りを入れてその場を離れたエルネスタは、中央に設えられた舞台へと歩いて行った。
会場内は何本もの列になって招待客が座り、その間に料理が置かれるという形になっているのだが、中央にはがらんとした空間が存在する。そこは建国祭にあたって設えられたもので、様々な出し物のために用意された舞台なのだ。
「王妃様。調子は如何ですか?」
舞台の側ではシルヴェストルが待っていた。彼の優しさに笑みを返したエルネスタは、力強く頷いて見せる。
「最高よ」
「はっは! なれば良し。さあ、見せておあげなさい」
虚勢はあっさりと見抜かれ爽快に笑い飛ばされてしまったが、彼は王妃に合わせて不敵な笑みを浮かべてくれた。
差し出された剣は刃が取ってあるとはいえ、鉄で出来ているのでずっしりとした重みがある。エルネスタはそれを二本の腕で恭しく受け取ると、ついに舞台への一歩を踏み出した。