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王者の戒め

 イヴァンは夜になっても執務室の文机に噛り付いていた。


 建国祭を前にして羊皮紙の山は一向に減る気配を見せず、判を押しても押しても終わらない。窓の外は疾うの昔に闇に覆われ、城内を行き来する者もほとんどいなくなっている。


 しかし今日はいつもと違う事が一つあった。遠くに響く靴音が執務室の前で止まり、次いで扉がノックされたのである。


「こんばんは、陛下。少々よろしいですかな」


 シルヴェストル・クデラはいつもの美しい所作で一礼して見せた。イヴァンは国の英雄を迎えるにあたって仕事を止め、対面のラグに腰掛けるよう手で示す。彼が座ったのを受けて、こちらから話を切り出すことにした。


「シルヴェストル、どうかしたのか。こんな時間に珍しいな」


「おや、本当は察しがついておられるのでしょう」


 それは見慣れた苦笑だった。恩師でもある最高の戦士が、子供の意地をなだめる時の顔だ。


「知らないな。俺は察しのいい方じゃないんだ」


「そうでしたかな。では申し上げますが、用件は恐れ多くも王妃様についてです」


 予想通りの話題を持ち出されたので、イヴァンは眉ひとつ動かさないまま息を吐いた。

 あの王妃が自ら志願して舞踊を練習している事は聞いている。そしてこの男が講師として付いているという事も。


「陛下は王妃様とお話をされる機会はございますか」


 またしても予想通りの指摘である。シルヴェストルは親切な男で、イヴァンが王子だった頃から何くれとなく世話を焼いてくれたものだ。


 そうでなくとも最近はエルメンガルトの良い評判を聞くことが増えた。あのルージェナですら根性を買っていると言うのだから、かの姫君は心を掴む術に長けているらしい。


「この件に関して貴方の進言を受けるつもりはない」


 だが、こればかりは話が別だ。

 イヴァンの心には太く長い棘が突き刺さっている。それは死に至るようなものではないが、生涯に渡ってチクチクと苛む枷だ。


「王妃は人間で、明らかに俺に怯えている。仕方のないことだ」


「私はそうは思いませぬ。そのように頑なになられて、一体何が残りましょうや」


「王妃との関係など、俺にはどうでもいい。同盟が堅固なものになるならそれだけでいいんだ」


 言い切ったのち、執務室を押し包んだのは重い静寂だった。


 灰色の瞳が訴えるものが何であるかは解っている。幼い頃から教え導いてくれた存在が心を痛めていても、イヴァンは己の考えを曲げることができないのだ。


「貴方様は素晴らしい国王陛下であらせられます。しかし……国王とは、個を滅さねばならぬ程に過酷なお役目なのでしょうか」


「そうではないのかもしれない。しかし俺はそうせねばならなかった。それだけのことだ」


 臣下の力を借り、己の全てを費やして、無理に無理を重ねなければ、ここまでたどり着くことすらできなかった。きっと自分は国王の器ではないのだろう。


「陛下。我々は……」


 シルヴェストルは微かな嘆息とともに口をつぐむ。その先は想像することしかできないが、浮かんだ台詞のどれもがしっくりこなかった。




 風呂を終えて寝室にたどり着いたのは、いつになく遅い時間になってのことだった。


 この程度のことで疲労を感じるイヴァンではない。それでも寝台に向かう足取りが重いのは、先に休んでいるであろう妻のせいだ。


 案の条、王妃は昼間の疲労から無防備な顔を晒していた。綺麗な女の寝姿などさしたる興味は無いはずなのに、近頃妙に胸がざわめくのは何故か。


『陛下は王妃様とお話をされる機会はございますか』


 ふいに先程のシルヴェストルの言葉が脳裏に蘇った。

 同時に胸が痛みを訴え出して、その耐え難さに思わず寝巻きの合わせを握りしめる。


 決めたのは自分のはずだ。それなのに、どうして罪悪感など感じられようか。


 全てはシェンカのため。

 ブラルから政略結婚を持ちかけられ、これを承諾した。宮殿を訪問した際に王女が顔を見せる事は無く、怖がられていることは解っていたのに、それでも国を優先した。


 きっと彼女は夫の顔など見たくもないのだろう。それならばなるべく気楽に過ごしてくれたら良いと、いくつか取り計らった。ひとまず初夜を延期したのも、向こうが気の毒なほどに緊張していたからだ。


 しかし実際王妃となった彼女はどうだ。


 イヴァンの傷を心配して躊躇いもなく手に触れたかと思えば、満月の夜に人狼の姿へと変異することを素敵などと言ってのける。狼にも恐れず侍女や国の英雄とすら打ち解け、舞踊の練習や勉強に励み、こうして警戒心もなく眠りこけている。


 ーーなぜそうまでするんだ。君は俺など、人狼族など嫌いだろう。


 個など要らないと決めたのは自分自身であり、一生を妻に恨まれて過ごす覚悟を固めたはずだった。

 それなのにどうして今更になって胸が痛む。罪悪感など、抱く資格すら無いというのに。



 ***



 目を覚ました時、エルネスタは相変わらずひとりきりだった。


 太陽が室内を白く照らし出し、鳥の囀りが鼓膜をくすぐる。見慣れた光景に感じるのが安堵なのか落胆なのか、自分でもよくわからなかった。

 しかし、一週間経過しても何も無しとは、そろそろ色気不足を本気で心配するべきだろうか。


 ーーあ、でも……もしかすると、愛人でもいるのかもしれないわ。何なら帰ってきてすらいないのかも。


 そんな考えが浮かんだ時、何故だか胸が少しだけ痛んだような気がした。

 そんなことを思うのはおかしい。イヴァンはかりそめの夫で、今回の謀事の一番の対象だ。どうやら未だ見ぬ姉の結婚生活を思って暗い気持ちになってしまったらしい。


「失礼致します。おはようございます、王妃様」


 呆けているうちにルージェナがやってきた。王妃の世話はダシャだけが担当する訳ではなく、何人かで交代しながら担われているのだ。

 今日も濃紺のアークリグを隙なく着こなした侍女長は、朝日に照らされて尚にこりともしない。


「おはようございます、ルージェナ。良い朝ね」


「左様でございますね。さあ、お召し替えを」


 雑談を切って捨てられるのもいつものことだ。エルネスタは大人しく立ち上がり、クローゼットの前へと向かう。

 しかし今日に限ってルージェナが柳眉をひそめるので、何かやらかしたかと肝を冷やす事になった。


「王妃様、こちらのお怪我はどうなさいました」


「え? ……あら」


 何のことかと思えば、厳しい視線を追った先、手首のあたりに真新しい青痣があった。昨日は稽古にやっと剣を取り入れたので、知らずのうちに打ち付けていたらしい。


「剣舞の稽古で打ってしまったみたい。大したことないわ」


 押せば痛いだろうが放っておけば問題ない。エルネスタの価値観ではそれ以上でもそれ以下でもない痣……のはずだったのだが。


「何をおっしゃいます! 手当もせずに放置するなど、御身を何だと思っておられるのです!」


 見たことのない程の剣幕に、エルネスタはひっと首を縮めた。しかしルージェナの怒りは留まるところを知らず、別件にまで及び始める。


「だいたい、目の下の隈が酷うございます。ちゃんと睡眠は取っておられるのですか」


「そ、それは……可能な限り寝ているけど、復習とか色々と長引いてしまって」


「体調を崩される様な復習なら結構でございます。もっと御自覚なさいませ」


 それはつまり、もっと自分の体を大切にしろということだろうか。言葉がきついことに変わりはなかったので、だいぶ前向きに捉えればだが。


「心配してくれるのね。ありがとう」


「王妃様。私は怒っているのですよ」


 つい嬉しくなって微笑んだら、にべもなく叩き落とされてしまった。しかしこの鋼鉄の侍女長の態度が緩んだ気がするのは、きっと気のせいではないだろう。


「すぐに手当をさせて頂きます。お召し替えはその後に致しましょう」


「わかったわ。お願いします、ルージェナ」


 最初は怖そうなひとだと思ってしまったけれど、彼女に勉強を教わる中で少しずつ解ってきた。ルージェナは責任感と深い思いやりを持ち合わせた女性なのだと。

 舞踊への挑戦を止めたのも、もしかするとこんな事態を想定しての事だったのかもしれない。


 手首に軟膏を塗ってもらいながら、エルネスタはそうと判らぬほどに小さく微笑んだのだった。


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