ど根性を見せてやれ
「王妃様、それでは本日の復習です。最近になって金の採掘が始まった鉱山をなんといいますか」
「ええと確か……コシュカ山、だったかしら」
「不正解です。正しくはコチュカ山、ですわ」
惜しい、とエルネスタは胸中で指を鳴らしたが、ルージェナはそうは思わなかったらしい。
「お教えした事は一度で覚えて頂かねば困ります。舞踊の稽古があるからと言って、手を抜いている場合ではないのですよ」
案の定ルージェナはとんでもなく厳しい講師だった。エルネスタは毎日の講義に付いて行くだけで精一杯だったが、彼女の言う通り甘えは許されない。何せやると決めたのは自分なのだから。
「はい。夜に復習をしておきます」
「……それならば良いのです。では、また明日続きを」
建国祭までの間、舞踊の練習は主に夕方からにして、昼間は勉強に時間を割く事になった。
本来王妃の仕事は謁見や訪問など多岐に渡るのだが、どんな仕事にも研修期間は存在するらしい。ちょうど一月程度で終わるだろうとルージェナは言うが、エルネスタは不安だった。
それではエルメンガルトは練習なしで初仕事に取り掛かる事になってしまう。
エルネスタは習った事はなるべく日記にまとめることにした。昼間は勉強、夕方は舞踊、夜は復習を兼ねた日記を付けるという忙しい日々。
全てを終えた瞬間に眠ってしまうため、同じ寝台で眠っているはずのイヴァンとは顔を合わせる機会すら無い。
そうして必死になって足掻いているうちに、いつの間にか一週間が経過していたのだった。
「王妃様、そこはもう少し腕を高く伸ばして下さい……はい、結構です。これは戦いの舞踊ではなく神に捧げるものですから、常に柔らかさを心がけて下さい。うむ、良いですぞ」
シルヴェストルの特訓もまた、案の定過酷なものだった。
この将軍は怒鳴ったり怒ったりという事はしないものの、笑顔でとんでもない練習量を課してくるのだ。エルネスタ自身運動は好きなのだが、それでも毎回ふらふらになってしまう。
荒い息遣いのまま床にへたり込んだ王妃の元へ、シルヴェストルが水と布を手に近寄ってくる。
礼を言ってそれらを受け取ると、彼は穏やかに微笑んで、エルネスタの隣に胡座をかいて座り込んだ。品のいい老紳士なのにそんな姿勢も似合ってしまうとは、何とも深みのある御仁である。
「頑張っておられますな、王妃様。失礼を承知で申し上げますが、ここまで付いて来て頂けるとは思いませんでした」
「本当、ですか? クデラ将軍に、そう言ってもらえると、凄く嬉しいわ」
返事は息切れによって聞き取りにくいものとなってしまったが、国の英雄からのこれ以上ない賛辞には素直な喜びを覚えた。
疲労に震える手で額の汗をぬぐい、カップに入った水を飲む。その水には果汁が絞られていて、ほのかな甘みがこれ以上ないほどありがたい。
「しかし、どうしてそこまでなさいます。此度の舞踊は強制ではなかったでしょうに」
この一週間でシルヴェストルとは色々な雑談をした。しかしこの時の質問は、今までで一番踏み込んだものだった。
「そうね……それは多分、悔しいから」
シルヴェストルは沈黙をもって先を促す。カップの表面の小さな水面を見詰めながら、エルネスタは話を続けた。
「私はね、他国に嫁ぐということを甘く考えていたのだと思う。思っていたよりもずっとずっと、人と人狼族の間には高い壁があって……皆は親切にしてくれるけど、諦めを覆い隠している様な気がするの。あんな人間のお姫様に舞踊は無理だからやらせる必要はない。仲良くなれなくても、仲が悪くならなければいいって。きっと多くの方がそう考えているわ」
普段話すことのない貴族たちの戸惑うような視線。壁のある侍女達。怖がられることは悲しいと言ったダシャ。
そして、心の内を決して見せようとしないイヴァン。
エルネスタはその全てが悔しかった。人も人狼族も心の有り様は変わらないのに、決して交わらない両者の関係が歯がゆかった。
「それなのに私まで同じ考え方を持ってしまったら、どうにもならないでしょう?」
付かず離れずの距離を保つなら、舞踊など引き受けなくとも問題は無かったのかも知れない。
しかし、それでは両者の関係は冷え切ったまま、延々と平行線を辿るだろう。せっかく同盟を結んだというのに、そんなの悲しすぎるではないか。
「だから何もしないままではいたくなかったの。……でしゃばりなのは解っていたのだけど」
最後の言葉は自身への戒めとして発したものだった。
そう、エルネスタは所詮身代わり。あまり好き勝手な行動を取ってはならないと、それだけは忘れずに過ごさなければ。
「王妃様のような歳若いお方が、そうまで深く両国の関係を憂いておいでとは。私は、恥ずかしい思いです」
「そっ、そんな……!」
事情を知らないシルヴェストルが目を伏せるので、エルネスタは慌ててかぶりを振った。
自身の行動が両国の関係に良い影響を与えるだなんて驕るつもりはない。もしそうなったならそれはエルメンガルトの影響力のお陰であり、エルネスタの功績では無いのだ。
「王妃様の行動は誰にでも真似できる事ではありません。貴女様に敬意を。きっとこの得難い努力は実を結ばれましょう」
「……そう、かしら」
「ええ。勿論にございます」
この国の者に背中を押してもらうのは初めてのことだった。
その暖かさに自然と笑みがこぼれる。エルネスタは残りの水をぐいと飲み干して、疲れを感じさせない足取りで立ち上がった。
「さあ、練習を始めましょう! 絶対に習得して見せるわ!」
「おお、その意気ですぞ王妃様! 私もいくらでもお供致しますとも!」
シルヴェストルもまた軽快な動きで立ち上がる。
即席の師匠と生徒は存外良い関係を築いており、今日もまた熱心な稽古が続くのだった。
*
「王妃様、お疲れ様でございました!」
自室に戻るなり、ダシャが赤銅色の髪を跳ねさせながら振り返るので、エルネスタはほっと息を吐いた。
「ダシャ。遅くまでありがとう」
「とんでもないことでございます! 王妃様にお仕えさせて頂き、私は幸せです!」
酷い有様のエルネスタとは対照的に、ダシャは今日も元気に絶好調だ。以前胸の内を打ち明けられて以来、この侍女は王妃を慕ってくれているらしい。
同時に仕事のミスも皆無になったのだから、他国から来た王妃に仕える事がどれほどの重圧になっていたのか知れようというものだ。
「ダシャはここで働いて長いの?」
「学校を卒業したのが十二歳ですので、そろそろ三年になります」
このシェンカでは全ての民に向かって学校が開かれている。学問に秀でるごく一部の者を除き、成人とされる十四歳までには卒業して働き始めるのが一般的とのことだ。
ブラルでは庶民の女は学校になど通えない。シェンカのこの政策はイヴァン王の治世になってから導入されたものであり、世界的に見ても画期的な制度なのだ。
「そうなのね。学校は楽しかった?」
「はい、それはもう! 友人とは未だに交流がありますし、何より私のような粗忽者が今こうして働いているのも、教育があったお陰ですから」
侍女は貴族の令嬢しか務めることができないため、ダシャも当然高貴な身分の姫君である。
それでも彼女らは真摯に働いている。それは総人口の少ないこの国では必要なことなのだろうが、エルネスタからすれば驚きを感じざるを得ない。
人狼族は皆が勤勉で実直だ。未だ打ち解けられていないこの状況でも、シェンカがとても良い国だというのは肌で感じることができる。
「陛下には心より感謝しております。全ての民に対してこれほど心を配ってくださるお方は、そうはいらっしゃらないでしょう」
ダシャの瞳には迷いも曇りも存在せず、ただ純粋な畏敬だけがそこにはあった。
イヴァンとは数度しか話したことがなく、未だによくわからないとしか言いようがない。しかし今まで見聞きしたことや、この国の現状から鑑みるに、賢君であることは間違いないのだろう。




