人狼族の舞踊
「ぶ、舞踊、ですか?」
声が上ずってしまった事には気付いていたが、今は気にしようとも思えなかった。
目の前には無表情のルージェナがいる。エルネスタはもう一度、慎重に言葉を紡いだ。
「舞踊って、どんなものなの? 私にできるでしょうか」
最初の大きな行事として、二週間後に建国祭があるのだという。
古代より昔、当時の族長が月の女神からお告げを得て、この地への定住を決めた記念すべき日。
殆ど伝承じみた話ではあるが、人狼族はこの日をとても大切にしていて、国を挙げての祭りが開かれるのだ。各地で舞が月の女神に向かって奉納され、王城では夕方から祝宴が催されるらしい。
エルネスタにとっては身代り期間中唯一のイベントである。大一番を前にして緊張が高まるものの、逆に言えばこれを乗り越えてしまえばもう山は無い。
しかしその内容は尻込みせざるを得ないものだった。なんと、祝宴にて王妃が舞踊を披露するのが習わしになっていると言うのだ。
「剣舞ですわ。月の女神に捧げる舞として受け継がれてきたもので、王妃殿下にしか舞うことが許されていない特別なものですよ」
エルネスタは背中に重りを乗せられたような気分になった。そんな大事な舞を担うだなんて、どれ程の責任が伴う事だろう。
「ですが、無理をすることはないと国王陛下が仰せです」
「……え?」
エルネスタは自分の耳を疑った。今、解放の一言がもたらされた様な。
「この度はいくら何でも準備期間が短いと。本来ならばひと月ほど前から練習するものですから」
「そう、なの……?」
「ええ。ですから、今年は無しにしてもよろしいかと。皆も理解するでしょう」
なるほど確かにそうなのだろう、きっと臣下の間でも無いものとして扱われているに違いない。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。
かの国王陛下は「無理はしなくていい」と言った。けれどその言葉が労わりでなく拒絶から来ている事は、数少ない会話から理解しているつもりだ。
一体どうしてそこまで頑ななのかは知らないが、一つだけ確かな事がある。
ここでその言葉に甘えてしまっては、何も変わらないのだと。
「いいえルージェナ。私はやります。やらせてもらいたいの」
ルージェナの表情が崩れたのは初めての事だった。それ程に驚く様なことを言ったつもりはなく、より険しい道へと足を踏み出してしまったという実感だけがあった。
先ほどまで尻込みしているほどだったのに、馬鹿なことを言っているとは思う。けれどエルネスタはいい加減な心構えで王妃の役目を務めたくはなかった。そう強く願ってしまったのだ。
「剣舞はそう簡単なものではありません。人狼族でも一月の練習を要するのです。たった二週間では、流石に」
ルージェナならば賛成してくれると思ったのだが、どうしてか止められてしまった。より燃え上がる胸を抑えつつ、エルネスタはぐいと詰め寄る。
「できる事はなんでもやりたいの。お願いルージェナ、協力してください!」
頭を下げそうな勢いの王妃に、侍女長は気押される様にして頷いたのだった。
昼食を食べ終わった頃、エンゲバーグが訪ねてきてくれた。彼は言いにくそうに今日までの出来事を教えてくださいと切り出してきたので、エルネスタはまずあの件について報告する事にした。
「つまり、今のところは何も無かったと。そういうことでよろしいのですね」
「そうよ。心配してくれてありがとう」
笑顔でうなずいて見せると有能な大使はあからさまな溜息をついた。どうやらエルネスタの身持ちについて、真剣に心配してくれていたらしい。
「安心いたしました。随分と上手く立ち回って頂いているようですね」
「そんなことないわ。なるようになっただけよ」
そう、なるようになっただけ。エルネスタは何もしていないし、むしろ失態を犯しているくらいだ。
「何をおっしゃいます。エルネスタ様は大変良くやっておいでです。その調子でお願いしますぞ」
「あはは……わかったわ。頑張るわね」
ちなみに今までの二人の会話はほとんど囁き声である。中に人はいないにせよ、どこから聞こえてしまうかわからないので用心するに越したことはない。
「ところで、二週間後には建国祭ですな」
そこでエンゲバーグは声の調子を普段通りに戻した。聞かれてはまずい会話は終わったのだと理解したエルネスタは、彼に合わせて普段通りに話し始める。
「ええ、そうね。それで実は、報告があるのだけど…」
剣舞を披露することになった経緯を説明したら、彼は大袈裟なほどの驚きを見せた。
「それで、わざわざ剣舞を……!? これはまた、なんという」
エンゲバーグは驚きも冷めやらぬと言った様子で、目を見開いたまま呟いている。彼に苦労をかけている事を改めて実感して、エルネスタは頭を下げた。
「ごめんなさい、つい申し出てしまって……。やりすぎだったかしら」
やはり良くない事をしてしまったのだ。エルネスタは反省して肩を落としたが、エンゲバーグは顔を横に降った。
「エルメンガルト様が落ち込まれるような事はございません。ただ……」
そこでシェンカ大使は言葉を切った。歯切れの悪い様子にじっとその先を待っていると、やがて彼はいつものように笑って見せた。
「いいえ。貴女様がそうなさりたいのなら、それが一番です」
そこでエンゲバーグは声を潜めた。きちんと聞き取れるように、エルネスタもまた耳を寄せる。
「付かず離れずの距離とは身代わりが露見しないための術ですから、むしろその危険がないのなら信頼関係を築いた方が良いのです。エルネスタ様は良くやっておいでですから、疑問を持たれる可能性は低いでしょう」
「そうかしら。全然自信がないのだけど」
「大丈夫です。貴女様はどこからどう見ても本物の姫君です。私が保証致しますゆえ」
エンゲバーグは信頼の置ける笑みを浮かべている。
そうなのだろうか。お姫様になりきれている気なんて、これっぽっちもしないのに。
「エルメンガルト様よりよっぽど協調性をお持ちですから、その調子で信頼を得てしまってください」
エンゲバーグはいつもの如く遠い笑みを浮かべると、くれぐれも無理だけはしない様にと言い置いて、王妃の部屋を辞したのだった。
王城の廊下を歩いていると遠巻きな視線が気にかかる。
エルネスタを見るそれらは、決して悪意から来るものばかりではない。しかし戸惑いや恐れといった感情が漂うのを肌で感じると、落ち込まずにはいられない。
人狼族の貴族たちは人間に対してどんな思いを抱えているのだろうか。そんなことは解るはずも無いが、想像することはできる。
暗澹たる気持ちを抱えて進むうちに、目的の場所に辿り着いていた。広くガランとした室内で待っていたのは、見覚えのある老紳士だった。
「こんばんは、王妃様。先日の披露宴以来ですな」
「こんばんは。どうぞよろしくお願いします、クデラ将軍」
シルヴェストル・クデラ将軍は、国王軍指揮官の一人である。まだらに白く染まったグレーの髪と口ひげを蓄えた彼は、数々の武勲を上げたことで有名な英雄で、黒いチョハが似合う素敵な老戦士だ。
初めは傑物の時間を割いてもらうなんてと恐縮したのだが、彼は代々舞踊の伝承を担ってきたクデラ家の当主なのだという。そして侍女長ルージェナはこの男の妻であり、王妃のために掛け合ってくれたのだそうだ。
そこまで取り計らってもらっては遠慮する訳にもいかず、指導をお願いする運びとなったのである。
「しかし嬉しいですな。王妃様御自ら、剣舞を行いたいとお申し出下さるとは」
シルヴェストルは楽しげに顎を撫でている。ほぼ初対面でここまで明るく接して貰えたのは初めてだったので、エルネスタもまた嬉しく思った。
「厳しくして頂いて構いません。二週間で踊れる様になるなら、どんなに過酷な練習でも付いていきます!」
「ほほう。なかなかの気迫でいらっしゃる」
王妃の前のめりとも言える勢いにも、百戦錬磨の将軍はたじろぐ事はなかった。
「畏まりました。このシルヴェストルの身命を賭して、貴女様のお望みを叶えて差し上げましょう」
現役の老戦士は灰色の瞳を細めて笑う。その姿に底知れない凄みを感じたエルネスタは、これから始まる特訓の過酷さを悟って喉を鳴らしたのだった。




