ことの発端
「まだ見つからんのか! この無能どもめ!」
皇帝カールハインツからの一喝を受けて、跪く臣下たちは一様に拳を強く握りしめた。
その中の一人、ベンヤミン・フォン・エンゲバーグ伯爵は胸の内ではこう思っていた。「この愚帝め、そろそろ限界だ」と。
「出発予定日は今日だったのだぞ! これでは間に合わんではないか!」
皇帝の末娘であるエルメンガルトが輿入れを前に出奔したのは、一週間ほど前のことである。
姫君の嫁ぎ先は隣国、人狼族の国シェンカであった。かの国との同盟をより強固にするための、いわゆる政略結婚というやつだ。
このブラル帝国において人狼族への偏見はまだまだ根強い。花嫁の失踪という一大事を知らされた数少ない臣下たちの間では、どうしてもこの結婚が嫌だったのだろうともっぱらの噂だ。
しかし古くから帝室の教育係を務め、数年前にシェンカ大使となったエンゲバーグは、エルメンガルトの人柄をよく知っていた。
あの姫君は蛮族との結婚に恐れをなして逃げるような臆病者ではない。理由は推し量ることしかできないが、おそらくは強い意志を持ち、信じられないほど身勝手な理屈を掲げてのことだろう。
「騎士団長! 貴様は世間知らずの姫一人満足に探し出せんのか!」
「申し訳ございません、陛下。箝口令を敷いたままでは、あまり人数を割くこともできず」
気の毒な騎士団長は、頭を下げつつも嫌味を言うことを忘れなかった。しかし頭に血が上った皇帝は、臣下達の苛立ちにも気付いていない。
エンゲバーグは地面を見つめたままため息をついた。
そもそも娘とまともな関係を築いていないからこうなるのだ。誰に対しても物事を押し付けることしかできないなら、その地位に見合った能力がないと言える。
隣に座る皇后コンスタンツェは、皇帝の怒りようにも娘が行方不明という現状にも黙したまま。一歩下がって夫を立てるその姿は妻としては正しくあったが、同じ親としては理解できない。
「こうなったら仕方があるまい。エンゲバーグ伯!」
「は」
「今こそあの切り札を使う時だ。あれにエルメンガルトの身代わりを務めさせよ」
その言葉には血の気を失わざるを得なかった。
エンゲバーグは許しを得た上で顔を上げる。カールハインツの尊顔には醜悪な笑みが浮かんでいて、人道に反する行いに及ぶ我が身を省みる様子もない。
「そ、それは……陛下、そのような無茶がまかり通るはずがございません! 必ずやどこかで露見する事となりましょう」
「貴様は余の言うことに否を唱えると?」
「そうではございません。露見した際の危険が大きすぎると申しているのです」
人狼族はその名の通り、人の姿と狼の姿を持った屈強な種族だ。少しでも蔑ろにすれば、どんな報復が与えられるのか考えるだに恐ろしい。
「だからこその身代わりではないか。今更結婚を無しにしてくれと言えば、それこそどんな反応が返ってくると思う」
「しかし……!」
「これは勅命ぞ、伯爵。これ以上の押し問答など必要ない」
エンゲバーグは続く言葉を喉の奥へと飲み込んだ。隠居も考える歳になったとはいえ、反逆罪での処刑は流石に御免被る。
この皇帝にとって一番大事なのは見栄なのだ。口では平和を重んずるようなことを言って、頭の中では蛮族などに頭は下げたくないと考えている。力を増すシェンカに押されるようにして同盟を組んだのは、他ならぬ自分だというのに。
「……は。ご勅命承ります」
こうして、エンゲバーグは計略の全ての責を負う形となった。
お読み頂きありがとうございます。
ヒーローは5話から登場します。
ブックマークや評価などで応援いただけますと、今後の執筆の糧になります。
どうぞよろしくお願い致します!