歌の調べに、森の精霊たちが舞い踊る
ミーカナは、そっと立ち上がる。ベンチを離れ、木陰に座り込んだ。
「聴き耳頭巾」を受け取りに行く旅。
それ自体は嫌ではなかった。むしろ修行漬けの毎日から解放され、広い世界を自分の目で見られることは、願ってもないことだった。
一年の大半を島の外で過ごし東シナ海を渡り歩いている父が、小さな身体を抱き上げて膝に乗せて話してくれた様々な冒険譚は、幼いミーカナの胸をときめかせた。
だから、いつか自分も海の旅をしたいと、心ひそかに願っていた。
その夢が図らずも、かなおうとしている。手放しで喜んでよいはずだった。
だが、いまひとつ心が浮き立たなかった。
原因は、わかっていた。
旅の目的が、「義優のため」ということに引っ掛かりを感じているのだ。
むろん弟のために姉として助力してやりたいという気持ちはある。
義優は将来、父の後を継いで王となる。
自分は巫女として祭儀を司って国の安寧を願い、その治世を支えていかなければならない立場にある。
(義優は「陽」であり、自分は「陰」だ。
静かな月も、嫌いではない。
でも……。
私は、やっぱり大空に輝く太陽が好きだ)
庭を吹き抜ける風を感じながら、そう思った。
(ともかく旅に出たいという私の願いは、かなうんだ。
何を余計なことを考えているんだ)
頭をプルッと振り、立ち上がった。
夕闇が迫ってきた。
すでに灯りが点され、夕食の準備も進んでいるようだ。
台所付近から、よい匂いが漂ってきた。
カイトは、三人の女性の後に続いて入り口へ向かった。
前を歩いているのは、リンレイであった。
その上腕から左肩の辺りにかけて、ポワーとした微かな光の玉が三つ浮かんでいる。
「ザワ、ザワ、ザワ」
風もないのに樹木が揺れ、葉ずれの音を立てていた。
背筋にゾクッとしたものを感じ、カイトは立ち止まった。
「早く入りなさい」
アマミコにせかされてカイトは、あわてて皆の後を追った。
部屋に入ると、すでに夕食の用意が整っていた。
テーブルの中央には、燭台が置かれている。
灯りに照らし出された食器には、料理が盛り付けられ湯気を上げていた。
カイトは、あらためてリンレイの左肩のあたりを見た。
だが、あの光りの玉は浮いてない。
「……?」
カイトの視線に気付いて、リンレイは、けげんそうな表情を浮かべた。
すぐに視線をテーブルの上に落とす。
まず目に入ったのは、琉球アユの塩焼きだった。
ミーカナは、もう両手で持ってかぶりついている。
カイトは、手を伸ばすのをちょっとためらった。アユが嫌いだったわけではない。
(琉球アユは、絶滅危惧種だったはずだ)
ヒレの形を見て、気づいたのだ。
琉球アユは百万年前に本土の鮎から分かれ、独自の進化をたどった琉球列島の固有種である。現代では、奄美本島にある一つの河川にだけ生息している非常に珍しい魚である。
だが、この時代では、ありふれた魚なのであろう。
カイトは、アユを取ってむしゃぶりついた。
川エビのカラ揚げも、大皿に山盛りになっていた。
熱々のエビに、酸っぱい島ミカンの汁を絞りかけて次々と口に運ぶ。
アワビやアオリイカの刺身といった海産物も、豊富に並んでいた。
どこから箸をつけようかと迷うほどだった。
夕食の直前に連絡係の兵が、足早に入ってきた。義宝へ、報告をしている。
後で、その内容がわかった。捕虜の尋問結果であった。
黒幕は、想像通り大陸の貿易商人たちだったようだ。
大陸近くにある舟山列島の海賊に話を持ちかけ、四隻の船を仕立てさせたのだという。
そのうちの一隻は、商館を襲った後に那覇へ向かったらしい。
徳之島への襲撃失敗の報は、数日後には揚州へ届いた。
楊州は、長江の河口奥に位置する政治経済の中心都市。明州と並ぶ国際貿易港としても、知られていた。
街中にある酒房の一室――。
恰幅の良い男たちが円卓を囲んでいた。
「今回も、失敗したようだな」
上席に座っている白髭の年長者が、一同を見渡しながら語った。
「だらしのないやつらだ。つぎ込んだ金が無駄になった」
席に就いている者それぞれが、口々に言い立て始めた。
「あの御方が、揚州を掌握なさった。
商売がやりにくくなったし、上納もせねばならぬ」
「内陸は、戦乱続きで危険が大きい。
やはり海の方に手を拡げて、稼ぐしかないな」
「――となれば南島航路を握る義宝の一派と、流虬に商館を持つ田氏が、邪魔だ」
「どうする?
これまでと同じやり方では、また敗れるのではないか」
「あまり望ましくはないが、いざとなれば、あの御方のお力も借りなければなるまい」
「すでに先方から打診があった。
側近の方士様が、助力なさってくださるそうだ」
「……」
沈黙が流れた。
もうこちらの考えを、嗅ぎつけているということになる。
「やっかいなことになったな。
力強いことは確かだが、タダというわけではないだろう」
「義宝らは近々、船団を流虬へ送るらしい。田氏と手を組まれると、マズいぞ」
「とりあえずは再度、我々だけで攻撃を仕掛けてみよう。
うまくいかなければ……」
男たちは、頷いた。
食事の後、お茶が配られた。
「『胡蝶の舞』を覚えたの。
アマミコ様、見ていただけませんか?」
重苦しい空気を振り払うかのようにミーカナが明るい声を発し、立ち上がった。
「よいぞ。カヤグム(新羅琴)を弾いてやろう」
穏やかな笑顔でうなずき、棚から琴を取り出した。
長さ一・五メートルほどで、十二弦。細身の造りである。
床に座って、先端を膝の上に載せる。
指先で、そっと爪弾いた。
細い水流が静かに流れ出したかのように始まり、やがて部屋いっぱいに広がっていき、空間を潤していく。
アマミコが歌い出す。
ミーカナは、両腕を広げて構えた。
笛の調べに乗って、長い袖が宙を舞う。
♪わたしの庭に 舞来る胡蝶
胡蝶よ 胡蝶
春の日差しを 縫い取る胡蝶
♪そなたは祀り 祈りを捧ぐ
胡蝶よ 胡蝶
花の御前で 頭を垂れて
♪そなたを迎え 香り立つ花
胡蝶よ 胡蝶
願いは何か 叶えられたか
♪風がそよぎて 花もそよぎて
胡蝶よ 胡蝶
羽ばたく先は いずこの空か
♪わたしの思い そよと揺らぎて
胡蝶よ 胡蝶
飛び立つそなた 思いを運べ
♪母者のもとへ 飛びて伝えよ
胡蝶よ 胡蝶
安けきクニで 元気でいると
ミーカナは、ゆったりと旋回し、身体を反らせ、花にたわむれ遊ぶチョウを舞った。
幅広で長い袖がヒラリヒラリとひるがえり、まさしくチョウの羽に見えた。
曲の調べは、砂浜に打ち寄せる小波のように寄せては返し、寄せては返す。
最後の弦が弾かれ琴の音は、静寂の中へと消えた。
ミーカナは両袖を交差させ、片膝をつき、面を伏せる。
カイトは、思いっきり拍手をしていた。
ふと横を見るとリンレイが、泣いている。
アマミコが、肩をそっと抱く。
舞を終えたミーカナが、カイトの側に来て座った。
しばし沈黙が流れた。
「私も、踊ります」
アマミコに身をゆだねていたリンレイが、ゆっくりと身体を起こした。
立ち上がり、部屋の中を見回す。護衛兵の持っていた棒を借りた。
袋から短い帯を取り出し、両方の足首に巻いた。小さな金属片が、たくさん付いている。
「シャン、シャン」
音を確かめるように、軽く足踏みする。
準備は、整ったようだ。
「トン」と棒を一つ突き、足を踏む。
♪エイエー、ハレヨー
深き森 精霊たちよ
風渡り ゆらめく草は なれ(あなた)の足跡
風通り さざめく樹々は なれの足音
♪エイエー、ハレヨー
月の夜に 舞い踊る者
光受け ほのか輝き 笛吹き踊る
光濡れ (つやつや)映えて ゆらゆら舞いて
♪エイエー、ハレヨー
同じ地の水 分かち合う樹々(きぎ)よ
同胞よ なれの喜び 我の喜び
共腹よ なれの悲しみ 我の悲しみ
♪エイエー、ハレヨー
樹々より生れ 精霊たる者よ
共に在れ 我れ行く道に 障りなきよう
照らし有れ 我が行く先を 迷いなきよう
高く澄み、バイブレーションのかかった歌声だ。
棒と金属片で、リズムが刻まれる。
(あれっ?)
光のようなものを、片頬に感じた。
ポワッ、ポワッとした緑がかった光が、窓から発していた。
目を戻すと、リンレイの左肩の辺りでも光の玉が、ポワッ、ポワッと点滅している。
光は、歌が終わると同時に消えた。
ミーカナも、小首を傾げていた。
リンレイ自身は、そのことに気づいていないらしい。
歌い終わると、恥ずかしそうな笑みを浮かべ、アマミコの方へ近寄って行った。
「歌と踊りは、誰から習ったのだ?」
アマミコは、横に座ったリンレイに尋ねた。
「祖母です。
幼い頃は、ほとんど祖母のいる部族のムラで暮らしていましたので……」
懐かしむような語り口で、リンレイは答えた。
「おばあ様は、ムラでどのような立場の人だった?」
「ムラの祖霊や森の精霊を祀る巫女でした」
リンレイの祖母は、巫女の長であった。
アミ族の巫女は、八歳から十五歳の少女たちの中から選ばれるのだという。秋の祭りにおいてである。
候補者が揃って踊り、その中で神が降りた少女が巫女となるらしい。
「リンレイは、この儀式に参加したのか?」
リンレイの顔をじっと見つめた。
「いいえ、まだです。
今年の秋に参加するはずでした。
ですから、練習のため、いつも袋に足帯を入れていたんです」
「そうか……」
アマミコは、うなずいた。
「今夜は安心して、床に就くがよい」
リンレイを立ち上がらせながら、労わりの言葉をかけた。
それぞれに用意された寝室へ向かう。
カイトも寝室へ入ったが、まだ興奮が残っていた。
寝台へ潜り込む気になれない。
外の空気でも吸おうと、窓を開けた。
「わあっ――」
窓の正面には、黒々とした森が広がっていた。
青緑の光がクリスマスツリーの豆ランプのように輝き、点滅していた。
それは、数秒の出来事であった。
何か「見てはいけないもの」を、見てしまったような気がした。
あわてて窓を閉め、寝台へ入り、薄手の布団をかぶった。
カイトは思い出していた。小学六年生のとき、島での夏――。
ある夜、「ケンムンの森」へ友人と二人で、蛍の集団発光(?)を見に行った。
微細な光のかたまりに追いかけられ、家へ逃げ帰るという体験をしたのだ。
「ケンムン火だ!」
友人は、恐怖に震えていた。
ケンムンとは、奄美地方で語られる妖怪である。
主にアコウやガジュマルの木に住み、近くを通りかかる人間にイタズラをする。
その姿は、光の玉「ケンムン火」として目撃されるが、人間の子どもの姿であるとか河童に似たかたちであるなどと様々な伝承がある。
伝承の源流をたどると、どうも本性は「木のモノ」、つまり樹霊である可能性が高い。
朝になった。
カイトは、服を着て庭へ出る。さわやかな朝の空気を、胸いっぱいに吸った。
「気持ちが、いいな」
背後から、声を掛けられた。
振り向くと、笑顔のアマミコが立っていた。
「あっ、おはようございます」
カイトも笑顔で挨拶した。
「昨日の晩、森が光っていたんです」
近づいてきたアマミコに、さっそく報告した。
「知っている。ずいぶん騒がしかった」
カイトには、ただ光っているとしか見えなかった。
だが、アマミコは、ざわめきも感じ取っていたらしい。
「あれは、何ですか?」
「そちが、思っているものに近いかもな」
手を後に組み、山の方を眺めながら、そう答えた。
「ケンムンですか?」
今度は、単刀直入に尋ねた。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
あいまいな答えが、返ってきた。