見習い巫女、イルカを招く。峡谷の港町に着いたよ
何かが、船の底に当たったらしい。
沖を進んでいるので、隠れ瀬に乗り上げるはずもない。
「オオォ――」
驚きの声が、船首の方から上がった。
巨大なクジラの上半身が、出現した。
まるで黒く先の尖った岩山が、突き出てきたかのようだ。
沈み込んだかと思うと、また船の下へ潜り込む。
船は、グラッと左へ傾いた。
「ザッバァーン、ザザッ――」
大波が襲い、甲板を洗っていく。
船上の者たちは、ただひたすら柵や綱、柱などにしがみついているしかなかった。
(もう一度、衝撃がきたら沈没するかもしれない)
カイトは、思った。
頭を上げると、眼前に壁のような尾ビレが迫っていた。
(やられる)
目を固く閉じ、身を縮める。
「やめよ!
アジャ大王」
耳と頭の中で、鋭く大きな声が響いた。
今朝、海士に襲われたときと同じ声だ。
巨大な尾ビレは、スゥ――と静かに海中へ沈んでいった。
「歌好きの陽気な父親なのだが、とても子煩悩なのだ。
子どもに手出しされると、怒りで見境がつかなくなる」
アマミコが、言った。
「私が、名前を付けたのよ」
いつの間にかミーカナが、傍に来ていた。
自慢げな口調で言った。
草地の緑が美しい岬を過ぎると、新しい景色が開けた。
前方に、大型船が数隻泊まっている。
島側を見た。
「えっ、そんなバカな!」
思わず叫んでしまった。
「秋利神」という地名の峡谷であるはずだった。
確かに景観は、秋利神である。
河口から、すぐに深く切り込まれた谷となっている。
浜から高台にかけて建物が、ずらっと立ち並んでいた。
上の方には、瓦葺きの屋敷まであった。
現代の秋利神に民家は、まったくない。
ほとんど斜面なので、宅地には不向きな土地である。
そこを階段状に造成して、「街」ができていた。
「グワァ―ン、グワァ―ン」
銅鑼が鳴らされる。
水夫たちは帆を降ろし、入港準備に取り掛かった。
船の両脇から長い櫂を下ろし、ゆっくりと漕ぎ進めていく。
少女は、船から艀へ真っ先に飛び移った。
薄桃色の裳裾が、フワッと宙に舞った。
トンという軽い靴音がした。
丸木舟は、安定性に欠ける。だが、わずかに揺れただけであった。
桟橋に近づく。
水面近くを群れ泳いでいた小魚たちが、さざ波に驚き、逃げ惑う。
「ハァ――ィ!
いま戻ったよう」
出迎えの人々に向って笑顔で呼びかけ、大きく手を振った。
昨夜のことだった。
「叔母様、お願い」
抱きつくようにして懇願し、ようやく同行の許しを得た。
理由は、三匹のイルカに会いたかったからである。
半年ほど前のことだ。
巫女修行の一つとして、「イルカ招き」の術を学んでいた。
イルカは、仲良くなれば「追い込み漁」の手伝いをしてくれる。よって、海人族の巫女にとっては、必修科目である。
その日、ミーカナは指導役の巫女、稲女と港の桟橋に立った。
見つめる先の海面は穏やかに波打ち、陽の光が煌めいている。
ミーカナは、教えられたとおりに指で印を結び、瞼を閉じイルカがやってくるイメージを思い描き、小声で呪を唱えた。
ワタツミ(海神)の遣わしもの 幸いの使者たるものよ
我が名において汝らを招く
来たれ! 我が手のもとに
念を込め、サッと召喚印を切る。
ドキドキしながら、そっと目を開く。
水平線まで目を遣るが島の海は、穏やかなままだった。
カモメが数羽、戯れ遊ぶばかりである。
ガッカリして指導役の巫女を見上げる。
三十歳半ばと思われるイナメは、まなざしを返すも、何も言わず口元に軽い笑みを浮かべただけだった。
(わたしって、才能ないなぁ……。
叔母様みたいには、とてもなれない)
ため息が、もれる。
「巫女の館」での学習は、漢籍の講読や祭儀の演習が中心だった。
後は舞と、琴や笛などの練習である。
一年ほど前から、巫術を学び始めた。
抱えきれないほどの巻子や冊子を、ドンと手渡された。
時を置かずに試問、試技がおこなわれるといった日々が続いてきた。
館の外へ出ることは、めったになかった。
「明日は、海でおこなう」
ようやく実習が、告げられた。
喜び勇んで挑んだ結果が、これであった。
「さあ、もう一度やってみてください」
イナメに促され幾度も印を切り、呪を唱えた。
一回終える(失敗する)ごとに、チラッと表情をうかがう。
師匠は素知らぬ顔で、遥か彼方を眺めている。
「なぜイルカは、やってこないんでしょうか?」
じれて、そう尋ねてみる。
「さあ――」
のんびりした声で応えるのみ。
(きっと意地悪しているんだ)
腹立ちまぎれに、そんな思いまで湧き上がってきた。
やがて陽も傾き、海上に低く浮かぶ雲が茜色に染まり始めた。
疲れ果て、しゃがみこんでしまう。
無力感にさいなまれ、こみ上げてくる涙を袖で拭う。
「美華様。
誰にどう呼ばれたら、喜んで駆け寄って行きたくなると思います?」
イナメは、質問を投げかけてきた。
「……」
涙に濡れた目を両手で交互に擦りながらミーカナは、考えた。
「お母さま――。
抱きしめてもらえそうな感じがしたとき……かな」
しばらくして、そう答えた。
腰をかがめて手をいっぱいに広げたお母様の笑顔が、思い浮かんだ。
(弟が生まれる前は、そうしてもらっていた。
でも……)
「そうでしょうね」
同感の意がこもった応えであった。
「お母様だったらイルカたちに、どう呼びかけるんでしょうねえ?」
イナメの問いかけが、ミーカナの心に届く。
「……」
俯いていた顔を上げた。
「もう一度、やってみる」
裳裾をはたきながら立ち上がり、言った。
呼吸を整え、意識を集中し気を凝らす。
紡ぎ出される呪には、愛しいものへ呼び掛ける気持ちがこもっていた。
それは彼女自身、最も欲しいと願っているものだった。
数分の時が流れた。
「来た」
イナメの声がした。
固く閉じていた目を開けた。
夕焼けを背景にして黒い流線型ものが、沖からまっしぐらに向かってくる。
背びれが波を切り、艶やかな半身が波間に見え隠れする。
招請に応えてやってきた三頭のイルカは、「ミュー、キュー、チュラー」と名付けた。
三頭は、ここ数日、港の周辺から姿を消していた。
会いたかった。
島の沿岸を航行すれば、見つかるかもしれないと考えた。
上陸してからも海の方が気になり、視線を向けていた。
願っていた通り、会うことができた。
だから、うれしくて人目もはばからず遊び戯れてしまった。
しかし、ハッとして振り向くと少年が立っており、驚いた顔でこちらを見ていた。
襟をかき寄せてはみたが濡れて身体に張り付いた白衣は、もはや衣服の用をなしていなかった。
恥ずかしさで顔面が、朱に染まった。
(なんて、失礼なやつ!)
怒りが、湧き上がった。
アマミコに紹介されても、そっぽを向いた。
乗船中も距離をとり、下船近くまで言葉を交わすことはなかった。
カイトたちも小舟に乗り移り、船着場の土を踏んだ。
港には、出迎えの人々が集まっていた。
ひときわ目立っていたのが、艶やかな衣装をまとった女性たちだった。
アマミコとミーカナが近づくと両袖を持ち上げ、一斉に頭を下げた。
「ごくろうさま」
アマミコは出迎えの人たちに声をかけ、輿に乗り込んだ。
屋根が檳榔毛で葺かれ、四方囲いは網代、カーテンのように白絹を垂らしてあった。
その絹地には金と銀の刺繍糸で、翼を大きく広げた鳳凰が描かれていた。
四名の護衛兵の先導のもとに一行は、石畳の坂道を登っていく。
曲がりくねった坂道を上りきったところに、門があった。
両脇には、槍を持った衛兵が立っている。
門の扉が、開かれた。
三十歳代半ばくらいの貴婦人と九歳くらいの少年が、出迎えていた。
婦人が、静かに(ほほえ)む。
白い上衣に、金糸で花柄が縫い取られた朱鷺色の裳。
錦織の襟(海老茶の布地に金糸の柄模様)がついた白桃色の絹羽織を、フワッとまとっていた。
「ただいま帰館致しました」
輿から降り立ったアマミコは、両手を水平に重ねて頭を下げ、腰を落とす。
ミーカナも、動作を合わせる。なぜか少し緊張気味だった。
(上品で、きれいな人だなぁ)
カイトは、思った。
「お館様がお帰りになられたら、また改めてうかがいます」
二言、三言、言葉を交わした後、アマミコは、館の裏手に続く坂道を歩き出した。
少し坂を上ると、森に囲まれた巫女の館があった。
白壁で囲まれ、朱色に塗られた門や柱が、目に鮮やかに映った。
門をくぐって庭に出ると、季節の花が所々で咲き誇っている。
(リュウキュウアサギマダラだ。
やっぱり徳之島なんだな)
春の陽射しを浴びながら、南西諸島特有のチョウが舞い飛んでいた。
庭に面した部屋――。
アマミコとカイトは、漆塗りの円卓を前にして、藤の椅子に腰掛けている。
卓上には茶道具が並べられ、ジャスミン茶の良い香りが漂っていた。
目の前のアマミコが、茶碗を口元へ運ぶ。
「『お館様』って、誰なんですか?」
カイトは、尋ねた。
「張義宝、一族の長であり、吾の兄でもある。民からは、徳義王と呼ばれる。
いま商団を率いて旅に出ている。
でも、近いうちに帰ってくるはずだ」
「皆さんは、どこの国の人なんですか?
どうしてこの島に?」
「そうだな……」
アマミコは、ちょっと悩むような表情を浮かべた。
「吾の父は、新羅の地で生を受けた。
二十五歳のとき、この島へ移住してきた」
その言葉を皮切りとして、一族の歴史について語り出した。