オキノエラブ島の巫女が告げた預言
「帆を上げろ!」
船長の声が、響き渡る。
水夫たちの足音や掛け声で甲板は、一気に賑やかになった。
カイトは舳先に立ち、船の進行方向を眺めた。
これから船は、沖永良部へ向かうとのことだった。
徳之島の亀徳と沖永良部の和泊間は、定期船だと、わずか約二時間弱である。
しかし、順風ではあるが穏やかだ。
速度は、自転車をゆっくり漕いでいるくらいでしかない。
このままだと到着は、日暮れ近くになるようだ。
同行の船は打ち合わせ通り、和泊で小商いをしながら到着を待っているはずである。
遠くの水平線に、平らな島影が見えてきた。
沖永良部は、少し曲がったナスのような形をしている。
面積自体は徳之島の半分以下であるが、島全体が隆起サンゴで成っているので平地が多い。ハブもいないので、暮らしやすい島である。
島全体が石灰岩でできているため、地下には、有名な「昇竜洞」に代表される鍾乳洞が三十箇所以上あり、今でもよくわかっていないという。
地表に流れている川は少ない。だが、崖下からのホー(湧水)や鍾乳洞内にあるクラゴウ(暗川)と呼ばれる水場があり、生活用水に困ることはなかった。
だいぶ陽が傾いた頃、港が見えてきた。
同僚船も、停泊していた。船と港との間を丸木舟が、何艘か行き来している。おそらく荷物を運んでいるのであろう。
「何を仕入れているの?」
甲板で、一息入れている海士に尋ねた。
「ヤク貝と、タイマイだ」
「タイマイ?」
「海ガメの甲羅だ」
島の周囲は浅いサンゴ礁の海となっているため、鼈甲の材料となる海ガメ、タイマイがやってくる。
島のアヅミは、浅瀬で餌を食んでいるカメの背後にそっと近づき、両手で甲羅を捕まえ、海面方向へ頭を持ち上げる。すると、自分で浮上していくとのこと。
「へぇ――、そうなんだぁ」
そんな話を聞くのが、とても楽しい。
船は、同僚船の近くに碇を降ろし、連絡のための小舟を出した。
カイトたちは、美しい海岸線と作業の様子を眺めながら、建物の影で涼んでいた。
「ハンさん、僕たち上陸しないの?」
カイトは、ずっと船に揺られていたので、固い地面が踏みたくなっていた。
「うん、ここではしないみたいだよ」
カイトは、残念な気持ちで、また港の方を見た。
すると、一艘の舟が、近づいてくるのに気づいた。
白い衣装をまとった女たちが、八人ほど乗っている。
甲板に上がると、ミーカナの前で膝を突き、平伏した。
いきなりのことだったので二人は、顔を見合った。
「なんでしょうか?」
ミーカナが、尋ねた。
「張美華様でいらっしゃいますでしょうか?」
白髪の女が、少し顔を挙げて言った。
「そうですが……?」
ミーカナは自分の名前を知っていることに驚きつつも、落ち着いて答えた。
「生きて高貴なる姫神様のご尊顔を拝することができましたこと、この上もなく有り難く、胸打ち震える思いでございます。
吾は、当地を統べる『水のカミ』に仕える西目と申します。
この度、御来臨なさる旨の預言を受け、まかり越しました」
仰々(ぎょうぎょう)しく申し述べた。
「頭を上げてください」
ちょっと困ったような口調で、ミーカナは言った。
女たちは、上体を起こした。しかし、両手を突き、目は伏せたままだ。
島の巫女たちらしい。年齢層は、お年寄りから少女までマチマチのようだ。
「吾らが奉ずるカミによれば、この旅は、聖なる王国の礎を築かれるためのものとのこと」
ニシメの巫女は畏敬の念を込めた語り口で、きっぱりと言い切った。
「えっ?」
眺めていたカイトとハンは、同時に声を上げた。
ミーカナも、驚いた様子であった。
「カミは、運天の港までお守りするよう眷属に陰供を、お命じになりました。
道中、陰ながら見守らせていただきます。
ですが、お気になさらずにいてください。
何事も起こらぬならば、姿を現すこともござりません」
ニシメは、少し笑顔を見せながら、そう語った。
「『水のカミ』の眷属とは?」
「当島の地底湖で何千年もの間……」
言っていいものかどうか、ためらう様子が見られた。
だが、意を決したようで声を潜めて話し始めた。
その話によると、この島には海からつながる地底湖があり、そこで暮らしながら島の安全を守っている存在であるとのことだ。
「身の危険を感じましたなら、これをお吹きくださいませ」
そう言いながら、ニシメは、小さな巻貝製の笛を差し出した。
「ありがたくいただきます」
ミーカナは礼を言い、受け取った。
「では、私どもは、これで失礼致します」
ニシメは、退去の挨拶をした。
後には、手土産と思われる果物や野菜のカゴと、水の入ったカメが残されている。
「あっ、ちょっとお待ちください。
これをお持ちください」
船を下りようとしている一行へ声を掛け、脇に積まれた木箱を指差した。
「装身具と化粧道具、それに身の回りの日用品なんかなんだろうな」
興味深げに見ているカイトの隣で、ハンが教えてくれた。
たぶん今後のつきあいを考えてのことであろう。
(気配りができる子なんだ)
カイトは、意外な一面を見たような気がした。
巫女たちは、喜色を満面に表してお土産の品々を手に取り、下船していった。
「ミーカナのこと、『姫神』と言っていたけど、どういうことですか?」
カイトは、傍にいた海士頭のイサナに尋ねた。
「詳しいことは吾もわからぬ。
だが、巫女様は、海の民とともにある。漁には、欠かせぬからな。
亀卜や鳥使い、魚招きの祈祷で、漁を助けてくださっている。
また、「風直り」の儀式で、船旅に必要な風を招く。
島々の海人族は、吾らと同じく壱岐島の辺りから来ているようだ。
巫女様方も同じ流れではなかろうか。だとしたら、繋がりがあってもおかしくない。
だが、美華様は、吾らが姫。解せぬな」
勇魚も、首をひねった。
「亀卜、鳥使いって、何なの?」
「ああ、亀卜は、海ガメの甲羅を焼いて、表れたヒビ割れで、吉凶を占う。
漁や船旅には、欠かせない。
鳥使いは、鳥を操ることだ。
巫女様は、『鳥山』を見つける。鳥たちが海上で騒ぎ立てておれば、その下には魚の群れがいる。
また、鳥になって漁に出た吾らを見守ってくださる」
いかにも感謝しているといった様子で語った。
「風直り」とは風を操る呪法で、巫女が頭帯に挿している鳥の羽は、その力の象徴であるようだ。
対馬・壱岐島をはじめ九州の沿岸一帯を含む区域は、古くから海人族である倭人が住み暮らす地であった。そこから安曇・宗像といった海の神々を祖とする氏族が、出ている。
壱岐島を出自の地とする壱岐氏は、「亀卜」をもって朝廷に仕えていた。
これは、倭人が古くから持ち伝えてきた卜占技術である。天皇と、海人族の近さがうかがわれる。
カイトたちは、夕凪の海を楽しみながら甲板で食事をとった。
会話は弾んだが、なぜかミーカナの将来に関する預言には、誰も触れることはなかった。
カイトも、何か軽々しく扱ってはいけないもののような感じがして、あえて口にしなかった。
いつしか月明かりが船上を照らしていた。
カイトは、欠伸をしながら船室に戻ろうと歩きかけ、何気なく島の方を見た。
潜望鏡のようなものが、ポコッと海面から突き出るのが目に入った。
(なんだろう?)
目をこすって、もう一度見たときには、すでに姿を消していた。
(見間違いかもしれない)
カイトは、首を傾げながら船室の中へ入っていった。
翌朝は晴天で、午前中から気温がグングン上がっていった。
昼近くには、文字通り「うだるような暑さ」となった。
風も弱く、船はほとんど動いていない。
(亜熱帯なんだから、仕方がないか……)
カイトは建物の陰でクバ扇を使いながら、空を見上げた。
甲板の日陰では、手空きの水夫たちが座り込んだり転がったりしている。
ハンは建物にピッタリつくようにして、寝入っていた。
「通り雨が来るよう」
ミーカナの声が、耳に飛び込んできた。
少し風の勢いが、増したようだ。
その声を聞いたとたん、男たちはガバッと身を起こし、我先にと船室の中へ駆け込んでいった。
再び甲板へ上がってきたときには、一升升のような木製の容器を二つ持っていた。
「カイト君、行こう」
ハンが、ぼんやり座っていたカイトの手を引いた。
「どこへいくんですか?」
手を引かれながら、カイトは尋ねた。
「準備だよ」
そう短く答えると、船室の中へ降りていった。
すぐに手荷物の箱から、みんなと同じような四角い容器を四つ取り出し、二つをカイトへ手渡した。
「手ぬぐいも忘れないでね」
そう付け加えて、自分も首に掛けた。
「……?」
カイトは、わけもわからぬまま、ハンの言葉に従った。
「さぁ、急ごう」
ハンは、先に立って階段を上がっていく。
甲板へ戻ると、一転して曇り空となっていた。
男たちは、前に容器を置き、褌姿で天を仰いでいる。中には、褌も外して手拭いだけを手にし、両手を広げて構えている者もいた。
海上を見ると、黒雲から垂れ下がった水のカーテンが急速な勢いで近づいてくる。
「シャ――、ザザザッ――」
それは、すぐに船に達し、甲板に当たって激しい雨音を立て始めた。
「ゴロゴロッ、ドゥーン!」
頭上では雷鳴がと轟き、稲妻が走る。
「ウオオッ――」
獣のような叫びが、あっちこっちから上がっていた。
待ちに待った雨を迎えての雄叫びであった。
ハンとカイトも、すぐに着物を脱ぎ捨て裸となった。
シャワー並みの豪雨が、天から降り注ぐ。
夢中で髪を洗い、手拭いで身体をこすった。
身体を洗い終えた水夫たちは、水の溜まった容器に褌や着物を浸け、ザブザブと洗濯を始めた。カイトたちも、それに倣った。
カイトは、絞った着物を屋根のある所へ置こうと、容器を持って建物の方へ行った。
「キャッ、キャッ」
裏の方から、少女たちの楽しげな声が聞こえてきた。
(ミーカナとリンレイも水浴びをしているんだな)
胸が、ドキドキと高鳴った。
足音を忍ばせるようにしながら、そっと歩いていく。
建物の陰から片目だけのぞかせると、ミーカナとリンレイの背中が目に入った。
ミーカナは白い布を腰に巻いていたが、リンレイは何も身に付けていなかった。
引き締まった身体、滑らかな肌を水滴が玉となって流れ落ちる。
さらに忍び寄って木箱の陰に隠れ、そろそろと頭を上げた。
ミーカナが竹製の柄杓を手に取り、ヒョイと肩越しに投げた。
「イタッ!」
柄杓は、勢いよく飛んで来て、カイトの頭にコツンと当たった。
「ダメよ」
ほぼ同時に、頭の中でミーカナの声が響いた。
(バレた)
カイトは、コソコソと逃げ戻った。
二十分もたたないうちに雨は、通り過ぎていった。
暑さも、一気に拭われた感じだ。
甲板は、洗濯物でいっぱいだった。
水夫たちの顔も、気持ち良さそうな表情となっていた。
さっぱりとした衣服に着替えたミーカナとリンレイが、前甲板へ姿を現した。
カイトは、とっさに俯く。
上目遣いで、そっと様子をうかがう。
ミーカナは、プイッと顔を背ける。
リンレイは、何も気づいていないようだ。笑顔をカイトに送ってきた。
船長は地図を広げ、副官、航海長と話している。
(沖縄本島が、近いのかもしれない)
カイトは、船の先にある水平線を眺めた。
確かにボンヤリとではあるが、島影らしきものが見える。
(辺戸岬かな。やっと上陸できるかもしれない)
ちょっと嬉しく思った。
やがて船長は地図を丸め、二人に向かってうなずいた。
「今より戦闘態勢に入る。
各自、準備を整えよ」
副官が、号令を発する。
水夫たちが、弾かれたように立ち上がった。
干していた洗濯物を小脇に抱え、駆け出す。
伝声管で指令を伝える甲板長、武器庫へ走る兵士、漕ぎ座へ飛び込む水夫、帆柱へ猿のように登っていく見張りの者、みんなキビキビと行動していた。
カイトは、ウロウロするばかりだった。
「大型船二隻、速舟三十艘!」
見張りの怒鳴り声が、頭上から降ってきた。
僚船が近づいてきた。
信号旗が、交わされる。
「カイト君、これ――」
ハンに声を掛けられた。
防弾チョッキのような革鎧を身につけ、同じものを差し出していた。
「いったい何が始まるんですか?」
「見ての通りだよ。海賊が襲って来るんだ」
あわてている様子もない。
「ええっ、でも、海賊と決まったわけじゃ……」
船は、まだ遠くに見えるだけだ。
「ここは、海賊の巣だからね」
驚くほどのことでもないといった感じだ。
この付近は南島交易の要所で、商船が行き交っている。
船を隠しておくのに便利な湾もあることから、海賊が根城にしているのだという。
「前に島を襲った奴らなの?」
「たぶん違うと思う。
奴らなら、正面から襲ったりはしない。こちらの実力を知っているからね。
ふつうの商船だと思っているんじゃないかな」
船室から吐き出されてくる水夫たちも、革鎧を着込んでいた。
兵士たちは、さらに兜をかぶり、楯と槍を持つなど重装備であった。
「僕らは、邪魔にならないように屋形の中へ入っていよう」
ハンは、屋形へ向かった。カイトも、後に続く。
窓から眺めると甲板の戦闘態勢は、ほぼ整ったようだ。
木柵に沿って兵士が楯と槍を並べ、弓を構えている。
船倉から水夫たちが、ドヤドヤと出てきた。
担いだ木箱を置いていく。
ソフトボールくらいの素焼きの球とビンが入っていた。
「あれは、何なの?」
「火球だよ。
硫黄と木炭粉、『燃え土』を混ぜたものが入っている。
『燃え土』というのは、豚や鶏の糞を枯れ草に混ぜて寝かせて置いて、土みたいになったのを乾燥させたもの……発火しやすくするものなんだ。
もう一つは、火炎ビン。
中には、油が入っている」
ハンは、中身について教えてくれた。
「トーン、トーン、トーン、トーン」
太鼓が伸びやかに鳴り出した。
「エイヤッ、エイヤッ、エイヤッ、エイヤッ」
丸木舟の群れは、顔が見えるくらいにまで近づいてきた。
大型船が、その背後を押すようにして迫ってくる。
半裸の男たちが、刀や槍を手にして船首部分に鈴なりとなっている。
味方の船からは海士たちが、海中へ滑り込んでいった。
船長は、斜め方向への回頭を命じた。
その過程で、船腹をさらすかたちになった。次々と矢が飛んでくる。
「放て!」
副官の指令が、下った。
手拭いに素焼きの球を包み、ブンブン振り回し、その勢いで丸木舟へ投げ込んでいく。
目前に迫った舟には、手で投げつけた。
火球は当たると割れて、中身がこぼれ出る。その近くに火炎ビンが落ちたり火矢が刺さったりすると、引火してボワッと燃え上がるのだ。成分は黒色火薬に類するが、まだ爆発するまでには、至っていない。
弓手は、火矢を打ち込んでいく。
船腹に漕ぎ寄せて鈎縄を木柵へかけ、よじ登ってこようとする者もいた。
だが、上から矢を射掛けられ、海へ落ちていった。
手前の海上は、大混乱となっていた。
「ワアッ――」
火ダルマとなり、海へ飛び込む者が続出した。
「突っ込め!」
号令が、響いた。
「トン、トン、トン、トン」
太鼓のリズムが、急テンポとなった。
「エィヤッ、エィヤッ、エィヤッ、エィヤッ!」
漕ぎ手の掛け声も、勢いを増す。
(このまま進めば、衝突する)
カイトは、恐怖で心臓が止まりそうだった。
「メキ、メキ、メキッ!」
船首が、相手の腹を突いた。
「戻せ――」
船は、ゆっくりと退いていく。
船首が突いた箇所の下部が、大きく裂けていた。勢いよく海水が流れ込んでいる。
(ぶつかっただけで、あんなに大きな穴が開くものだろうか?)
船首まで行き、身を乗り出す。
(あれは?)
海面の下辺りに鉄板を張った突起物が見える。
サイの角か、もしくは巨大な鑿のようだ。
(衝角だ)
船マニアのカイトには、すぐわかった。
衝角とは、『船の一本角』である。
古代の戦闘艦に、付けられていた。
接近戦で闘うことが多かったので、効果があった。
少し距離を取って船は、停止した。僚船も攻撃を止めていた。
「これくらいでいいだろう」
カイトの背後で、李船長の声が聞こえた。
「味方の死傷者は?」
「死者は、ありません。
十名ほどが傷を負いましたが、いずれも軽傷です」
副官が、ただちに答える。
「では、しばし休憩を取らせよ。
その後、運天港へ向かう」
船長の表情は戦闘前より、厳しくなったようにも見えた。
「何か、呆気なく終ったね」
刀剣を抜いて、激しく打ち合うのかと思っていた。
だが、そんな光景は、見られなかった。
「そりゃそうだよ。海賊たちだって命は惜しいからね。
不利だと感じたら、すぐに逃げ出すよ」
「でも、島を襲った奴らと遭ったら、そうはいかないはず」
ハンの表情が、引き締まった。
「奴ら」は運天港周辺で、網を張っているはずだという。
船は、本来の目的地をめざして再び走り出す。
黒雲が、進行方向の空を覆い始めていた。
しだいに波が、高くなってきた
塩屋湾に退避し、夜が明けてから目的地の運天に入ることとなった。
湾の内側には、集落があるという。
船は湾内へと進み、碇を下ろした。
夕暮れを迎えた湾内は波静かで、今夜は、ゆっくり眠れそうだった。
船長とミーカナは、集落へ向かった。
甲板では、夕食の準備が始まった。
バーベキュー台を大きくしたような木箱。内側に粘土が塗ってある。
中には、真っ赤な炭火。その上に、金網が置かれた。
エビ・カニ・アワビ・サザエ・アジなどの魚介類、塩漬けのイノシシ肉、田イモ(里イモ系)のスライスが隙間なく載せられた。
肉や魚からしたたり落ちる汁で、炭火がバチバチと音を立てている。
大皿には、タイ・コブシメ(イカ)・夜光貝などの刺身が盛られていた。
浜の集落から小舟で届けられたばかりの新鮮なものだ。
食事の準備に駆け回っていたのは、五十歳代後半くらいの小柄な水夫だった。
船の炊事を一手に任されているムサン爺だ。
ムサン爺はカニのような顔をしていて、髪の毛とモジャモジャの髭は、半分以上、白くなっている。
「これは、ご馳走だねぇ」
ハンは、舌なめずりしながら、焼き台の前にドカッと座り込んだ。
船を走らせている間は、凝った料理などできない。
海が荒れているときなどは、干し飯に水をかけ、漬物で掻き込むといった状態だった。
集まって来た乗組員たちは、「我先に」と席に着いた。
酒を飲むことも許され、宴会気分が盛り上がっていた。
警備担当の兵士を除く全員が、焼き台を囲む。
酒が注がれた木の椀を片手にして、「合図」を待った。
甲板長が、椀を手にして皆の前に現れた。
「今日は、大変な一日だったが、みんなよくがんばってくれた。
明日も、わしらにとって本当に厳しい一日となるかもしれぬ。
だが、わしらのクニと家族のために全力を尽くしてもらいたい。
そのためにも今夜は、大いに食って飲んで英気を養ってくれ」
椀を高く掲げた。
「では、乾杯!」
「おおっ――」
喚声があがる。
ゴクゴクと喉をならしながら、一気に飲み干す。
「プファー」とか「フゥー」といった声が、聞こえる。
焼き上がったイセエビをわしづかみにしてパキッと頭を折り、ミソをすすってからホクホクした白い身にかぶりつく。または、熱いアワビと格闘したりといった光景が、あちらこちらで展開されていた。
むろんカイトとハンも、夢中でほおばっていた。
汗だくとなりながら黙々と食べ続け、島ミカンを絞り込んだ水を飲み干した。
「もう食えない」
カイトは、そういいながら後へ倒れ込み、大の字になった。
夜風が心地よく甲板の上を吹き渡っていく。
カイトは、目を開けた。いつの間にか眠り込んでいたらしい。
まだ宴会は続いていたが席はまばらとなり、あっちこっちで談笑の輪ができていた。
そんな様子を濁り酒の入った椀を手にして木箱に腰掛け、チビチビ飲みながら眺めている人の姿が見えた。
(ムサン爺だ。仕事の区切りがついたので、ひと息入れているんだな)
カイトは立ち上がって、その方へ近づいていった。
「ムサンさん、お疲れさま」
ちょっと離れているところから声をかけた。
「ムサン爺でいいがね」
ただでさえ細い目が、笑顔で、さらに細くなっていた。
ムサン爺はカイトと同じくらいの背丈で痩せている。
だが、さすがに働き者だけあって、肩や足腰の筋肉は盛り上がっている。
額に汗じみた頭帯を巻き、裸の上半身に擦り切れた麻布の袖なし、下には、ヨレヨレの短袴といった服装だった。
カイトは、隣の木箱に腰をかけた。
「ムサン爺は、新羅の人ですか?」
身なりから推測して尋ねた。
「……そうじゃ」
ちょっと考え込むような仕草をしてから、答えた。
「どこで生まれたの?」
「登州(中国の三東半島の海岸沿いにある都市)じゃよ」
「……?」
「物心ついたときには、唐の商人の奴婢じゃった」
ムサン爺は、ポツポツと語り始めた。