4.旅路(1)
ガラガラと音を立てながら馬車は走る。さすがは王都製というか、とても弾力性に優れたソファのおかげで、お尻が痛くなるなんてことはない。備え付けの小窓の、高級感溢れる手触りのする深緑のカーテンをめくって、私は外の景色をみた。
遠ざかっていく第二の故郷、サフォーの街。昨夜の庭園での出来事から、本当に色々あった。
「私、ずっと何も見てなかったのね。」
レオにセクハラまがいのことをされたあの後、まずレオに、師団長ではなく名前で呼べとお願いされた。本人曰く、命令ではなくお願いらしい。
そのあと、私は晩餐会が終わってから、領主様に謁見した。そこには奥様だけでなく、ヒマワリのように快活で愛らしいシイラの姿もあった。シイラが大好きな、極彩色のイエローのドレスがとてもよく似合っていた。花嫁候補の話が改めて始まると、意外にも先に言葉を発したのは、奥様ではなく領主様だった。
『ルル。君はここにきてから、なかなか心を開いてくれなかったね。君の心の傷は、本当に、深すぎた。様々な要因が事を複雑にして、君の傷はちっとも癒えなかった。』
領主様は少しだけ悲しそうな顔をしながら、思い出すように目を閉じる。様々な要因というのはきっと力のことで、レオがそばにいて、レオは私の力のことを詳しくは知らないから、伏せておいてくれたのだろうと今ならわかる。
『花嫁候補の話はとても名誉あることだが、私は君がまた見知らぬ土地で、見知らぬ人と出会い、それによって傷ついたり自分を責めてしまったりしないかと思って、この話には反対だったんだ。』
そこまで、思っていてくれたなんて知らなかった。あまりにも信じられなくて、領主様のような素晴らしい人に限ってそんなことは絶対にないけれど、私は卑屈だからほんの少しだけ、師団長であるレオにいい顔をしてみせるための茶番劇なんじゃないかとすら思った。
しかし、次の領主様の言葉で、私はようやく一つのことを思い出した。
『優しい君は、私たちを傷つけてしまうことを恐れたんだろう? 私が手袋を贈って、気持ちを沈めれば君の力は暴走しないはずだと諭してから、君は私と妻を避けるようになったな。その上、あれほどまでに親しかったシイラとさえも距離を置くようになってしまった。』
そう。すっかり忘れていた一番最初のこと。距離を取り始めたのも、避け始めたのも、全部全部、私が最初だったのだ。
私も、領主様のそばに控えていたシイラも、目を見開く。私が言葉を紡ぐより先に、シイラのハキハキとした声が、謁見の間に響き渡った。その顔は、とても明るくて嬉しそうだった。
『じゃあ!! お姉様が私のことを避けてたのは、私のことが嫌いだからじゃなかったのね!! よかったあ……。』
シイラの言葉を聞いて、私の胸はギュッと音を立てて締め付けられた。ああ、なんて。なんて私は馬鹿なことをしていたのか。自分のことで手一杯で、結局相手の気持ちを考えていなかった。
嫌いなわけないじゃない。私は貴女の笑顔からたくさん元気をもらって、そんな風に元気をくれる貴女のことが本当に大好きなのに。こんないい子を、どうしたら嫌いになれるというのか。
『ああ、シイラ、本当にごめんなさい……! 私、貴女の気持ちを全然考えていなかったわ。貴女のことこんなに大好きなのに……。』
『……! 私も、私も大好きです、お姉様っ!!』
私の口から零れたその言葉がシイラに届くと、シイラは輝く笑顔と共に私に飛びついてきた。力のことが気になったけど、恐る恐る抱き返してみたら、シイラの身体は温かくて心地よかった。でもそれ以上はやっぱり怖くて、私は心地よい温もりからすぐに手を離した。
領主様は嬉しそうに頷きながら、今度は奥様をみた。奥様は相変わらず何を考えているかわからない無表情で、私たちを見つめている。そんな様子に、領主様は少しだけ苦笑していた。
『"私は"反対だったんだがな。私はいつまでたっても、グローリアには口論で勝てないらしい。』
『あら、そんなことはありませんわ。わたくしは一意見を述べただけで、決定権はあなたにあるのですもの。』
『よく言う……。とにかく、グローリアは君の王都行きに賛成だったようでね。しかも私が危惧していた、見知らぬ人と関わることをむしろさせるべきだというのだよ。』
困った困った、と言いながら領主様は奥様を見つめるけれど、奥様は相変わらずの無表情で素知らぬ顔。たしかに、この家で一番の決定権を持っているのは奥様かもしれない。強くて素敵で、芯の通っている貴婦人なのだから。
『わたくしたちは今まで、貴女がこれ以上傷つくことを恐れて、貴女を隠してきましたわ。しかし結果的にそれで良かったのかと言われると、わたくしは頷けないのです。』
奥様はいつもの無表情さを崩して、すこし複雑な色を滲ませる。領主様が話している間もずっと抱きついていたシイラだが、やはり奥様が話し始めると、私から離れて居住まいを正す。
『感情と自分は、隠すものでも抑えつけるものでもありませんもの。人と触れ合いなしに、自由までも制限しながら、貴女の傷を癒すなんて不可能なのですわ。』
もっと早くに気づければ良かったのですけれど、と奥様は続けた。こんなに、こんなに大切に思われていたなんて。こんなに私のことを見て、考えてくれていたなんて。自分の殻に閉じこもって、見えるものをただ思うように受け取っていた私は、領主様たちの思いに気づくことが出来なかった。今更、そのことに気づいてしまった。
『けれどきっと、貴女はもうこの街でやり直せないでしょう。誰かを遠ざけるということは、そういうことなのですわ。特にあまり関わりのない誰かの場合は、時間ですら解決してくれないこともありますもの。』
そう、今さらこの家で自由になっても、私はこの家の自室が安全であるということが骨の髄にまで染みてしまっている。私にとってサフォーの街は、自分がいてはいけない場所なのだ。そういう風に既に脳にインプットされている。3年かけて養い続けたそれを今さら覆すのは、更に何年かを要するかもしれないし、もう永遠に無理なのかもしれない。
かといって、新しい環境でより外が怖くなる可能性だってなくはない。賢明な奥様にしては、とてもリスキーな選択だと思った。
『そして何より、そこの師団長様が、わたくし達の大切な娘を守ってくださると言ってくださりましたわ。ですから、私は王都行きに賛成したのです。』
今まで、私の横で、一言も話さず微動だにせず、ただ私たちの話をジッと聞いていたレオに、私は驚いて見開いた目を向けると、彼は私に向かって強く頷いた。
一歩進んで私よりも前に出ると、貴族の礼を行った。師団長にもなれば、貴族がわんさかといる王宮のマナーが身についているのだろう。彼の礼は、流れるような美しい礼だった。
『守ります、必ず。』
真剣味を帯びたレオの表情に、さらなる驚きで思わず口を開けてしまい、慌てて純白の手袋で覆われている手を口元へ当てた。何の義理でここまでしてくれるのかがわからない。昼間だって、道案内を頼まれても私は話も聞かず逃げたしたというのに。
領主様と奥様が頷くと、それきり誰も話さなくなった。オレンジ色のシャンデリアの光が落ちて、みんなの影が色濃くなっていくことに、時間の経過を知る。きっと深夜になってしまっているし、師団長の朝は早いと思う。部屋に下がると声をかけた方がいいのだろうか、と思った矢先、遠慮がちに声を出したのは領主様だった。
『私からも、ひとつ条件をいいかな? 』
『なんでしょう?』
『ああ、いや、君じゃない。ルル、お前にだよ。別に強制するわけではないんだが……。』
『え、私ですか? その条件とは一体なんです?』
私もレオも、怪訝な顔をしているに違いない。突然の条件に、私もレオも少し身構えている。領主様は私を見て柔らかく目を細めると、その条件を口にした。
『私たちを、父母と呼んでほしい。君は私たちの娘だから、いつでも帰ってきていいんだ。それを忘れないでほしい。』
『そうよ、お姉様。だって私たちは家族なんですもの!』
視界が揺れて、目頭が熱くなった。シイラを見れば、私に向かって優しく微笑んでくれる。私は幸運だった。野垂れ死ぬことも、悪どい貴族に拾われることもなく、素晴らしい家庭に迎え入れてもらったのだから。
――雪の中でお別れをしてしまったお父様お母様、この様子を天から見ていますか。私はすごく薄情なのかもしれません。それでも私は、ずっと独りが寂しかった。だから家族と呼べる人ができて、本当に奇跡のようだと思えるほど、嬉しく思っています。今が寂しいとわかるほどたくさんの愛をくださったお父様もお母様も絶対に忘れません。でもどうか、新しい家族に仲間入りすることを許してください。
『はい、お父様。そのお言葉、決して忘れません。いってきます、お母様、シイラ。』
いつも無表情だったお母様は、その時とても嬉しそうに微笑んでくれていた。
* * * * *
ガタン、と一際大きな揺れで目を覚ます。どうやら眠ってしまっていたみたい。もう一度窓の外を見てみると、もうサフォーの街は見えなかった。
どれくらい進んだのか気になっていると、流れる景色がゆっくりと静止に向かっていることに気づいた。少し進んだところで馬車が止まった。
「ルル姫。」
出会った時から変わらない低く落ち着いた声に、私は無意識のうちに安堵して頬の筋肉を緩める。そのことから顔が強張っていたことを知り、見知らぬ場所はやはり緊張感を伴うのだと再確認した。レオは私の名を呼んでから一拍おくと、馬車の扉を開く。目が合うと、赤茶色の目はゆっくりと弧を描き、フッと綺麗な笑みを浮かべながら、レオは私に話しかけた。
「今から少しこの村で休憩してから、この後は行けるところまで王都に向かう予定です。」
私が花嫁候補になったからか、レオの接し方は初めて会った時よりも丁寧になった。でもなんだか、私はそれが落ち着かなくて、そんな風に接される度に胸の奥がザワザワするものだから、レオに抗議をしてみることにした。
「あの、姫を付けて呼ぶとか丁寧な話し方とか、やめてほしいの。わがままでごめんなさい……ダメならすぐ諦めるからそう言って。」
私はあまり自分からお願いをしたことがなく、言われるまま流されるままに生きてきた。そんな私の初めてのお願いは、逃げ道たっぷりのとても低姿勢なものになってしまった。我ながらもっと堂々と言えばいいのにとも思うけれど。しかしこれから先、この人しか知り合いがいないという状況になるのに、嫌われてしまうかもしれないと思えば、あまり強くは言えなかった。
そんな私に何を思ったのか、レオはクツクツと笑いながら手を差し伸べる。人が真剣にお願いしているのに失礼な、と眉を顰めながら、私に向かって差し伸べられた男らしい手を見た。
「わかった、わかった。 というかなんだ、ルルはあまり姫君扱いに慣れていないんだな。こういう時は俺の手を取るものなんだが……、まあいい。」
姫君扱いなんて、されたこともないのになれるわけがない。テナの村では身分はあまり関係なかったし、領主家ですら、世話役と関わることもほとんどなかったのに。
そんなことを考えていたら、レオは突然馬車の中に一歩踏み入れ、私の腰をつかんでひょいと持ち上げた。
「えっ!?」
「こっちの方が手っ取り早いかなと思って。それとな、あんな逃げ道だらけの、お願いする気のないお願いなんて、今後はしてくれるなよ。」
そんな彼の動作と言葉に抵抗も忘れてしまうほど驚いていると、私はすぐに馬車の外にストンと降ろされる。まずは空を見て時間の経過を確認した。出発したのは明け方で、日の光が辛うじて水平線から漏れる程度だったが、今の太陽の位置は頭上付近で、辺りは随分と明るい。どうやら昼に近いということはわかった。
そのまま視線を下ろして周りを見渡してみると、意外と森が近いということがわかった。この村はサフォーの街よりもこじんまりとしているが自然は豊かな様子で、小川が流れる音もここから聞こえる。第一印象はのどかな村。その様子に、テナも綺麗な雪解け水が流れる村だったことを思い出して、胸がチクリと痛くなった。
私のその様子に気づいたのか気づいていないのかは分からないけど、レオは私の頭を撫でるような優しさで、ポンポンと2度たたいた。顔を上げた先のレオは、少し苦笑気味だった。
「俺の護衛付きでよければ、一緒に村の店をまわろう。……きっといい気分転換になる。」
「……うん、ありがとう、レオ。」
どうやら気づかれていたらしい。少し申し訳なく思いながらも、その優しさに甘えることにした。レオは少し待っててくれと私に告げると、仲間の王都兵のところで二言三言交わしていた。
誰かに甘えるなんてこと、一体何年ぶりだろうか。私は白い手袋を見ながらそう思った。テナの村の人は私の能力を知っていたから、サフォーの街にいた頃に比べたらまだ気を遣っていないだろうけど、それでもやっぱり私はこの力のせいで、自然と人に遠慮したり、距離をとっていたりしていたんだと思う。
この力のことを言えば、きっと花嫁候補を辞退できた。でも私はそれをしなかった。どうしてだろう? こんな忌まわしい力のことを隠して、竜王様の元へ行くなんて。 私からしてみれば考えられないことのはずなのに、現実はそうなってしまっている。
痩せ細った木の枝のような、不健康にしか思えない自分の手指を見ながら、そんなことを考えていると、王都兵たちと話し終わったレオが戻ってきた。
「待たせてすまなかった。行こうか。」
少し眉を八の字に下げながら、彼は私に手を差し出した。馬車を降りようとした時と同じ仕草に、私は思わず彼を見やる。レオは一つ頷くと、私に向かって不敵に微笑んだ。
「こういう時はどうするか、教えたな?」
私はレオと彼の手をもう一度見比べると、先ほど言われたようにするために、自分の手を持ち上げた。しかし持ち上げたところで目に入ってきた自分の白い手袋に、思わずピタリと動作を止めてしまう。
知られた方がいいのに、知られたくない。何かに触れるいうことが、途方もなく怖い。
どんどんと強張っていく私の表情。気のせいほど微かに震える私の手。どうしようという言葉が頭の中を堂々巡りし始めた時、不意に髪に何かが触れた。
「すまない、からかいすぎた。そんな顔をするな。」
私を安心させるには十分な、いつもの低く落ち着いた声。今はその声音に、少し申し訳なさが滲んでいる。差し出している方の手とは逆の手で優しく髪を一撫ですると、あと少しだけ空いている私とレオの手の距離を彼は埋めた。そっと、壊れものを扱うように、ひどく優しく握られる。それでも私の手は、自分以外の体温にあからさまにビクついた。
平常心、平常心。心を落ち着けて平静に。何も考えてはいけない。感じてはいけない。手袋をしているから、大丈夫。悪いことなんて起こらない。
私は必死に自分にそう言い聞かせた。交わる体温は、私にとって恐怖でしかない。でも、レオの手を振り払う気には少しもならなかった。
「悪いけど、もし逸れたら大事になってしまうんだ。嫌かもしれないが、人のいる場所では我慢してほしい。」
レオの言葉で私はハッと我に返った。違うのに。決して嫌なわけじゃない。ただ私は自分が傷つきたくないだけ。
言わなくちゃいけない、と思った。今度は自分から間違えないように、勇気を出して、気持ちを少しでも伝えなくちゃ。
少し揺らいでいるように見える夕焼けの瞳に目を合わせて、私は慌てて口を開いた。夕焼けの色の綺麗な瞳が、少し悲しんでいるように見えたから。
「ち、ちがうの! 私、本当にこういうことされたことないから分からなくて……その、ちょっとだけ怖くて。でも、決して嫌なわけじゃないのよ!」
これが私に伝えられる精一杯だった。全て本心だが、結局大事なところは隠してしまう。私は力のことを、レオに知られるのが怖いと思っている。
レオは私が何かの力を持っていることは知っているみたいだけど、恐ろしい力だとは思っていない気がする。ましてや、私はこの力を解除することすらできないなんてことは考えてもいないだろう。私は、そのできて当たり前のことができないのだ。
この甘えさせてくれる優しい人を、手放したくないのかもしれない。なんて自分勝手な気持ちなんだろう。知られて、嫌われるかもしれないと想像するだけで、泣いてしまいそうな切ない気持ちになる。
必死に伝えた私の気持ちは、どうやらレオに届いたらしい。柔らかい微笑みを浮かべると、空いている方の手で、また私の髪を一撫でした。サラリと淡いライトブルーが視界の端を流れていくけれど、私はレオの微笑みから目が離せなかった。
「そうか、ならよかった。休憩時間は限られているからな……行こう。」
私がその言葉に頷くと、レオもまた一つ頷いて、私の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。彼の優しさと、手から伝わってくる体温に、私の心臓はうるさく音を立てる。名前すらわからない、生まれて初めて感じるこの感情に、私はどうしたらいいかよくわからなかった。しかしとにかく今は、久しぶりに普通にお店をまわれるこの時間を楽しもうと決めた。