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竜王に捧げるエルグラス  作者: 深谷 蒼
第1章 花嫁候補編
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2.夕焼け色の出会い


 私は栞を見失わないように、必死で追いかける。素肌が剥き出しの足に、石が食い込むことも気にならなかった。帰ったら、奥様にはしたないと罵られるかもしれない。でも今、この栞を見捨てたら私は永遠に救われないのではないかと、大げさかもしれないがそんな恐怖を感じていた。ひょっとしたら今朝の悪夢のせいかもしれない。


 今日はどうやら風が強い日らしい。栞は一向に宙から落ちてくることはなく、けれど舞い上がることもなく、ふわりふわりと飛んでいく。



「どこに、いくのっ……どうして、逃げるのっ…………!?」



 答えなどないと知りつつも、私は栞に向かって叫んだ。気づけば領主邸のすぐ近くの林まで来てしまったようで、周りに木々があるのに栞は引っかからない。風もだいぶなくなってきたのに、落ちてこない。私はそのことにとても悲しくなった。


 視界が揺らぎ、目が熱くなっていく。小川が見えてきたところで、川に落ちてはまずいと走るペースを上げていくも、普段の運動不足が祟ってなかなか思うように速度は上がらない。


 それでも、と掴むにはまだ距離が遠い私の栞に向かって、必死に手を伸ばしたその時。突然吹いた一陣の風とともに、栞は視界から消えた。



「えっ……?」



 目を見開きながら思わず吐息を漏らした瞬間、その声に被せるように、低くゆったりとした声が私の耳に聞こえてきた。ちょうど、小川より少し手前の、私からみて斜め左前の辺りから。



「この栞は君のか?」



 突然の人の声に驚いて、一瞬息を飲んだ。知らない声を聞くのはいつ以来だろう。


 硬直する私を訝しんで、目の前の青年は首を傾げた。空気が動くのを感じて、私はなんとか我に返る。そして彼の手にある栞をみて、先ほどまでに目に溜まっていた涙が、本当に意図せず、一雫だけポロリと頬を伝って零れ落ちた。あの雪の日のように、涙が吹雪に攫われて消えることはなかった。


 雪の中で、途方もない道をたった一人で歩いていた私を、私の手の届かないところへいってしまう前に、この人は拾ってくれた。そんなこと、この人にはわからないことで、単純に困っている人を助けただけのことだとはわかっている。けれど、私にとっては本当に救いだった。



「ありがとう……。本当に、ありがとうございますっ……!!」



 抑えていた思いが溢れ出す。それでもなんとか抑えようとして、顔がくしゃりと歪んでしまう。勝手に涙が溢れていく。見知らぬ人に目の前で泣かれて、さっきの人はきっととても驚いているに違いない。零れ続ける涙の雫を拭いながら、さっきの人を見上げると、予想に反して穏やかな笑みを浮かべていた。


 予想に反しすぎていて、涙を流したまま呆然としてしまう私に、彼は私との距離を詰めると微笑みながら優しく話しかけてきた。この時、私は初めて彼をまともにみた。赤茶色の髪に、赤茶色の目をしている。切れ長の目が細められて唇が弧を描くその様に、私は夕焼けをみた気がした。とても綺麗な人、そう思った。



「よほど大切なんだな、その栞。何があったか知らないけど……もう無くすなよ。」



 私は思わず目を見開いてしまったが、一拍おいて力強く頷いた。ーーもう無くさない、あの頃の私を。絶対に一人ぼっちにしない。白い世界を彷徨う幼い私の隣には、私が居よう。


 頷いた私をみて、満足そうに彼は笑った。微笑みとは少し違う、年相応の笑みと言った方がいいだろうか。彼の歳はおそらく私よりもいくつか上だろうということは、なんとなくわかった。


 彼は私に目をやると少しだけ肩を竦めてみせた。なんだろうと思っていたら、栞を私の手に握らせてくる。そしてそのまま手を移動させると、私の背中と膝裏を支点にして持ち上げた。いわゆるお姫様抱っこ。そう理解した瞬間、自分の頬に熱が集まっていくのがわかった。



「え、ちょっと、降ろしてください!」



 私の赤くなった顔を見ながら、その人はクツクツと笑うだけ笑って、そのまま何も答えずに小川のふちに私を降ろした。ようやく過ぎ去ったお姫様抱っこに、私は湧き上がる羞恥を落ち着かせようとするも、彼は今度は土や泥で汚れた私の足を取るものだから、もう脳内はパニック状態。



「ほんとに、やめてください……!!」


「全く、裸足で走るなんて無茶をする。洗わないと傷に悪いものが入るぞ。」



 片足ずつ、川の水で丁寧に汚れを落としてくれる彼に、今度は羞恥心から涙が零れそうだった。足は小さな傷が幾つもできてしまっていたようで、ピリピリと痛むし熱い。


 目のやり場に困って視線を彷徨わせていると、彼の剣の鞘の紋章に目が止まった。え、と吐息を零しながら、改めて彼を見る。スラリと伸びた長身には程よい筋肉がついており、ラフな格好ではあるが、いわゆるこれは軽装と呼ばれる防具だ。先刻みた鎧姿ではなかったから、わからなかった。そして剣の鞘の紋章に視線を戻した瞬間、私の意識はようやく完全に現実へと帰ってきた。



「竜王様の……直轄(ちょっかつ)軍。」



 零れ落ちた小さな呟きを拾ったのか、目の前の青年は顔を上げて口角を上げた。口角を上げると同時に、襟元が露わになり、私は恐る恐る襟元をみた。襟元には軍内での役職をバッジとして付けるように義務付けられているのだ。そしてそのバッジを見た瞬間、私は頭痛を感じて思わずこめかみを押さえた。



「師団長、様……。」



 この、若さで。多く歳の差を見積もっても、よほどの童顔でない限りは上に6歳までの差しか感じない。20から25までのどこかにいるはずだ。その若さで、竜王直轄軍の師団長を務めるとは。


 私の考えを見破ったのか、彼はしてやったりな表情をした。しかしすぐにその顔を引っ込めると、肩を竦めてみせた。



「今から領主邸にいかなければならない用事ができたんだが、生憎俺はここから邸宅までの道を知らない。悪いが、案内をお願い出来ないか?」


「どうして、私が。たしかに、栞を拾って下さったことは感謝しています。傷の手当てのことも。でも、こんな薄汚れた格好をした私よりも、街娘の方が邸宅の場所をご存知だと思いませんか?」



 私は身分がまだ割れていないはず。できればこれ以上の関わり合いは避けたかった。しかもこの格好だ、誰かに見つかることなくこっそりと帰りたい。堂々と正面玄関から入るつもりのこの人には、邸宅に御用であれば申し訳ないが後で来ていただきたいところだ。


 気づけば日は高く、お昼過ぎになってしまっているかもしれない。王都の兵はたしかに時間がないだろうし、早く行きたい気持ちもわからなくはないが、こちらにも事情というものがある。


 そう固い決意を胸に秘めていた私に、何を思ったのか師団長様は顎に手を当てて考える素振りをなさった。そして首を傾げながら、私に問いかけた。



「街娘よりも、ストーレンス家の令嬢に直接場所を聞いた方が早いと思ってこうしているのだが、何か間違っているか?」


「っ?!」



 ドキリと心臓が跳ねた。どうしてという言葉が頭の中を巡り出す。ポーカーフェイスを心がけているつもりだが、さすがに顔が強ばってしまった。――どうして、わかったの。ストーレンスは領主家の姓。なぜ、私があそこに住んでいる娘だと、わかったの。


 師団長様は私の動揺を察したようだ。しかし同時に、動揺する理由が心底わからないというような顔をした。こちらこそわけがわからない。だって今の私は、足は裸足で汚れていたし服もあちこちが枝に引っかかってほつれていて、その辺の街娘よりも薄汚れた格好をしているはず。領主家どころか貴族の娘にさえも見えないだろうに。だからこそ、どんなに恩があっても、正面切っての案内はできないと思ったくらいなのだから。


 私が本当に無自覚であることを悟った師団長様は、私を、正確には私の手元を指差して遠慮がちに言った。



「その、手袋。レベルの高い封印の呪がかかっている。そんなものをこの地で用意できるのはここでは公爵家だけだろうし、その手袋のレース部分にも、小さくストーレンス公爵家の紋章がある。」



 もう私は驚きを隠そうとはしなかった。まさか呪がかかっていることを見抜くなんて。それではこの人は、はじめから私が得体の知れない力を持っていると知った上で、あのような、普通の接し方ができたっていうのか。



「ストーレンス公爵家の紋章……。3年もこの手袋をしていたのに、全く気づきませんでした。」



 私は手袋の裾のレース部分を信じられない思いで見つめていた。紋章が堂々と飾りの一つとして描かれているのではない。裾のレース部分によく目を凝らせば、レースの中に小さくストーレンス公爵家の紋章がレースの形の一つとしてあしらわれていることに気づけるだろうといった具合の非常に細やかな細工だ。


 本当に、たった今、初めて気がついた。しかし、手袋に注意を向けた瞬間、自分の力のことを思い出す。どうして手袋をしているのか、どうして封印の呪がかけられているのか。――これ以上、この人に関わってはいけない。



「わかりました、師団長様。私はたしかに領主様の邸宅に住まわせていただいています。ですが私は人と関わってはならないのです。」


「なぜ? 先ほどまで十分関わっていたと言えると思うが。」


「……代わりの侍女をお呼びします。どうか今しばらくお待ちください。」


「おいっ!!」



 気づくと同時に崩れ落ちていく平静さ。周囲の温度が下がっていくのを感じる。足元の草に、霜がつくのを感じる。これ以上ここにいたら気づかれてしまう。


 師団長様の声に耳を傾けることなく、私は足早にその場を去った。赤茶色の髪と目が脳裏をよぎる。私に向けられた純粋な笑顔が瞼の裏にこびりついている。胸が、とても苦しかった。






* * * * *




 あれから、帰ってきた私をみて驚いた奥様に、私は事情を話して謝罪した。奥様に命じられた侍女は、すぐに師団長様をお迎えに行った。


 奥様は私を責めたりはせずに、自室へと下がらせた。怒らせてしまっただろうか。領主家の養女という立場にも関わらず、思い返してみればあり得ない格好で師団長様という、今回王都からいらした軍団のトップともいえる人とお話していたのだから、怒られても呆れられても見放されても文句は言えまい。それほど、この領主家の紋章に泥を塗ってしまった。


 一刻ほどすると、師団長様の件も落ち着いたのか、ノックの音と共に奥様の声が扉越しに聞こえてくる。今朝と違って、部屋に入るつもりはないようだ。



「ルル、貴女はきちんと落ち着くまでここにいなさい。晩餐が始まったら鐘を二つ鳴らしますから、その音が聞こえたら気分転換に夜の散歩でも行ってみたらいかがかしら?」


「はい、奥様……。」


「それではわたくしは今から晩餐の用意がありますから、これで失礼致しますわ。ご機嫌よう。」



 その言葉を最後に、扉の前の気配は遠ざかっていった。ヒールの微かな音だけが、私の耳には響いていた。


 窓の外をみれば、気づいたら日の入りが迫っていて。目を閉じれば、私の想像世界での晩餐が、夜空の下で行われる。キラキラ輝く星と月に見守られて、幸せな晩餐を想像しているのに、どうしても大勢の人を思い浮かべることができない。目に浮かぶのは、幼い頃の私と今の私が溶け合ってしまい、結局一人ぼっちになってしまった晩餐の光景。一人ぼっちにはさせないと誓った手前、がんばって思い浮かべようとするも、他人というものがあまりよくわからない。


 他人、と口の中で言葉を転がしてみると、私しかいない晩餐の会場に、一人の男が現れた。夜空にも負けない赤茶色の瞳が柔らかく微笑む。私が思い浮かべられる他人は彼しかいなかった。テナの村の人々は思い出すと苦しいから。


 二人だけの晩餐を想像しているうちに、私は瞼を開けられなくなっていった。楽しくて虚しい想像も次第に暗転していき、私はしばらくの間、眠りについた。




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