地下牢
空を見ればたいていのことはわかった。梅雨の始まりも、初雪の降る日も、飛ばされた帽子も、いなくなった猫も、空を見れば自然に心にひらめいた。
小さな頃から、寝転がって空を見るのが好きだった。太陽と月の動きを体で感じる時、りん子は心から生きていると思えた。
それなのに、蜘蛛のような男が来て、空の見えない場所へりん子を閉じ込めてしまった。
男は口から白い糸を吐き、細い目で笑った。
「ここから生きて帰った者はいない。私の玩具になるか食糧になるか、好きなほうを選びなさい」
石でできた壁と天井が続いている。目隠しをされて連れてこられたので正確にはわからないが、長い階段を降りてきた記憶があった。おそらくここは地下、それも入り組んだ迷路のような場所なのだろう。
埃とカビのにおいが鼻をついた。壁のあちこちに、ねばねばした白い糸が張り巡らされている。くぐり抜けて歩いていくと、あっという間に方向がわからなくなった。
りん子は立ち止まり、手前の分かれ道まで戻ろうか考えた。迷っているうちに、目が慣れてきた。砂利だと思って踏んで歩いてきたのは、粉々になった骨だった。よく見ると、引き裂かれた服やアクセサリー、壊れたバッグなども落ちていた。りん子は一つずつ拾い、使えるものはないか調べた。
蜘蛛男は時々、糸につかまって飛んできたり、天井を這ってきたり、ぬらりと急に現れたりした。
「まだ迷っているのか。ほら、こっちはこんなに楽しい」
蜘蛛男は糸を操り、美しいドレスを着た少女たちが踊った。糸に吊された体は細く、しなやかに揺れ、ぶつかり合って音楽を奏でた。サン・サーンスの『死の舞踏』だ。
「綺麗だろう。君も混ざりたいだろう」
白い欠片が飛び、りん子の額に当たった。膨らんだ袖やスカートから伸びる少女たちの体は、骨だった。
「嫌よ。そんなに痩せたら今着てる服が着れなくなっちゃう」
絡みつく糸を振り切り、りん子は走り出した。愚かな、と蜘蛛男は言った。
何か、何か抜け出す手立てはないか。
りん子は唇を噛み、灰色の天井を見上げた。ここをぶち抜いてしまえればいいのに。
拾った服やバッグの中を探った。爆薬なんてあるはずもなく、つるはしもナイフ一本さえもない。溶けたキャンディにヘアピン、ビーズの指輪にハンカチ、小さな人形、投げ捨てながらりん子は走った。
「無駄、無駄、疲れるだけだ。ほら、もうじき骨になる」
蜘蛛男は手足をうごめかせ、歪んだ笑みを浮かべた。
りん子は走るのをやめた。拾ったものは全て捨ててしまった。最後に残った花模様のポシェットから、クレヨンの箱が出てきた。
「そんなもので何をしようと言うんだ?」
蜘蛛男が笑い、骨の少女たちも甲高い音を立てた。りん子はきっと顔を上げ、一番背の高い少女を捕まえると、肩の上によじ登った。天井に青いクレヨンを突き立て、塗り始める。
「さあ、動いて」
りん子が骸骨の頭を叩くと、少女はビロードのドレスをなびかせて移動した。りん子は両足で少女の肩にしがみつき、クレヨンを走らせていく。
「何という悪あがきだ」
蜘蛛男が糸を吐き出す。りん子はそれを片手で絡め取り、丸めて天井にくっつけた。
「もっとちょうだい! 雲にするわ」
蜘蛛男は眉をひそめ、出しかけていた糸を噛み切った。骨の少女たちはその場にくずおれたが、りん子の乗っている少女だけはひとりでに動いていた。
描いても描いても、クレヨンはなくならなかった。りん子は時々、オレンジや紺に持ち替えて、夕焼けや夜の空を描いた。いろいろな形の月を描いた。飛行機の赤い灯や、鳥の群れも描いた。
りん子は休みなく描き続けた。進んできた道を振り返るたびに、頭がはっきりしていく。腕がしびれ、汗が流れる。その感覚すらも心強かった。
夜明けの空を描こうと、薄紫のクレヨンを持った時、目の前に光が降りてきた。塵や埃が浮かんで見え、糸の切れ端がきらきらと光った。
「着いた……!」
光が当たると、骨の少女は砕けてしまった。ありがとう、とりん子はささやき、飛び降りた。地上へ向かう階段が、ひっそりとそびえていた。
蜘蛛男が現れた。疲れたような、ほっとしたような表情をしていた。
「おめでとう。帰ってきたのは君が初めてだよ」
「本当? すごい!」
「いや、別にすごくはないよ。迷路の確実な攻略法は、壁づたいに歩いていくことだからね」
蜘蛛男は細い目をさらに細め、階段の上を見た。
「早く行きなさい。私がまた、君を新しい獲物と認識しないうちに」
「一緒に来ない?」
りん子は片方の爪先で階段を小突きながら言った。蜘蛛男はゆっくりかぶりを振った。
「もうしばらくここにいるよ。君の描いた空を見ていたいからね」
「本物の空はもっとすごいのよ」
「わかってるよ。心配しなくても、私はいつでも戻れる」
蜘蛛男は口に指を当て、ふっと糸を吐き出した。そのまま背を向け、地下道を引き返していった。
りん子は糸の軌跡を見つめていた。ひと息ついてから、階段に向き直った。光の差すほうへ、クレヨンをかざす。
「ただいま、本物」
まだ見えない光の先に顔を向けた。ツーサイドアップの髪を揺らして、空へ続く階段を駆け上がっていった。