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セフィール・サーガ  作者: 秋乃麒麟
第1章 異界より来る禍つ闇
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第5話 人ならざる者


 クリークス公国領・南西部関所――

 ラスティート王国との国境付近に位置し、砦からは一時間程の距離にある。本来ならば多くの兵がこの場に駐屯しているのだが、そこには異様な光景が広がっていた。

「ええい、遅い! あの者は何をやっているのだ!」

 禿頭の男が、拳を思い切り机に叩きつけた。その衝撃で、置いてあったカップが渇いた音を立てる。その衝撃に、その場にいた者達は思わず身体をびくつかせた。ただ一人を除いて

「確かに遅いな。恐らくは、相手の対応が早かったのだろう。なかなか聡い将がいると見た」

 重く響く、だが静かな声で。その者は淡々と状況を分析した。先程から怒鳴り散らしている男の声に、彼だけはまったく動じていない。

 一言で言い表せば、美青年だ。金糸のような髪にスラリとした長身。丈の長いローブの上からでも、その細身で均整のとれた身体を想像するのは容易い。だが、人間には有り得ない器官が、彼にはあった。

 まず、背中から生えた、一対の黒い翼だ。蝙蝠を連想させるが、それが持つモノよりも大きく、何処か禍々しい雰囲気を醸し出している。そして、頭から生えた二本の黒い角。これも動物的なモノではなく、どちらかというと魔物が持つようなモノである。

 それだけではない。青年の肌だ。彼の肌は人間ではまず有り得ないような、青白い色をしている。病人でも此処まであからさまな色は出ないであろう。

 しかし、そういった人間離れした特徴を持ちながらも醜さを感じさせないのは、彼の容姿が優れていること――いや、彼が人ではない存在であるからなのかもしれない。

「無能ではないか、貴様のところの部下は!」

「何を焦っているのかは知らんが、力が欲しいのならばもう少し我々魔族を信用することだ」

「バケモノ風情が……」

 吐き捨てるようにそう言うと、男は異形の青年を睨みつけた。その視線は憎悪でも侮蔑でもなく、未知の存在に対する恐怖であった。

「バケモノ、か。我々からしたら、お前達の方が余程バケモノだがな」

「何を!」

「己の出世のために周りを蹴落とし、自国の繁栄のために他国を滅ぼす。私利私欲のために周囲の者へと危害を加えることを厭わないお前達の方が、私からしたらバケモノに見えるさ」

 憂いを帯びた表情で、青年は告げた。

「すまないな、このような愚痴をこぼしたところでどうにもなるまい。それよりも、お前のところの将が逃げ出したらしいな。そして、肝心の大公やその周りの者共も仕留めそこなったとか」

 青年の表情が、少し険しくなる。

「ぐっ……」

 男は返す言葉が無かった。自らの目的のために青年の力を借りようとしたのだが、自分の実力が足らず、完全に計画を遂行することが出来なかったのだ。

(やれやれ、無能はどちらなのか。所詮は人間、いや、この男が上に立つ者としての器を持ち合わせていないだけなのだろう。リリス様が目覚められるまでの余興として付き合おうと思ったが、あまり遊んでいるわけにもいかないだろうからな)

 青年は侮蔑とも哀れみとも取れるような表情を一瞬見せた。

 そして――

「さて、すまないがそろそろ幕を降ろさせてもらおう」

 そう言うと、青年は腰に帯びていた剣を抜刀し、男へと突きつけた。その動作は一瞬であった。スラリとした刀身を持つレイピアの切っ先が、男の眼前にある。

 一瞬自分の身に何が起きているのか男は解らなかったが、すぐに自分の命が狙われていることを理解した。

「な、何の真似だ貴様! このようなことをして、許されると思っているのか!」

 男は丸腰だった。また、魔術の才能も無い。故に対抗する手段は無く、ただ青年に対して罵詈雑言を浴びせるだけだ。それは単に虚勢を張っているだけに過ぎず、恐怖と絶望が男を支配していた。

「お、お前達! やれ、この者を殺しても構わん!」

 男の声に従い、衛兵たちが青年を取り囲み、一斉に剣を振り翳して斬りかかってきた。だが、青年はまるで動じていない。

「魔術の詠唱も見抜けないとは。無能なのは貴様の方だったな、人間よ」

「しまっ……」

 気付いた時には遅かった。青年はレイピアを突きつけた時から、魔術を詠唱していたのだ。相手に気取らせないこと、そしてこの男と部下達の中で魔術に対する知識を持っている者がいないことが、勝負を決めた。

 水晶のを思わせるかのような無数の氷の槍が、兵士達に向けて襲い掛かる。ある者は喉を撃ち抜かれ、ある者は凍てつくような冷気によって次々と斃れていく。術が終わった頃には、指揮官であった男を除く兵士は、全滅していた。それはほんの一瞬の出来事であったが、男にとっては全てがスローモーションとなり映っていた。

「ひっ、やめろ! やめろ! 何だ、何が欲しいんだお前は! 金か? 権力か?」

 男は完全に恐慌状態に陥っていた。無理もないだろうが、自分だけは助かるための方法を必死に探していた。青年はそんな男を、嘲るわけでもなく哀れむわけでもなく、ただジッと見ているだけだ。

「この期に及んで、自分がまだ権力者になれるとでも思っているのか? 呆れたものだ」

 そう告げると、異形の青年は男の眉間にレイピアを突き刺した。相当の業物なのだろうか、レイピアの切っ先は男の頭を貫通し、後頭部から銀色に輝く刀身が現れる。

 男は白目を向いて痙攣し、やがて動かなくなった。仕留めたのを確認すると、青年はレイピアを引き抜き、こびり付いた血と脳漿を振り払い、再び鞘へと納める。

「妙だと思いましたが、やはり闇の者達が動いていましたか」

 抑揚のない声が部屋の中に響く。澄んだ女の声だ。

(おかしい。この場にいた者は全員仕留めた筈。まだ生きている者がいるのだろうか?)

 いや、違う。女の声、そして気配はたった今、この場に現れたのだ。

 一瞬青年は焦りを覚えたが、いつでも術の詠唱を出来るように備え、後方へと振り向いた。

 そこには、一人の銀髪の女が立っていた。

 その身を包むのは胸元を包む布と、踝までの長さのパレオという、露出の多い格好だ。しかし、露出の多さから連想できるような下品さはなく、雪のような白い肌は一種の芸術品のような趣がある。細いが不健康さを感じさせない四肢と絶妙な曲線を描く肢体。女性らしさの象徴ともいえる二つの果実も、ただ大きいだけではなく均整のとれた形をしている。

 多くの男達は、彼女の姿を見ると生唾を飲むだろう。だが、青年はその煽情的ともいえる姿に魅了されるわけでもなく、むしろ忌々しいものをみるかのような視線で彼女を睨む。

「ふん、人形が何の用だ?」

 男の問いかけに対し、女は僅かに顔を歪めるが、淡々と答えた。

「私はただ、ご主人様の命に従い、行動しているだけです」

「そうか。やはり、人形は人形なのだな。だが、ドルイドの信仰や力が弱まった今、神族に何が出来るというのだ」

 嘲笑うかのように、青年は女へと尋ねる。対する女は無言のまま青年を見据えている。

「まあいい。貴様一人が動いたところで、どうにもなるまい。だが、あまり邪魔をされても目障りだ」

 青年はそう言うと、レイピアを抜刀し、女へと向けて大きく踏み込んだ。

 女はすぐに動きに反応し、レイピアによる刺突を右に飛んで避けると、指を鳴らした。

「……仕方ありませんね」

 女の右手を黒い靄のようなモノが包みこみ、細長い棒状のものが形成されていく。

 それはやがて、一つの武器を具現化させた。身の丈ほどある長い棒の先に取り付けられた、三日月を思わせるかのような湾曲した刃。魂を刈り取る死神を連想させるかのような武器、大鎌サイスである。

 女は大鎌を構えると、青年の身体を両断すべく横に薙ぎ払った。だが、青年も黙ってはおらず、レイピアのヒルトの部分で女の攻撃を弾き、後ろへと跳躍した。

(人形とはいえ、想像以上に手強い。私も力を得ていない以上、無傷では済まないな。それにしても、神族が手を打ってくるとは……。これは、一度報告のために退いた方が良いか。攻めあぐねているビブリオも気になるが、仕方ない!)

 青年は女を見据えたまま、少しずつ後ずさっていく。そして、女の前に黒い霧のようなものを発生させた。

「く……、逃がしません」

 女は追おうとするが、霧が晴れた時には青年の姿はその場から忽然と消えていた。

 辺りを見渡して気配を探ろうとするが、何も無い。部屋の中にはいくつもの死体が転がっているだけだ。

「…………」

 討ち漏らしたにも関わらず、女は特に後悔しているような様子は無かった。

 此処にはもう用が無い。そう判断した女は、その砦を後にした。



 幾度となくぶつかり合う剣と剣。一体どれだけ打ち合ったのだろうか。そのようなことを考えつつ、レオンハルトは敵への攻撃を休めずに続けている。

 敵は魔術師でありながらも、優れた剣士でもあった。魔術師は普通、白兵戦慣れしていない者が多いのだが、この男の場合は例外のようだ。

 お互いの攻撃がぶつかり合い、同時に二人はバックステップで距離を取った。

(何だろうか、さっきから感じるプレッシャーは)

 気のせいなのだろうか。先日より感じていた嫌な予感は、この男から発せられているものだ。

(いや、考えるな。今は、ただ斃すことだけに集中せねば)

 自分に言い聞かせると、レオンハルトは地面を蹴って、二つの剣を横に薙いで攻撃を仕掛ける。魔術師の男はその攻撃にすぐに反応し、剣を前方に付きたてて横薙ぎを防いだ。

 それだけで攻撃は止まない。防御に回って敵が揺らいだところを、レオンハルトは追撃をかけた。X字を描くように、双剣を斜めに振るう。だが、男がその場で魔術を詠唱していたことを察知すると、すぐに攻撃を取りやめてその場から飛び退いた。

 レオンハルトが立っていた箇所から、火柱が上がった。先の戦いで、この男が多用していた《フレイムピラー》という術だ。

「ほほう、今の術を避けるか。面白い」

(このままではジリ貧になる。何とかして隙を突ければ……)

 レオンハルトは自分の身体に少しずつ疲労が溜まってきていることを実感していた。だが、彼は諦めずに攻撃を続けた。

 膂力ではこちらの方が勝っている。攻めるのは、相手が攻撃を弾いてバランスを崩したところだ。そう判断すると、レオンハルトは攻撃のひとつひとつに、強い力を込めて撃ちつけていった。

「おおおおおおおっ――!」

 喊声を上げて、剣を振るうレオンハルト。

(むう!? 捨て身で来たか?)

 男は一瞬戸惑いを見せるが、すぐにレオンハルトの攻撃の軌道を読み取り、剣で防御しようとした。だが――

「ぐっ!?」

 ビリビリと振動が腕を走り、男はバランスを崩してしまった。男はすぐに体勢を立て直そうとした。自分の実力ならば、バランスを崩した状況からでも防御することは出来る。そう思っていた。だが、レオンハルトの剣による追撃は来なかった。

 男は咄嗟に異変を察知したが遅かった。突如、視界を眩い光が覆ったのだ。光は暗闇で標となるが、それがあまりにも強い場合、一時的ではあるが視界を奪い去る。一瞬とはいえ光を直視してしまった男は、思わず動きを止めてしまった。

「これで、決めるッ――!」

 レオンハルトは、この決定的な隙を逃さなかった。男の動きが止まったところを狙い、懐へと飛び込む。そして、腹部にブロードソードを埋め込んだ。

 どうやら、鎧の類は着ていないらしい。容易く男の内部へと、剣を通すことに成功した。

 ぞぶり、と肉が裂けていく感覚が、直接手に伝わってくる。幾度となく多くの敵を殺めてきたが、やはり慣れない感覚だ。

 だが、これで終わりだ――

「クックック……」

「なっ!?」

 おかしい。今、確実に仕留めた筈だ。なのに、何故こいつは笑っていられるのか。

 レオンハルトはすぐに男から剣を引き抜くと、その場から飛び退いた。

「ハハハハハ、素晴らしい、素晴らしいぞ人間! このオレ様に傷をつけるとはなぁ!」

 男は高笑いすると、纏っていたローブを脱ぎ捨てた。

 レオンハルトはその姿を目の当たりにした。確かに、人の姿をしている。だが、その肌は青白く病的だ。それだけではない。人には無い筈の器官が、この男にはあるのだ。

 背中から生えた、蝙蝠のような一対の翼。頭から生えた、禍々しい形状の二本の角。それは、この男が人間とは違う、この世に存在する筈のないものであることを証明していた。

「魔物……」

 いや、違う。これはそのようなモノとは、一線を画す存在だ。自分の勘違いであれば良かったと思っていたが、どうやら嫌な予感が的中したようだ。

「魔物だと? あんな下等な奴らと一緒にしてんじゃねえよ、クソが!」

 剣を突き刺された場所を擦りながら、その異形はレオンハルトを睨みつけた。

 先程までの、静かな雰囲気は何処へと行ってしまったのだろうか。異形の男はまるで気でもふれてしまったかのような、残忍な笑みを浮かべている。むしろ、こちらが彼の本性なのかもしれない。

「まあ、いいさ。このオレ様に傷をつけるような奴なんだ! こっちも本気でいかねえとなぁ!」

 異形はそう言うと、持っていた剣を投げ捨てた。それと同時に、両手の爪が鈍い輝きを放ち、有り得ない速度で伸びたのだ。

「どうしたどうした!? さっきまでの勢いは何処行ったんだぁ?」

 男は今までとは比べ物にならないスピードで、レオンハルトへと飛びかかった。何が起きたのか、レオンハルトは未だ理解できずにいた。すぐに武器を構え直すも、判断が遅れてしまう。その遅れは、男がレオンハルトに一撃を与えるのには充分すぎるものであった。

「うぐっ――」

 走る鈍い痛み。いなしきれなかった爪が、レオンハルトの首筋を掠ったのだ。急所は外したものの、彼の首筋に赤い線を描いていた。

(速い……。これは、俺に斃せるのか?)

 レオンハルトの表情に焦りが見え隠れし始める。ほぼ互角に戦ってきた相手が、本気を出してきたのだ。それだけならまだしも、魔物とは一線を画す異形が、こうして今目の前にいて、自分を殺そうとしている。それだけで、彼の精神力は削り取られていった。

 今までは攻撃に回れていたレオンハルトだが、男が本気を出してから、防戦一方となっていた。それも防ぐだけではなく、男の爪は少しずつではあるが、レオンハルトの身体に傷をつけている。

「ハッハァ! なんだなんだ、人間ってのはやっぱりその程度なのかよ!」

 急所に迫ってきた爪を何とか回避し、男と距離を取るレオンハルト。

(何者なんだ、こいつは)

 息を荒げながら、レオンハルトは男を見据えた。

「オレ様が何なのか、知りたいみたいだなぁ! いいさ、教えてやるよ! どうせ、此処で死ぬんだからなぁ! ハッハァ!」

 レオンハルトの心を見透かしたかのように、異形の男は歪んだ笑みを浮かべる。

「オレ様は魔族だよ、魔族!」

「魔族……だと……?」

 莫迦な。そんな筈は無い。何故、そんなモノが此処にいるのだろうか。

 レオンハルトは唖然とするも、すぐに平静を保とうと努める。かなり息が上がっているのが、自分でも解った。だが、此処で斃れるわけにはいかない。何としてでも、あの者を仕留めなければならない。詮索はいつだって出来る。

 そのように言い聞かせて、レオンハルトは二振りのブロードソードを構えると、異形の男へと向けて突貫しようとした。

 だが――

「うっ……!」

 がくん、と自分の身体が崩れ落ちそうになった。

 おかしい。何故、力が入らないのだろうか。全身が痺れるようだ。

「これもついでだから教えてやる。オレ様の二つ名は、毒爪のビブリオ。オレ様がさっきからテメエの身体に、毒をくれてやったのさ」

(く……このままでは……)

 必死に動かそうとするも、身体が思うように動かなかった。

 せめて、一撃でも与えなければ――

「お前達の目的が……何なのかはわからない……。だが、ここで……見逃すわけには……ぐああああああッ――!?」

 レオンハルトが男へと斬りかかろうとしたところを、ビブリオと名乗った男は右手の爪を真っ直ぐと突き立てた。

 鋭利な爪は彼の鎖帷子を貫通しており、背中へと突き抜けていた。ビブリオはニヤリと笑みを浮かべると、爪を引き抜いた。

「がはぁッ! ぐ、うぅ……」

 最早、レオンハルトに立っているだけの力は残されていなかった。何度か血を吐きだすと、そのまま地面へと倒れてしまった。

「チッ、人間の分際でこのオレ様を手こずらせやがって! クソが!」

 レオンハルトの身体を蹴り飛ばすと、異形の男はその場から去ろうとした。

 しかし――

「まだネズミがいるようだな」

 ビブリオは何者かの気配を察知し、辺りを見渡した。

「今の状態で魔族相手に此処まで戦えれば、上出来ですね……」

 声の主は、ゆっくりとビブリオの後方から姿を現した。

 大鎌を携えた、銀髪の美女だ。その姿を見てビブリオは一瞬嫌悪感を露わにしたが、すぐに狂気じみた笑い声を上げて女を睨みつけた。

「フハ、フハハハハ、今日はついてんなぁ! 神サマとやらのオモチャをぶっ壊せるんだぜ!」

 新たな獲物を見つけた嬉しさのあまり、ビブリオは両手の爪を広げながら女へと襲い掛かった。しかし、女はまるで動じた様子も無く――

「身の程を知りなさい」

 いち早くビブリオの動きを察知していた女は、既に彼の後方へと回っていた。

 そして――

「ハハハハハ! おもしれえ、それでこそ壊し甲斐が……え? え?」

「先程の男と組んでいたとは聞いていましたが、口ほどにもないですね」

 次の瞬間、ビブリオの身体は縦真っ二つに引き裂かれた。

 仕留めたにも関わらず、女は更に意識を集中し、ビブリオに追撃をかけた。彼女が手を翳すと、二つに裂かれたビブリオの身体が、無数の光の粒子に飲まれていった。

「闇の者は消え去るべきなのです」

 やがて光が消えると、そこにはビブリオの死骸はなく、ただ彼が撒き散らした体液が飛散しているだけであった。

(まだ息があるようですね。やはり、過去に途絶えたと言われているダートのドルイドの血を引いているだけはあります)

 女は倒れているレオンハルトを見下ろした。

 かなりの傷を負っており、毒にも犯されているが、かすかに息をしているのに気付いた。だが、最早手遅れであるのは、誰が見ても明らかであった。

「何処の……どなたかは……解らないが…………」

 レオンハルトは軋む身体に鞭打ち、途切れ途切れではあるが、言葉を紡ぎ出す。その度に、緋色の泡が口からこぼれ出した。

「…………」

 女はレオンハルトの礼に対して、無言だった。

「厚かましい……のは……解って……いる……。頼み……たい……こと……が……」

 最期まで言い切れるかどうか解らなかった。だが、それでもレオンハルトは諦めずに口を開いた。

「コーネリアという……女性に会ったら……伝えて……ほしい……。すまない、と……」

 そこで、レオンハルトの意識は途絶えた。


「それは、貴方が直接伝えればいいだけのことです」

 動かなくなったレオンハルトを見下ろしながら、女は淡々とした口調で言った。

「ダートの民よ、貴方に使命を与えましょう」

 女はそう告げると、レオンハルトを抱えてその場を後にした。



 深淵へと落ちていく中で、レオンハルトは何者かの声を聞いていた。

「レオンハルト――」

 そのまま身をゆだねたくなるような、優しく包みこむかのような温かい女性の声だ。

 先程の戦いの様子が、鮮明に脳裏に再生される。そうだ、自分はあのバケモノに敗れて、斃れたのだ。ある美女によってそのバケモノは斃されたが、その時自分は既に虫の息だった。

 色々とやりたいことはあったが、もう自分は死んだのだ。此処は俗に言うあの世なのだろうか。

 死という概念がどのようなものかは解らなかったが、レオンハルトはそう思った。

「レオン、あなたはまだこちらへ来てはいけません」

 女の声が再び響き渡る。やはり温かい感じではあるが、それはレオンハルトを歓迎する者ではなかった。

(あなたは? 何故、俺の名を……)

 何者かと尋ねようとしたが、声が出ない。

「生きなさい。そして、戦いなさい。来るべき災厄と――」

 その言葉と共に、全身に熱いものが流れ込んでくる。

 そして――


「う……」

 ゆっくりと目を開けると、そこには見知らぬ光景が広がっていた。

 何処かの宿だろうか。質素だが最低限の調度品が揃っており、レオンハルトは簡素な寝台に仰向けになっていた。

(此処は? 一体、どうなってるんだ?)

 おかしい。自分は確かに死んだ筈だ。だが、全身に圧し掛かる鉛のような重さと、軋むような痛みは紛れもない現実のものだった。

 状況が解らない。色々と知りたいことはあったが、とにかくこの場を離れなければ。レオンハルトはそう判断し、起き上がろうとした。だが、激痛が全身を襲い、思うように身体が動かない。そのため、立ち上がるまでには至らず、上体を起こすだけに留まった。

「気付きましたか。ですが、まだ安静にしていなさい」

 凛とした、というよりも氷のような冷たさを孕んだ女の声が聞こえてくる。レオンハルトがゆっくりと顔を上げると、そこにはついさっき、バケモノを一刀両断にした美女が立っていた。

 腰まで伸ばされた美麗な銀髪に、柘榴石を思わせるかのような濃い赤色の双眸、そして、透き通るかのような白い肌。

 その肢体を包むものは豊満な胸と緩やかな曲線を描く腰の周りだけという、煽情的な出で立ちではあるが、娼婦のような下品さや低俗さ、淫靡さはまったく感じられない。むしろ、その露出が彼女の美しい肌を強調しており、伝統工芸の職人でも造りだせないような、繊細で神秘的な雰囲気を醸し出している。

「あなたは……。先程は、助かりました。改めて感謝いたします」

 レオンハルトは思わず女性に見惚れそうになるが、すぐに平静を保ち、胸の前に手を置いて感謝の意を示した。

「私はただ、使命に従ったまで。礼を言われる覚えはありません」

「は、はあ……」

 冷え切っている、というよりも何か大切なモノが欠落してしまっているかのような様子が、女の声からは感じられる。

「レオンハルト」

 一呼吸置いて、美女はレオンハルトの名を呼んだ。

 レオンハルトは妙な違和感を覚えた。何故、この女は自分の名を知っているのだろうか。そこまで名は知られていないし、自分の身分を証明するようなものは持ち歩いていない。

「何故、俺の名を?」

 感謝の意はあったが、次にレオンハルトは女に対する警戒心を抱いた。

 薄れゆく意識の中で彼女の戦いぶりを見たが、ただ者ではないことは明らかだ。敵ではないだろうが、信用していい相手かどうかは解らない。

「警戒しているようですね。無理もないですが」

 まるでレオンハルトの心の内を見透かすように、美女が答える。相変わらず、冷たく突き刺さるような声だ。柘榴石の双眸もまた、睨んでいるわけではないものの突き刺さるような何かを感じる。

「私としては無駄を省きたいのですが、今後のためゼロから話す必要がありそうですね」

「お手数かけます」

「何を畏れているのかは解りませんが、私は貴方と敵対する気はありません。貴方が普段、友人や仲間に接するように、私に接すればいいのです」

 やはり、ただ者ではない。レオンハルトはそう実感した。

 事実、この美女を目の前にした時から、彼は畏怖にも似た感情を覚えていた。だが、敵対する気がないというのは事実らしい。尤も、完全に信用したわけではないのだが、もし敵対しているのならば、既にあのサイスで首を刎ねられていてもおかしくはないのだ。

「そうですね、まずは名前から名乗っておきましょう。私はフレーナと申します。私にとって名前などは記号に過ぎませんが、今後のことを考えると、名乗らずにいるのも何かと不便ですから」

「フレーナ――」

 まるで赤子が言葉を覚えるかのように、レオンハルトは女――フレーナの名を口にした。

 美しい響きではあるが、フレーナの声に抑揚がないために、やはり冷たい印象がある。

「フレーナ、君はいったい何者なんだ」

 何処かぎこちないが、フレーナに言われた通り、親しい仲との言葉遣いで尋ねるレオンハルト。

「あなたは気付いていますか? この世の至る所で災厄が起きていることを。私はその災厄を滅すべく、遣わされたのです」

 曖昧ではあるが、心当たりはあった。

 異形との戦い。その際に、レオンハルトは自分の内に妙な違和感を覚えていた。それは単なる勘に過ぎないと思っていたのだが、先程の相手を見るとそれだけで済ませられるものではないであろう。

「恐らくは、あなたに流れるドルイドの血が知らせているでしょう。来るべき脅威への警鐘を」

(先程の妙な違和感は、ドルイドの力によるものだったのか? だが、信じられない……)

 どうなのだろうか。ドルイドが凋落し、俗世間との関わりを絶ってから、かなりの年月が経過しているという。そんな落ちぶれていった存在にそのような力があるものなのだろうか。

「現在、ドルイドの力は弱まり、信仰も廃れきっています。ですが、彼らがどのようなことをしてきたかは知っているでしょう?」

「ああ。ケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクト。これらの部族が世界で争いや災厄が起きぬように監視し、ある時は剣を手に取ったと」

 これはドルイドでなくとも、神学の講義において習う分野だ。信仰は廃れているとはいえ、国に携わる者や神学者は知識のひとつとして、学校や教会で叩きこまれるのだ。

「そして、現在多くの戦いが至る所で起きているのも、ドルイドの信仰が廃れたためと……」

 レオンハルトは過去に習ったことを、出来る限り忠実に言葉にした。

「俺は物心ついた時から、ドルイドの里ではなく外の世界にいたんだ。そして、士官学校に通い剣を振るっていた。だから、彼らが実際どのような役目を負っていたのか、どのような文化を築いているかといったことは解らない」

「そうですね、大方その通りです――」

 今日では、ドルイドが如何なる存在かを詳しく知る者は少ない。だが、フレーナが言うには神に近しい存在であったのだという。

「まさか、俺が剣を交えた異形も、ドルイドの力が弱まったことに関係が?」

 これは推測にすぎない。そもそも、ドルイドに力があるかどうか、レオンハルトはよく解っていなかった。だが――

「そうですね。では、その弱まった原因についてお話しましょう」

 その神に近しいドルイド達を統べる存在がそれぞれの里に点在し、来るべき脅威との戦いに備えているらしい。だが、人間達が私利私欲のために争いごとを起こし始めてから、ドルイド達は外界との関わりを絶ったという。

 そして、ドルイド達の信仰の対象とも言える彼らを統べるという存在も、現在は深い眠りへとつき封印されている。その結果、世界の守護者とも言われる者の力が弱まっていったのだ。

(卵が先か、鶏が先か……)

 レオンハルトは腕を組みながら、静かにフレーナの話を聞いていた。

 己の出生のことも気になったが、現在の世界の状況を彼は憂えていた。戦争により多くの街が焼かれ、人々が殺されていくという世の中を。

「あの異形は、魔族と呼ばれる存在です」

 魔族。その存在は、文献に載るだけに留まっている。かつて人々を脅かしていたという、異形の者達。その者達は、数千年前に異界へと封じられたと云われている。

 今日では、英雄譚や寝物語などで語られる程度のものとなっており、それが伝説上のものにしか過ぎないと考えている者の方が多い。

 フレーナの話によると、その魔族達もドルイド達によって封じられていたのだという。だが、その力が弱まったことにより、魔族達がこの世界に姿を現し始めているらしい。先程剣を交えた相手も、その魔族の一人だという。

「貴方には、やっていただくことがあります」

 フレーナの視線が、僅かに鋭くなる。突き刺さるかのような彼女の視線に、レオンハルトは思わず息を飲んだ。

「各地のドルイドの里へと赴なさい。そして、来るべき災厄、魔族と戦うのです」

「俺が……」

 途方もない話である。神々、魔族、ドルイド。レオンハルトにとっては、どれもが未知の存在だ。そのような存在と関わるとなると、どのようなことが待ちうけているか解らない。

「何故、俺なんだ?」

 あまり乗り気ではない、というのが本音だ。

「それは未だ語るべきことではありません。現状では、貴方がそれに値する最も相応しい存在であるということだけ言っておきましょう」

 どのような思惑があるのだろうか。不快感はないが、何処かしらレオンハルトは心の中に引っ掛かるような何かを感じていた。

「断る、と言ったら?」

 レオンハルトは試しに探りを入れてみた。だが、女はそんな彼の言葉を予測していたかのように答える。

「現状を維持し成す術もないまま魔族に蹂躙されるか、少しでも抗い争いのない世の中を築き上げる。どちらを選ぶかは、貴方の選択次第です」

「世界が危機に瀕しているというのは解る。でも、俺にはやるべきことがあるんだ」

 自分には他にやるべきことがある。国へと戻り、色々と報告をしなければならない。

 それだけではない。親しかった者に顔を合わせなければならないだろう。色々と心配されているのは、想像に容易い。

「それも含め、貴方の役割です。見たこと聞いたことを周りの者に知らせることも」

 それは、個人の都合を理解しての答えではないのだろう。だが、強要をしていないあたり、フレーナの優しさのようなものが垣間見られた。

(俺に出来るのだろうか?)

 不安だった。そもそも、自分がそれに値するような器なのか、レオンハルトは未だ理解できずにいた。

「如何なる時も私がサポートするので、心配することはありません。私はそのために遣わされたのですから」

「…………」

 彼女が信用にたる人物――いや、恐らくは人ではないのだろうが――なのかは解らない。

 だが、何もせずにいても事態は進展しないであろう。

「俺に何が出来るかが解らない。でも、やれるだけのことはやってみよう」

 多少の恐怖や不安はあったが、レオンハルトはそう決心した。

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