第16話 燻る戦火
その日、ラスティート北部の山岳地帯は大雨に見舞われていた。分厚い雲からは絶え間なく雨粒が降り注ぎ、傾斜には小規模な水の流れが作り出されている。時折雷鳴が鳴り響き、雨音も相まって不安定な大陸中原の趨勢を物語っているかのようだ。
此処のところ、動きが急速すぎるのが気になる。先の戦いもそうだが、果たして世界は何処へと進もうとしているのか。彼女は一抹の不安を抱きながら、空を見上げた。
(本当に、どうしたものかしらね……)
ラスティート王国は四方を国に囲まれた内陸国だ。中原の六大国とは三方向で国境を接しており、東はクファラ国、南はシュトルムラント王国、西はミネラリス共和国と名だたる列強諸国に囲まれている。しかし、現状は三方向からは攻め込まれる不安要素がない。シュトルムラントは内乱の鎮圧を続け、新興国であるミネラリスは経済発展のために領土内の国土開発に当たっている。国境の鉱山の権利を巡って小競り合いを続けていたクファラも厭戦状態にあるためか、沈黙を保ったままだ。故に、群雄割拠の中にある中原諸国でも、ラスティートは比較的安定しているのが現状だ。
不安定なのは、北方の小国家群だ。ラスティートはいくつかの国とは同盟を結んでいる。それは、国境こそ接してはいないが、小国家群を超えた先にある大陸最大の勢力、フェルムジア帝国との関係についてである。直接戦闘になったことはないが、周囲の小国家を激しい勢いで飲み込み、今もなお勢力を拡大しつつあるのだ。そう遠くない未来に、同じく中原東部の大国ツォン大帝国と大きな戦争が始まるのではないかとも言われている。
激しい雨が降りしきる中、二人の将が小規模な部隊を率いて、山道を行軍している。
一人は齢七十といったところか。顔には皺が目立ち、獅子の鬣のように生えた髪は白く染まっている。しかし、眼光は肉食獣のそれに近く、年老いた弱さを感じさせぬ歴戦の老将といった出で立ちである。板金により補強されたチェインメイルに身を包んでおり、身の丈ほどのハルバードを担いでいるが、まるで疲れた様子を見せていない。
老将の名はグスタフ・ヴェーク。クリークス公国が誇る歴戦の将だ。若い頃は傭兵として各地を渡り歩いていたが、一国に落ち着いてからは隣接する小国家群と幾度となく戦い、多くの将の首を刈り取ってきた実力者である。
もう一人は若い娘だ。初夏の木々の葉を思わせるかのような鮮やかな緑色の髪に、南方の海を思わせるかのような青い瞳。年齢は二十代前半といったところだろうか。将として一軍を率いるには若すぎる年齢だが、彼女の場合は不思議と様になっている。比較的軽装とはいえ鎧を纏っていること、そして、背中に担がれた両手剣を見る限り、形だけの者では無いことは明らかだ。
若い娘の名は、コーネリア・アルトレーヴェ。ラスティート王国の武家の名門アルトレーヴェ家の令嬢である。女性でありながらも武芸に通じ、士官学校時代には屈強な男相手でも圧倒するほどの剣技を見せ、領内の上級の魔物との戦いにおいて数々の功績を残している。
部隊の規模はそれほど大きいものではなく、二百名程だ。彼らが向かっているのは、ラスティート王国の北にある小国家のひとつ、クリークス公国である。ラスティートとクリークスは同盟関係にあったが、先日クリークスが同盟を破棄し、辺境都市のフェルゼスに攻め寄せてきた。その背景には、魔族の存在があったのだが、調査のためにコーネリアがクリークスへと赴くこととなったのだ。投降してきたグスタフはその案内人、そして協力者として同行している。
初め、魔族の名を聞いた時には戸惑いを隠せなかった。しかし、グスタフの報告や、コーネリア自身が身を持って体験した先日の戦いから、どうやら嘘ではないらしい。
(レオン……)
別の任を与えられ、ドルイドの里へと赴いた幼馴染が気掛かりだ。先の戦いでも、味方を逃がすために自分が犠牲になろうとして、命に関わるような傷を負っていた。
(何なんのよ。何であなたはいつも、そうやって……)
こちらの想いにまるで気付かない奴だ。普段は仲間思いで気配りの出来る奴なのに、何故――
(と、いけない。今は自分の任に集中しないと)
愚痴を溢しそうになったところで、コーネリアは気合いを入れ直した。
今から自分が向かっているのは、魔族が関わっていたとはいえ、一戦を交えた敵国である。此処でグスタフが牙を剥いてくるということも想定しなければならない。調査の他にも、気をつけなければならないことはいくらでもあるのだ。
「やれやれ、山の天気は崩れやすいと言うが……」
警戒するコーネリアに気付いていないのか、グスタフは忌々しそうに空を見上げた。見たところ敵対するような素振りは無いようだ。
下手に警戒し過ぎても任務に支障が出るか。そう判断したコーネリアは、適度に緊張を解いて、グスタフに調子を合せることにした。
「随分と降っていますよね。行軍に支障が出なければ良いですが」
「うむ。ならず者や魔物への警戒もせねばな。彼奴等はこのような時を好んで行動する」
王都を経ち、フェルゼスを経由してから、特に戦闘は起きていない。ラスティート領土内では各都市の領主が積極的に魔物の討伐の部隊を駆り出しており、流石に正規の軍に対して手を出そうと思うほどならず者達も愚かではないようだ。
しかし、都市を大きく離れれば話は変わってくる。警備が行き届かないために魔物が跋扈しており、実力のある山賊ともなればこのような辺鄙な場所にひとつの勢力を築き上げる。彼らは下手な自警団よりも戦力が高い故、一度戦いにもなれば手を焼くことも珍しくないことなのだ。事実、郊外や国境付近の魔物やならず者の討伐では、殉職する兵士が少なからず存在する。
「やはり、治安も乱れているのですか?」
「うむ。魔族が蔓延る少し前からだろうか。我が国に限らず小国家群の情勢は乱れつつあってな、王族や貴族が暗殺されることも珍しいことではなかったのだ。幸い我がクリークスで暗殺事件などは無かったが、それでも盗賊共が街に襲いかかったり、同盟中の国が突如牙を剥いてきたりしたこともあった。その時は、戦乱の世故に致し方の無きことと思うてはいたが……」
何処か悔しそうな表情を浮かべるグスタフ。自分はあまりにも魔族については疎かった。無論、魔族は多くの者にとっては伝説上の存在となっているため、それは仕方のないことだ。しかし、それらしき予兆はあったため、事前に気付いていればもう少し被害を減らせたのかもしれない。
だが、それでも今は後悔している時ではない。多くの者に情報を提供する必要があるためだ。
「ある時だった。クリークス宮廷内で、一部の貴族達が反旗を翻した。初めは権力に目が眩んだ愚か者が血迷ったのかと思ったが、彼奴等の背後には見たことが無い異形の者達が控えておった」
「それが魔族ですか?」
「うむ。魔族だけではない。獣人や不死生物などの忌むべき存在も、反乱を起こした貴族共に与していた。どのような術で手懐けたのかは解らぬが」
グスタフは部隊を率いて反乱の鎮圧に当たろうとしたのだが、あまりにも突然の出来事であったこと、そして相手が未知の存在であった故に思うように戦うことができず、散り散りになって敗走したという。現在は反旗を翻した貴族がクリークス公国を支配しているらしい。
もしそれが事実なら、国境を越えてからは気を引き締めなければならないだろう。いつ敵が襲い掛かってくるかは解らない。
「陛下にはお逃げ頂いたが……」
無事であるという確証はない。もし捕らえられれば、無事では済まないだろう。
今回の任務は、クリークス国内の調査の他にも、反乱の際に逃げたクリークス大公の捜索も含まれていることを、コーネリアはすぐに悟った。
「無事ですよ、きっと」
最悪の事態も想定しなければならない。下手に希望を持っていては、突きとされた時の衝撃は大きいものとなる。しかし、それでも気休めにしかならないのは解っていたが、思わずそう言っていた。
「ほほほ、なかなか優しいお嬢だの」
「い、いえ別に私は」
今まで優しいと言われたことはなかったため、思わず戸惑うコーネリア。
「ふむ、こんなに良い娘がいるというに、お主のところの隊長殿は……。嘆かわしいことよ」
「な、ななななな、いきなり何を」
何故、それ程面識があるわけではないのに、レオンハルトのことを知っているのだろうか。
ちらりと後ろを見ると、コーネリアの直属の部下二人が、口元を押さえて笑いをこらえていた。ああ、こいつらか。恐らく、グスタフは出立前に彼らの普段の会話を聞いていたのだろう。
「テッド、ジョン」
静かに、かつ優しそうな笑顔を浮かべて、コーネリアは二人に言った。
「な、何でしょうか姐さん」
「後で来るように」
「は、はひっ!?」
そこには底知れぬ怒気が潜んでいることを、二人はすぐに悟った。
「あっ、見苦しいところを申し訳ありません」
顔を赤く染めながらも、コーネリアは平静を取り戻し、グスタフに一礼した。
「やれやれ、お主は気負い過ぎだな」
言って、肩を竦めるグスタフ。特に今のやり取りで気を悪くした様子はなく、むしろ微笑ましく思っているようだ。獅子のような顔立ちに、僅かながらも綻びができる。
「勿論、ある程度の緊張は必要。だが、肩肘を張り過ぎていては、いざという時にすぐに動けぬからな」
「はあ……」
間もなく、部隊は関所に差し掛かろうとしていた。辺境都市フェルゼスから、二週間程の距離の場所である。フェルゼス北部の砦に転送用の方陣が作られているため、許可を得た者ならば利用可能な故、実質的には一週間程しかかかっていない。
余談だが、転移系の魔術は便利そうに見えるが、実際はそうではない。術者が見たことの無い場所には原則として転移先として指定できず、妨害もされやすいという欠点がある。また、魔術の作りが非常に難解なため、詠唱できる者は限られてくる。軍事国の要職に関わる者には、《テレポート》の術を封じた呪符が支給されることがあるのだが、有事の際以外で使われるようなことはない。
それはさておき――
気が付くと、少し先に横に大きく伸びた建造物が見えてきた。ラスティートとクリークスを結ぶ関所である。関所の周辺には、生々しい戦いの爪跡が遺されていた。幾人もの腐敗し始めた遺体のほか、折れた剣や矢、砕けた盾や鎧が散乱している。どれもが、クリークス軍のものだ。やはり、彼らの背後に何者かがついていたのは間違いないといえよう。
「儂の部下の情報によると、反乱を起こした貴族の一人が関所を守っていたのだが、彼もまた殺害されていたという。魔術には詳しくないが、関所内の兵は氷の術で倒されていたらしいのう」
なるほど、それならば国境付近の守りがお粗末なのも納得できる。反乱があったとはいえ、未だこちらの状況も掴めていないのだろう。
「このまま関所内の調査をしますか?」
「そうだな。何かしら新たに解ることがあるやもしれん。この雨の中の行軍で疲労している者もおろう。雨を凌げる場所も欲しい」
「しかし、未だ敵が潜んでいるという可能性もありますね。此処は情報魔術に長けた斥候を――」
相手がこちらの情報を掴んでいないという保証はない。もし待ち伏せされていたとしたら、関所の中に入った途端に一網打尽にされるという可能性もある。
空が眩い光を放つと、轟音と共に一筋の稲光が周囲の山に向けて落ちた。雨脚は依然として弱まる様子がない。
「大丈夫です。その必要はありません」
轟雷と雨音により気づくのが遅れたが、一人の青年が近づいてきた。
「何者!?」
コーネリアは思わず背中の両手剣に手をかけたが、すぐにグスタフに制された。どうやら敵ではないらしい。
現れたのは若い男だ。年齢は二十代中盤あたりだろうか。金糸のような髪をオールバックにしており、その身には厚手のローブを纏っている。ローブの胸元には、クリークス王国の紋章が刻まれているのが解る。
「おお、アロイス! 無事だったか!」
「はい。少数ですが何とか部隊を再編しつつ、撤退することが出来ました」
「それは良かった。儂も調査のために、クリークスへと戻るところだ。ラスティートとは既に話をつけておる」
生き残っていた仲間がいたことが嬉しいのか、グスタフは満面の笑みを浮かべる。
「私はラスティート王国将軍ラグナス・ブラウン麾下で副隊長を務める、コーネリア・アルトレーヴェと申します。此度の調査の任務に同行させて頂いております。今ほど剣に手をかけたご無礼、どうかお許しを」
胸の前に手を置き、コーネリアはアロイスに一礼した。
「いえ、お気になさらずに。このような情勢なのですから無理もありません。ああ、申し訳ありません、紹介がまだでしたね。私の名はアロイス・ホルン。クリークス公国将軍グスタフ・ヴェーク麾下で、部隊長を務めております」
物腰柔らかな青年だなとコーネリアは思った。武器を持っていないあたり、恐らくは魔術を専門としているのだろう。
「此処で立ち話をしているのも難ですし、先ずは関所の施設へと入りましょう。皆さんも豪雨の中の行軍でお疲れでしょう。大したもてなしは出来ませんが、どうか心身を休めてください」
「うむ。そうして貰えると助かる」
「ご厚情、痛み入ります」
如何に屈強な兵を連れていようと、疲労していては実力のすべてを出すことは出来ない。アロイスの厚意に礼を言うと、コーネリアとグスタフは彼に続いていった。
関所に入ると、そこは物々しい雰囲気に包まれていた。アロイスの話によると、彼らも関所に到着してから間もないのだという。関所の内部はともかく、周辺で遺体の処理などが進んでいないのはそのためだ。それを初めとする事後処理に追われており、彼方此方で声が上がっている。
連れてきた兵を休ませるとは言え、これではあまり落ち着かないのではないかとグスタフは思ったが、あまり贅沢を言っていられる状況でないことを、自分自身がよく解っていた。
三人は簡素な会議室へと通され、早速打ち合わせを始めた。アロイスには休むように言われたが、部隊を率いる身として、また情報を掴んでいる身として何とでも情報の交換をしなければならなかった。
アロイス曰く、反乱が起きたのは事実のようだ。彼もまたグスタフと共に鎮圧に当たったらしいが、力及ばずに敗退したらしい。しかし、彼の口から思わぬ朗報が知らされる。
「……ライン陛下はご無事です」
「何と、それは真か?」
グスタフは思わず立ち上がり、声を上げた。
「はい、間違いありません。私は陛下の命で、この場にいるのですから」
「説明して貰おうか」
アロイスの報告によると、散り散りになって敗走する際にクリークス大公を保護したのだという。現在は誰にも知られないように隠れているという。そこで、大公より直接命を受けて、情報収集や偵察も兼ねて今に至っているのだという。
大公自身も、自分が可能な範囲で情報を集めているらしい。彼の周囲には生き残った精鋭が揃っていることから、隠れている場所が特定されない限りは安心できるようだ。それでも、見つかるのは時間の問題であろう。あまり悠長にしている時間はなさそうだ。
「今のところ、反乱を起こした貴族達は特に動いている様子はありません。ですが、首都では横暴に振舞っているとの情報もあります」
「民を虐げているのか……。なんと愚かな」
「ですが、大公がご存命のため、我々にはまだ希望があります。機が整い次第、首都の奪還をするつもりです」
尤も、そこに至るまでは長い道のりが待っているだろう。魔族の存在も裏にいることを考えると、決して容易に出来るようなことではない。このような時、レオンハルトだったらどうするだろうか。黙して二人の話を聞きながら、コーネリアは自問自答した。
そう。彼ならやるだろう。例え、それが命令から外れるようなことであったとしても――
「私も協力させていただけますか?」
正直、政治が絡んでくるとなれば自分の出る幕ではないと思っている。今回の任務も、調査と大公の捜索がメインであって国の中のゴタゴタに介入をするようには言い伝えられていない。
「ご助力頂けるなら、是非お願いいたします。反乱の他にも魔物達の動きもあるため、正直なところ、我々だけでは手を焼いているのです」
「儂からも頼む」
言って、グスタフとアロイスは立ち上がると、コーネリアに頭を下げた。
「頭を上げてください。このコーネリア・アルトレーヴェ、及ばずながらもお力になれればと思っております」




