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セフィール・サーガ  作者: 秋乃麒麟
第2章 秘境にて祈る監視者達
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第13話 弱き者の歪んだ愛


 気が付いたら、薄暗い部屋の中にいた。高い位置にある小窓に、鉄格子の扉。ひび割れた石の壁に囲まれており、湿ったような不快な臭いが嗅覚を刺激する。そこが牢であることに気付くのに時間は要さなかった。

 シアはゆっくりと身体を起こそうとしたが、思うように動かなかった。手足には枷が嵌められており、その先には鉄製の鎖とかなりの重量を持つ錘が繋がれている。どうやら、監禁されてしまっているらしい。つい少し前にあった出来事を思い出すと、何故自分がこのような状況にあるのかを察するのは容易かった。

(お兄様……何で……?)

 自分を愛してくれているのは良い。あまり兄のことを責めたくはないのだが、何故あそこまで露骨にレオンハルトを嫌うのかが理解できない。だが、今は一先ずこの状況を何とかしなければならない。いつまでもこの場にいても、自分の身が危ういだけだ。

 身体が鉛のように重い。リューイによる呪歌の影響がまだ抜けきっていないようだ。だが、それでも戦闘に支障が出るほどではない。まずは此処から抜け出さなければならない。そのためにも、手足の枷を何とかしなければならない。

「やあ、気付いたみたいだね、僕の可愛いシア」

 牢の向こう側には、ライアーを持った一人の青年が立っていた。だが、そこにいるのは自分の知っている兄の姿ではない。優しそうな笑みを浮かべているようには見える。だが、釣り上った口元と、まるで手懐けた獣を見下すかのような視線は、シアにとって明らかに異質なモノに見えた。

 リューイは鍵を開けると、ゆっくりと牢屋の中に入ってきた。だが、シアはリューイから距離を取ろうと後ずさっていた。それは、得体の知れぬ存在に対する恐怖に近いものであったのかもしれない。

「何を怯えているんだいシア。此処には怖がるものなんて何も無いよ」

「やめて……お兄様……。来ないで……」

 リューイから逃げ出そうとするも、枷と錘により動きを封じられている以上、その場から殆んど動くことは出来なかった。リューイは逃げることが出来ないシアにゆっくりと近づき、彼女の顎を指で持ち上げた。

「お兄様……。なんでこんなこと……」

「そんなの決まっているじゃないか。僕はシアのことを想っているんだ。もう何処にも逃がさない。神の御使いという得体の知れない存在に課せられた運命になんか従わなくて良い。ドルイドとしての役目を負わなくても良い。大丈夫、僕がシアを幸せにして挙げられるんだ」

「でも、なんでレオンのこと」

「レオン? ああ、あの男のことか。シアは勘違いしている。あの男はシアと命運を共にするような存在じゃない。シアを誑かす悪い人だ。本当はあそこで殺しておくべきだったけど、僕はシアを悲しませたくないからね……」

 シアは背筋にぞくりとするものを感じ取った。自分を愛している兄の顔がすぐ近くにある。だが、それが怖い。彼女の第六感が、リューイの中で渦巻くどす黒い感情を知らせていた。

 何とかして隙を窺わなければ。シアはゆっくりと兄の出方を見据えた。相手は自分が何もできないと思って油断している。隙を突くならばそこだ。鍵は相手の手中にあるが、奪えないことは無い。手足を封じられてはいるが、口で咥えれば外すことは容易い。幸いなことに、鍵はそれ程複雑な作りをしていないためだ。だが、上手くいく確率は高くない。だからこそ、シアは無力で抵抗できない様を取り繕った。全ては相手を油断させるためだ。

 このまま相手に身をゆだねた方が安全なのかもしれない。それでもシアが抵抗しようとしないのは、密かに第三の瞳による未来視の力で、リューイが自分に良からぬことをしようとしていたことを察知したためだ。自分を気にかけてくれているのは良いのだが、どうも少し前から兄の様子がおかしいのは明らかだった。

「どうしたんだいシア……」

 気遣っているように言いながらも、リューイは歪んだ笑みを浮かべたままだ。もう片方の手を、シアの身体に伸ばそうとしてくる。やるなら今しかない。

「ほら、僕が……ぐふっ!」

 シアはリューイの顔面に目掛けて、渾身の頭突きをかました。突然の不意打ちにリューイは反応することが出来ず、強打を受けて蹲ってしまう。それと同時に、彼の手元から鍵が手放され、乾いた音と共に石畳の上に投げ出される。シアはすかさず鍵が投げ出された方向に身を乗り出し、何とか口でそれを咥える。

 シアの突然の行動に、リューイは戸惑っていた。当たりが悪かったのか、未だ顔面を抑えて動けずにいる。その隙は、シアが枷と錘を外すのには充分過ぎた。彼女はすぐに自らの拘束を取ると、蹲っているリューイには目もくれず牢から逃げ出した。

「ぐっ……、シア、何で僕に……こんなことを……」

 リューイは解らなかった。何故、あんなに怯えていたのだろう。何故、こんなにまでシアを愛しているのに、このような仕打ちをされなければならないのだろう。このままではシアがまた自分の傍を離れて行ってしまう。とにかく、彼女を追わなければならない。

 体力に於いて、また魔力に於いてもシアには及ばないことは解っていた。尤も、今の自分ならば問題は無い。リューイは懐からどす黒い靄を帯びた何かを取りだした。一見、ただの水晶のように見える。この手の道具は魔術師が装備していることが珍しくないため、そのような装身具の類に思える。しかし、これは違う。リューイがレオンハルト達を退けた際に使った魔術。それは、この道具によるものだ。

「ふっ、無様なものだな。結局は逃げられてしまったか」

 事の一部始終を見守っていたのか、その場の空間からアンブルが現れる。

「黙れ……。これもあの男が悪いんだ。シアが僕を拒絶するなんて有り得ない!」

 ようやく痛みが引いてきた。リューイは髪を掻き上げ、ライアーを拾うと、よろめきながら立ち上がった。

「追うのは構わない。だが、忠告しておこう。その『クリフォトの輝石』は闇に属さぬ者が使い続けると、何れは己の崩壊を招く」

「知ったことか。僕は……」

 シアを愛している。それだけだ。

(果たしてどうだろうな。この男の内に眠る感情、あのシアという娘に向けられているのは愛情だけではあるまい)

 リューイの事情など知ったことではない。アンブル自身、今回はこれ以上の戦果を望んではいなかった。自身の目的は、神の御使いを消し去ること、そしてセフィールに存在する十の柱を支配することだ。だが、相手の力が想像以上に強かったため、一度退いたのだ。

 最早、アンブルにとってリューイに付き合うことは、ただの余興に過ぎなかった。

「まあ、好きにするがいい。今のお前ならば、あの娘を捕らえることも容易いだろう」

 アンブルは、ぶつぶつと何かを呟きながら牢を出ていくリューイを一瞥し、呟いた。リューイには聞こえていないようだが、特に気にした様子は無い。イェソドを落とせなかった以上、アンブルにとってイェソドは用済みでもあった。だからと言って、殺す必要もない。それすらの価値が無いほどの存在だった。

 逆に、興味があるのは妹であるシアという娘の方だ。エルフの娘と二刀を扱う青年も同様であるが、この者たちからはただならぬ力を感じる。

(……いや、未だ機は訪れていない。暫くは泳がせておくか)

 まだ動く時ではない。そう判断したアンブルは、その場から文字通り消えるかのように去って行った。


 自分が捕らえられていたのは、森の一角にある打ち捨てられた砦のようだ。最近利用された痕跡があるのは、あのゴルガンというならず者達が根城としていたためであろう。

 普段愛用している武器はすぐ近くの部屋に保管してあった。勿論、見つからなければ周囲に落ちている剣や槍などを使うつもりだった。だが、使い慣れていない武器の場合、普段の実力を発揮できないことの方が多い。使い慣れたジャマダハルと投擲用の短剣(ダーク)が捨てられずにいたのは、幸いだったと言えよう。尤も、見つけることが出来たのはシアの運がよかっただけではない。自身の持つ第三の瞳のお陰である。

 自分の出自と種族に幾度か絶望したことはあった。イヴルアイという種族に生まれただけで、狩りの対象となっていたためだ。しかし、今はイヴルアイの第三の瞳による能力が、シアが安全に砦から脱出するための助けとなっている。

 それでも、完全に危険回避が出来ているわけではない。人の気配がほぼ無くなったこの砦には、魔物達が入り込んできていた。脱出の経路には、三匹のオーク達が棍棒を掲げて徘徊している。

 無駄な戦闘は避けたかったが、そうはいかない。だが、相手はこちらの接近には気付いていないようだ。ならば、奇襲をかけて一気に駆け抜けた方が良い。

 シアは三本のダークを取り出すと、徘徊しているオーク目掛けて投擲した。三本のうち一本は外れたが、二本はそれぞれ別のオークの喉元を捕らえていた。気色悪い呻き声を上げて二匹のオークはその場に崩れ落ちた。

 残る一匹のオークはようやくシアによる襲撃に気付くが、それも遅かった。シアはオークとの間合いを一気に詰めると、両手にジャマダハルを構え、舞うような動作でオークの身体を切りつけていく。一撃は軽く致命傷には至らないものの、次々と繰り出されていく白刃に対し、オークは反撃することが出来なかった。

 白刃の描いた軌跡をなぞるかのように、生臭い血飛沫が上がっていく。それはシアの身体を汚すが、彼女は気にせずにオークへの攻撃を緩めていない。そして、オークがよろめいたところに、とどめの一撃と言わんばかりに、喉元目掛けてジャマダハルの刃を突き刺す。ずぶり、という音と共に刃が埋められた。オークの力が抜けてもたれかかってきたが、シアはすかさず蹴りを入れて弾き飛ばし、ジャマダハルを抜いた。

 オークが完全に絶命したのを確認すると、シアは再び出口に向けて走り出した。

 道中では、様々な魔物が襲いかかってきたが、シアはそれらを斃し、あるいはやり過ごし進んでいった。順調に進めているようにも思える。だが、自分の状態が未だ完全ではなく、体力も回復しきらないまま逃げているため、徐々に疲労が溜まっているのが解った。

 気がかりなこともあった。イェソドに危機が訪れていたことを察知していたため、無事であるか否か、不安であった。もし、里が滅びるようなことがあれば、自分はどうすればいいのだろう。それだけではない。レオンハルト達の動向だ。もし、里に何かがあって、それに巻き込まれているとしたら――

(駄目……そんなの……)

 シアは第三の目で動向を探ろうとしたが、今の彼女にはそれが落ち着いて出来るだけの気力は無かった。出来るのは、自分が無事にこの場から逃げること――いや、それすらも確実であるとは言えない。リューイの不意を突いて逃げてきたが、あまりもたついているとすぐに追いつかれてしまうだろう。

 ようやく出口へと辿り着く。だが、そこに待っていたのは優しい木漏れ日でもなければ、新鮮な森の空気でもなかった。シアを待ち受けていたのは、ほんの数メートル先をも覆い隠すかのような濃霧だった。

 元々、魔力や精霊の力の関係でドルイドの集落の周辺は天候などが不安定なことは珍しいことではない。また、この辺りの地形はシアにとっては自分の庭のようなものでもあった。迷うようなことは無いのだが――

「お兄様……」

 濃霧から感じる魔力。それは自然のものではなく、兄リューイのものだ。イェソドの里を出る前までは共に暮らしていたのだから解る。しかし、不可解な事があった。リューイは妨害系の術にこそ長けるが、それ程優れた術師ではない。先日の濃霧の時よりも、遥かに高密度の魔力が周囲に満ちているのだ。一体、これ程の力をいつ身につけたのだろうか。

 早くこの場を離れなければ。シアは強い焦りを覚えた。だが、視界を覆う白い濃霧は、優れた方向感覚を持つ彼女をも惑わした。そして、焦りというものは時にその者のあらゆる力を大いに鈍らせる。シアは地面から突き出ている木の根に気付くのが遅れ、それに足を取られて転倒してしまった。

 咄嗟に手を突くこともできなかったため、シアの身体は地面へと投げ出された。鈍い痛みと土の味に、思わず顔を歪める。起き上がろうとするも、足に根が絡まっており、思うように動くことができない。その間に、自分を目掛けて嫌な気配が周囲に満ち始める。此処で、シアは自分が敵の術中にはめられたことに気付く。しかし、今の彼女には状況を打破するだけの力は残されていなかった。

「駄目……このままじゃ……」

 シアは手足に嫌な感触を覚えた。つい先程、枷によって拘束されていた時の重さではない。ぬめるような何かが、自身の手足をしめつけているかのような感触だ。振りほどこうとするも、白一色の世界に覆われている故に自分の状況すら見えず、結局は無駄な抵抗でしかなかった。解るのは、自分が異形に捕らえられたということだけだ。

 その間にも、「異形」はシアの身体をゆっくりと蹂躙していった。痛みは無いが、ただ強い不快感と恐怖感が彼女を支配していた。得体の知れない何かが、自分を捕らえて何かをしている。それだけではない。遠くから――いや、本当は近くだったのかもしれない。耳障りなライアーの旋律が流れてくる。それは、兄が自分を捕らえようと迫ってきていることを示していた。

 霧がゆっくりと晴れていく。それまで白一色に覆われていた視界が開けていく。失われていた方向感覚も戻ってきた。やはり何かの魔術的な力の一種だったのか、シアは砦の出口から然程離れていない場所にいることに気付く。だが、それと同時に自身が置かれている状況も目の当たりにすることとなった。

 シアの手足はいくつもの蔓のようなものに拘束されており、空中で固定されていた。恐怖心に煽られて辺りを見渡すと、その蔓のようなものはおぞましい存在から伸びているのが解った。元々は周囲に生えている植物だったのだろう。だが、それは今やこの世のものとは思えないほどの異様な存在へと変質していた。

 ライアーの旋律と共に、リューイがゆっくりと近づいてくるのも確認できた。姿形は確かに兄のモノだ。だが、普段の彼とは違う、どす黒くおぞましい何かを、シアは感じ取っていた。

「ふふっ、シア。この僕から逃げるなんて、いけない子だね……」

 一体、彼の何処からこれ程の力が湧いてくるのだろうか。

「お兄様、何のつもり?」

 恐怖心を抑えながら、シアは尋ねる。

「ふふっ、さっきも言っただろ? シアと一緒にいたいからだよ。怖がることはない、さっきの霧も、この力も、全部僕のものさ。僕は以前よりも強い力を手に入れた。だから、この力でシアを守ることができる……。誰もシアを傷つけはさせない」

 そう言うと、リューイはシアに向けて右手を翳した。彼が何をしようとしたのか、シアはすぐに気付くが、手足を拘束されている以上、どうすることもできなかった。

「シアを傷つけてもいいのは、僕だけだよ!!」

 今までの不気味ではあるが穏やかであった様子は何処に消えたのか、リューイは双眸を見開いて、吠えるかのように叫んだ。それと同時に、彼の周辺でいくつもの水の球が形成されていく。

 そして、水の球はいくつもの弾丸となって、次々とシアに向けて放たれた。シアは避けることすら敵わず、全ての弾丸をその身で受けてしまう。

「ぁぐぅっ! っぁぁぁ……あああっ……ぅぅ……」

 衝撃により蔓から解放されるも、シアは受け身すら取れずに、地面に投げ出された。その際の衝撃も、彼女の柔肌に痛々しい傷をつけていく。痛みに耐えながらも、ふらつきながら何とか立ち上がり、ジッとリューイを見据える。彼女は、無意識のうちに武器を構えていた。兄と戦いたくないのは事実だが、そのようなことを言っていられるような場合ではないためだ。ほぼ本能的な行動だったのかもしれない。

 しかし、それを敵対行動と取るわけでもなく、リューイは特に気にした様子は無かった。ただ、自分の目的のためにシアを捕らえる。それが今の彼の全てであった。いや、違う。捕らえるだけでは気が済まない。自分のモノにしたい。自分のモノにするためには、それを証明するための何かをしなければならない。

「ふふ、ごめんよシア。でも、シアが悪いんだ。初めからシアが逃げなければ、今みたいに痛い目に遭わなかったんだ……」

「お兄様……?」

 どうしたのだろうか。ただでさえ様子がおかしいリューイなのだが、それがさらに助長されている。シアは武器を構えたまま、ジッとリューイの動きを窺った。

「そうだ。シアが僕のモノであるということを、証明しなければ……」

 時間にしてゼロコンマといったところだろうか。リューイが何かを唱えると、周囲の木々や地面から無数の蔓や根がシアに向けて伸ばされた。疲労が溜まっていた彼女にそれを回避する術は無く、再び拘束されてしまう。

「逃げられはしないよ。此処はもう、僕の領域だから」

 言うと、リューイは懐から一振りの短剣を取り出した。リューイが何をしようとしているのか、予想はついた。穏やかな笑みの裏には、どす黒く歪んだ感情が渦巻いている。リューイが自分を痛めつけようとしていることを。

「ふふふ……。シア、可愛い声を聞かせてくれ!」



 時はシアが目覚めるより前のこと。レオンハルト達は、イェソドの神殿の客間に集まっていた。短期間であまりにも多くのことが起きた。すぐにでも行動に移るべきではあるが、まずは情報を整理する必要性があった。

 魔族が里を襲撃してきたことについては、比較的早く収拾がついた。絶対とは言えないが、当分の間の危険は無いという。獣人達を率いていたアンブルという青年についても、第三の目による未来視では、襲ってくることは無いらしい。

 また、幸いなことにドルイド側に死者が出ていないことだ。戦闘員に多くの怪我人は出たが、レオンハルトを初めとする治癒系の支援魔術が使えるものが手分けして手当てにあたったため、全員がすぐに動けるようになった。動けるようになった者達は、すぐに周囲の見回りの仕事へと戻っていった。

 だが、もうひとつの問題は一向に解決していない。むしろ、今の彼らにとっては、里の危機で会った魔族の襲撃よりも、深刻ともいえる事態であった。シアが浚われたこと。それも、ドルイドの一人であり、彼女の兄であるリューイによってだ。それは、その場にいる者たちにとって、非常に受け入れがたい現実であった。

「やはり、リューイが動いていたか」

 イェソドの長、ノウェム・ジブリエリア・イェソドは腕を組みながら、天井を見つめた。

「申し訳ありません。全ては私の落ち度です。謝ってすむようなことではありませんが」

 レオンハルトはただ頭を下げるだけであった。自分が付いていながら、シアを守ることができなかった。使命に従うのであれば、彼女と運命を共にする必要がある。だが、想定外のことが起きたとはいえ、力が及ばずにシアを浚われてしまったのだ。

 あの場で声をかけて、途中で連れ戻すべきだったのかもしれない。そうすれば、今のような事態は免れただろう。ただ後悔の念だけが、レオンハルトの内で燻っている。

「いえ、レオンハルトさんの責任ではありません。リューイがおかしな行動を見せていたことには薄々気付いていたのですが、親として子を疑うことはしたくなかった……。そのまま泳がせていた結果です」

 私が甘すぎた。そう言って、ノウェムは深いため息をついた。

「ロイド、君にもすまないと思っている」

「いえ……」

 リューイの不可解な行動について、第三の目による予見だけではなく、ノウェムは度々ロイドからの報告を受けていたらしい。しかし、やはり親として子供を疑うことは出来なかったようだ。親が子を信じようとする気持ちは、たとえ世界の監視者という使命を背負っているドルイドと云えど、存在しているのだ。

「シア……。折角、仲良くなれたのに」

 知りあって間もないが、親しくなれた相手が浚われてしまったのだ。リーゼロッテは寂しそうに、仲間の名を呟いた。気を落ち着けるために香茶を一口飲むが、まったく効果がない。良質な茶葉の味を嗜む余裕もなかった。

「リーズ、すまない」

 シアがドルイドとしての使命だけではなく、世界のために戦っていくという使命までも背負わされていることについても、ノウェムは親としてつらい思いをしているに違いない。そう思うと、その場にいた者達は居た堪れない気持ちになった。ただ一人、神の御使いを名乗るフレーナを除いては。

 尤も、フレーナにとっても、シアをこのままにしておこうとは思ってはおらず、必ずや救い出さなければと考えている。しかし、それは親子や仲間だからといった感情ではない。ただ、世界のためにシアが必要だからといった理由からだ。この場の沈んだ雰囲気の中で、その言葉を口にしないあたり、フレーナなりに空気を読んでいるのかもしれない。

「このまま嘆いているわけにはいかないか」

 まだ迷いはあるのだろう。ノウェムは一度深呼吸をしてから椅子から立ち上がると、レオンハルトに向けて深々と頭を下げた。

「どうか、シアのことを救っていただけませんか? 里を救っていただいてばかりで申し訳ないのですが、私はしきたりによってこの場を離れるわけにはいかないのです」

 動きたくても動けない。それが、ドルイドの族長という立場なのだろう。凋落の道を辿り、世間では信仰が廃れ、嘲笑の的となってはいる。だが、人々が思っている以上に彼らは過酷な使命を背負って生きているのだ。

 ノウェムの心中を察したレオンハルトは立ち上がると、口を開いた。当然、答えは決まっている。

「勿論、そのつもりです。必ずシアさんを救って見せます」

「有難うございます。ビジョンで確認しましたが、シアは未だ無事のようです。ですが、リューイが何か彼女に仕出かそうとしていることは間違いありません。命までは奪わないとは思いますが……。また、リューイも何かしら手を打っているでしょう。お気をつけて」


 それから、出立の準備はすぐに行われた。出向くこととなったのは、レオンハルト、フレーナ、リーゼロッテの他に、自警団長であるロイドの四人だ。各自は己の装備を整えると、里の入口に集合した。疲労はまだ完全に回復しておらず、慌ただしい出立ではあったが、あまり悠長にしている時間は無いためだ。

 行軍は、白兵戦に長けたレオンハルトと白兵戦・魔術共に長けたフレーナが前衛を務め、後方には飛行能力を持ちバランスよく戦えるロイドと魔術を主力に使うリーゼロッテという陣形が取られた。それぞれの間には、ある程度の距離が取られている。戦闘の際に、味方を巻き込まないようにするためだ。

 既に夜は明けつつあり、辺りは白んできている。だが、森の中のためかやはり視界は良くない。一行は周囲の警戒を怠らずに、しかし迅速に道なき道を進んでいった。シアの居場所は、ノウェムの第三の瞳による能力と、レオンハルトの情報魔術により、大まかではあるが掴めていた。故に、行軍は順調に進んでいるかのように思えた。

「レオンハルト」

 不意に、フレーナがレオンハルトに声をかける。いつも通り、何かが欠落してしまったかのような冷たい雰囲気を孕んだ声だ。しかし、このような行軍の途中でフレーナ自身から声を発するようなことは殆んど無かった。

 珍しいこともあるものだ。そう思いながら、レオンハルトはフレーナの方を見た。今、この場で彼女を仕留めれば、自分は過酷な運命を背負わされずに済むかもしれない。いつものように、敵国と戦いそこの将と斬り結ぶ日々が戻ってくる。そして、オフの日には剣の稽古に励んだ後に、まったりとアフタヌーンティーを楽しむ。そんな日常だ。

 だが、レオンハルトにフレーナを斬ることなど出来なかった。戦争で多くの人間の生を奪ってきた身だが、やはり良心はある。それに、今ここでフレーナを斬り殺したところで、戦力が減り、今やるべきことに支障を来すだけだ。共に行動しているリーゼロッテとロイドにも、いらぬ不信感を与えることになる。

 いや、それ以前に――

(駄目だ。下手に手を出せるような相手ではない)

 レオンハルトの中で何かが警鐘を鳴らす。彼の手が剣の柄を握ることさえ許さなかった。

 そう。このフレーナという女性は一見無防備に見えるが、まるで隙が無いのだ。長年、戦いの中に身を置いてきた者なら感じ取るであろう感覚。それだけではなく、一種の気高い存在に対して抱く畏怖のような感情を、レオンハルトは覚える。間違いなく、人間や亜人などとは一線を画す存在だ。どちらかというと、魔族――未だ出会った者は限られているが――それに近しい、いや、それ以上に恐るべき何かをフレーナは持っている。

「な、何だフレーナ」

「前にも言ったはずです。私を畏れる必要は無いと」

 フレーナは双眸を鋭くしてレオンハルトを一瞥した。まるで、彼の心を見透かすかのように。

 恐らくは、自分が一瞬考えたことは、フレーナに読まれているだろう。それでも咎められないのが、より恐怖心を煽る。

「この後、貴方はシアの兄――リューイといいましたか。あの者と剣を交えることになるでしょう。ですが、いらぬ情は捨てることです」

「…………」

 解ってはいる。しかし、果たして実行に移すことができるのだろうか。

「自覚なさい。運命を受け入れた以上、最早貴方の身は貴方だけのものではないのです」

 そう言うと、フレーナはちらりと後方を見た。リーゼロッテとロイドがついてきているかを確認したのだろう。問題は無いようで、少し距離を置いたところで、二人が何やら談笑しながらついてきているのを確認することができた。

「貴方と運命を共にするのは、シアだけではありません。そうですね。あのエルフの娘……リーゼロッテもまた、貴方と同じ役目を追う者です」

「それは」

 口を挟もうにも言葉が続かなかった。何処まで、自分達はこのフレーナに運命を握られているのだろうか。

「リーゼロッテだけではありません。これから、貴方は同じ運命を背負った者達と出会うことになります」

 それは、前日にシアと話していた内容と通じるものがあった。彼女も確かに、自分達と同じ運命を背負う者がいて、これからその者達と出会うといったことを。そして、それは自分の身近な人物であるということを。

 仲間がいるという安心感はある。だが、それ以上に不安の方が強い。そして、このフレーナという女性に対する畏怖や不信感といった感情も。

「未だ話す時期ではありませんが、何も知らぬというのも今後の旅に支障が出ますからね。ですが、まずは今やるべきことを片付けましょう。その後にお話しします。」

 フレーナは右手を振り翳した。すると、彼女の手にはいつの間にか身の丈ほどのサイズが握られていた。ちなみに、これは空間を操作する魔術を応用化したものだ。勿論、簡単に使えるような代物ではない。

 フレーナだけではない。レオンハルトも二振りのブロードソードを抜刀し、辺りを警戒した。二人の後方では、リーゼロッテとロイドも、各々の武器を構えて辺りの様子を窺っている。

 辺りには、先程よりも濃い霧が立ち込めていた。故に、一行はこうした警戒行動を取ったのだ。イェソドの里を訪れる際も、パーティが分断されるという事態に陥ったが、今はこうして落ち着いて対応することが出来ている。

「……同じ手は通用しません」

 フレーナは意識を集中し、魔術の詠唱を開始した。自分達を包む濃霧が、魔術によるものだとすぐに看破したのだ。術が完成すると、濃霧は一瞬にして消え去った。狭まっていた視界が広がりっていく。

《ディスペルマジック》――特定の範囲内にかけられている魔力を打ち消す魔術だ。基礎的な術に見えるが、それぞれの魔力の構造を解析し、それに見合った術式を組まなければならないために、意外に難解な術である。

 視界が開けると同時に、そこには異様な光景が広がっていた。一言で表すならば、おぞましいという表現が相応しいであろう。その光景に思わず声を上げたのは、ロイドだった。

「おかしい。私達の領域に、このような植物は存在しない筈」

 この一帯は、ドルイドであるロイドにとっては、謂わば自分の庭のようなものだ。自警団として働いているために行動範囲も広く、集落周辺の地理は勿論、領域内に住む動植物や魔物についても把握しているつもりだった。

 いや、ロイドでなくとも、その異様さを感じることは容易かった。明らかにこの世界に存在するようなものとは異なるモノが、そこには当たり前のように存在しているのだ。周囲の木々の様子を見れば、それは明らかだ。それまでにあった常緑の高木ではなく、黒味を帯びた赤や紫の、ぬめりを帯びた蔓状のものがひしめいている。

「これって植物というより」

 リーゼロッテは試しに、弱めの術を手頃な場所に遭った蔓に向けて放った。手元から迸った紫電の矢が蔓に当たると、蔓の数本が消し飛び、その場の空間が陽炎のように僅かに歪んだ。

「何かの魔物なのかな?」

「ですが、集落の周辺でこのような魔物は見たことがありません」

「二人とも気をつけろ!」

 何かの気配を察知したレオンハルトは、リーゼロッテとロイドに呼び掛ける。二人はすぐに反応すると、その場から飛び退いた。すると、彼らの立っていた場所に、蔓状のものがうねりながら、襲いかかってきたのだ。行き場を失った蔓――いや、触手と言った方がいいかもしれない――は地面に当たり、その場を何かで抉ったかのような跡をつけた。

 幻影のようなものと認識していたが、どうやら違うらしい。あの触手状のものは、明らかに質量を持っている。当然、当たれば少なからずダメージを受けるだろう。

 行き場を失った触手に対し、レオンハルトが二振りの剣を掲げて斬りかかった。舞うような動作で、触手に刃を埋め込む。手ごたえ有りだ。刃を受けた触手は細切れになり、湿った音と共に地面に崩れ落ちる。

 だが――

「レオンハルトさん!」

 ロイドが叫びながら、術を詠唱した。触手の切断面から、まるで何事も無かったかのように新たな触手が伸び始めたためだ。新たに伸びた触手は、レオンハルトを捕らえようとしたところで、ロイドが放った無数の石の弾丸により弾き飛ばされた。しかし、触手は弾き飛ばされたのちも堪えた様子は無く、ビクンビクンと脈動しながら、破壊された箇所を再生し、次なる得物を狙わんとしなるような動きを見せている。

「すみません、俺としたことが」

「いえ。ですが、これではキリがありませんね」

 リーゼロッテは、魔術による殲滅を試みていた。確かに、斬撃よりも大きな効果は得ており、火や電撃によって焼き尽くされた物は、なかなか再生しないようだ。だが、大がかりな術には詠唱時間を必要とするため、その隙すらなく思うような効果を得られずにいる。

「……随分と小賢しい真似をしますね」

 忌々しげな表情を見せていると思いきや、フレーナは落ち着いていた。決定打こそ与えていないものの、無駄のない動きで触手の攻撃を往なしている。

「どういうこと?」

「これは闇に属する者の力です。周囲の生物を変質させ、私達に襲わせているのでしょう」

「じゃあどうすれば」

「貴方達は、何も考えずに敵を弱めることに集中しなさい。機を見て、私が術を打ち破ります」

 何かしら考えがあるのだろう。今はフレーナに従うしかない。そう判断すると、三人はフレーナを囲うかのような陣形を取り、襲いかかる触手に対して備えた。

 触手には意思があるのか、フレーナを捕らえようと攻撃を仕掛けてきた。しかし、そこにレオンハルトとロイドが割って入り、剣の切っ先で受け流していく。往なしきれなかった触手には、リーゼロッテが放った風の魔術が炸裂し、その勢いを大きく削いでいった。

 触手の猛攻はそれからも続いたが、三人は落ち着いてそれに対応していった。十分程経過してからだろうか、手数に押し負けたのか、触手の攻撃は徐々に緩んでいった。それと同時に、辺りの空間が大きく歪み始めている。

(やはり……。『魔界クリフォト』の力が一時的とはいえ具現化していますか)

 触手の猛攻が緩んだ隙をフレーナは見逃さなかった。彼女はある一点をジッと見据えると、そこにゆっくりと手を翳した。彼女には解っていた。無数の触手の中に、原動となっている魔力の塊が存在することを。

 意識を集中すること数秒、フレーナの手から次々と光弾が放たれる。光弾は不規則な軌道を描きながら、狙いを済ました場所を目掛けて飛んでいく。

「滅しなさい」

 光弾がある一点を捉えると、辺り一帯が眩い光に包まれた。突然の出来事に、フレーナを除く三人は思わず目を覆った。光はフレーナが捉えた一点から溢れ出ていた。まるでそこに綻びがあるかのように、幾度も周囲の空間が、まるで眩暈を起こしたかのように乱れ始める。

 そして――、何かが爆ぜるような音が響くと同時に、光の洪水は治まった。

「これは一体……」

 何が起きたのか理解できなかった。レオンハルトが周囲を見渡すと、先程まで蠢いていた触手は見られず、鬱蒼と茂る木々ばかりが目に入ってくる。

「何があったのでしょうか。此処は、私達の領域のようですが」

 ロイドもまた、不思議そうに周囲を見回している。視覚だけの情報ではない。長年この場で暮らしてきたからこそ解る、イェソドの領域の空気。それは紛れもない現実のものであった。

「この辺りにかけられていた闇の者の力を解除しました。ですが、これからも同じようなことが起きるでしょう」

 フレーナを見ると、少しばかり疲労しているのが窺えた。大きな支障はないだろうが、少しばかり呼吸が乱れているのを、レオンハルトは見逃さなかった。

「大丈夫か、フレーナ」

 レオンハルトが心配そうに声をかけるが、フレーナは依然として冷めた態度で応じる。

「問題ありません。先を急ぎましょう。シアが闇の者の手に堕ちぬうちに」

「……解った。だが、無理はしないでくれ」

 あまり時間に余裕はないだろう。今やるべきことを再認識すると、一行は再び目的の場所へと向けて進もうとした。ただ一人、リーゼロッテを除いては。

 フレーナが周囲の触手を一掃してから、リーゼロッテは黙したまま何かを考えていたのだ。

(今のは禁忌魔術のひとつ、《ディスインテグレーション》――ううん、違う。魔術なんて範疇に入りきるものじゃない。本当に、このフレーナって人、何者なんだろう)

 本当に解せない。自分が外の世界をあまり知らないというのもあるが、魔族やドルイドについては、幼いころから文献で学んできた。それは、何れ国の要職に就く身としては、身につけなければならないことのためだ。

 本当に必要な知識なのかは解らない。確かに、ある程度の神学や世界情勢については学ばなければならないだろう。そのように、父ルドルフには教えられてきた。だが、世界の根幹に関わるようなことになれば、如何に要職に就く身でも知っている者の方が少ない。自分もそうだ。

 改めて、リーゼロッテは自分に与えられた仕事を顧みた。

(レオンハルト、そしてフレーナの監視。あたしは何も知らされないまま、この任務に就いている。お父様は一体何を考えているんだろう)

 だが、このフレーナという女性は謎が多すぎる。ドルイド達の反応を見る限りは、少なくとも今のところは害を成す存在ではないのだろう。だが、彼らも彼女のことを理解していないと捉えることも出来る。

(ううん。あたしは今はやるべきことをやるだけ。その辺りのことになると、あたしの知識じゃどうにもならない……。今のこともお父様に報告しないと)

「……リーズ、リーズ!!」

「ひゃっ!?」

 突然、肩に圧迫感を覚え、思わず声を上げてしまう。

「どうしたリーズ、何処か怪我をしているのか?」

 レオンハルトが心配そうに、リーゼロッテを見つめていた。どうやら、長い間我を忘れて考え事をしていたらしい。

「あっ、ごめんレオン。あたしは大丈夫。ちょっと、考え事をしてた」

「ならば良いんだが……。これから戦いは避けられないだろうから、あまり気を抜かないようにしてくれ」

 気取られてはいない。リーゼロッテは深い嘆息を漏らし、胸を撫で下ろした。

 しかし、その一方で彼女は心の奥底で葛藤に悩まされていた。



 それは遠くない過去のことだった。

「シア様の武芸は凄いですね。このイェソドの里でも敵う者は、そういないでしょう」

「流石シア様ですね。やはり、次期族長として期待されているだけはあります」

「シア様、これからお出かけですか?」

「あ、シア様だ! こんにちは!」

 集落を出歩くと、いつも傍らにいる妹が声をかけられる。彼女が生まれるまでは、声をかけられるのは自分だった。しかし、彼女が生まれてからは違った。

 ドルイドに産まれたと者の宿命として、武芸や様々な知識に精通する必要があった。自分はあまり要領の良い方ではなく、なかなか頭角を現すことができなかった。それどころか、戦闘についてはただ周りに後れを取るばかりだった。

 本来、ドルイドの族長は世襲制ではない。実力のある者が、その座に就く。だが、それはあくまでも名目上のものであって、族長の家系に生まれた者は、その座を継ぐのが恒例である。それは、ドルイドの血を薄めないための措置だ。故に、近親婚を繰り返すことが多いのだが、そのためしばしば短命で病弱な子が生まれてしまうこともある。

 正直、自分にはそれだけの実力が無いのではと思うこともあった。それでも、族長の息子として産まれて、次期族長の座に就くため、日々努力をしてきたつもりだった。だが、シアはその全てを追い越していった。シアは武芸の他にも、イヴルアイとしての能力も、自分――いや、イヴルアイという種族の中でも、特に優れた力を発揮した。そして、ある時彼女は口にした。ドルイドの中でも薄れつつあった、魔族という脅威が近い未来に訪れるということを。それは、自分ではなく、シアが次期族長として期待されるということも示していた。そして、最早自分は期待もされていないということを――

 それでも、妹のことは愛していた。妬ましく思うことはあっても、出来のいい妹がいることは、兄として鼻が高かった。

 だからこそ、許せなくもあった。そんな妹が、今度は族長ではなく、魔族と戦う者としての運命を背負わされたということ。こんなことがあってはならない。何故、自分を置いてそんなに遠くに行ってしまうのか。

 そうだ。だったら自分のものにしてしまえばいい。そうすれば、シアは遠くに行くことは無い。ずっと、自分の近くにいる。それならば――


***


「はぁ……はぁ……」

 何度、あのナイフが自分の肌を傷つけたのだろうか――

 シアの衣服はズタボロに引き裂かれており、美しくも病的な白い柔肌には、幾筋もの赤色の線が刻まれている。どれもが浅い――それこそ、何かを彫刻している時や、料理をしている時に誤って傷つけてしまう程度の傷だ。致命傷とは程遠い、生きているうちには誰もが負うであろう、その程度の傷。

 ひとつひとつは然したるものではない。戦士として生きていく上で、傷を負わないということは有り得ない。だが、今はこうして動きを拘束された上で、じわりじわりと自分の身体が刻まれている。いつ刃が自分を傷つけるのかという恐怖感もある。だからこその苦痛であった。

「やめ……て……お兄様……」

 目に大粒の涙を浮かべながら、シアは掠れた声で懇願した。だが、その様子を彼女の兄であるリューイは嘲笑するわけでもなく、憐憫するわけでもなく、ただ優しげな微笑みを浮かべながら見つめている。

 リューイは笑みを絶やさずに、短剣をシアの細腕に這わせた。既に幾筋もの傷がつけられていたが、その上をなぞるかのように、再び赤い線が刻まれていく。まるで、白磁の器に模様を描くかのように。

「ぁぐっ、んあぅ!」

 鈍い痛みに、びくん、と身体を反らせるシア。だが、暴れようとしたところで無駄であった。彼女の四肢は、ぬめりを帯びた触手により拘束されており、抵抗も出来ないまま宙に吊られた状態であるためだ。

「ふふ、可愛いよシア。良い声で鳴くね。シアは僕のものだ……。ドルイドの役目や、魔族と戦っていくという過酷な運命も無い。僕と一緒にいることで、シアは幸せになれるんだ。ああ、可愛いシア。僕が君を救ってあげるよ」

 優しげな笑みのまま、リューイはシアへの歪んだ愛を説きながら、彼女の柔肌に何度も短剣の切っ先を這わせた。

「なんで……こんなこと……するの……」

「なんでって? それは僕がシアのことを大切に思っているからだよ……」

 リューイがこのような行動を取るのには、理由があった。尤も、常人からすれば理解しがたい感情ではあるのだが――自分がシアに傷をつけ、彼女を自分の思うままにすることで、彼女が自分のものであるということを自己認識しているのだ。

 狂っている。確かにそうかもしれない。だが、今の彼には、シアが全てであった。だから、当の本人が問うたところで、無駄であった。彼は自分の行いを正しいと思ってやっているのだ。

「助けて……レオン……」

 今のシアには抵抗する力さえ残されていなかった。息を荒げ、大粒の涙を流しながら、シアは知らず知らずのうちに、自分と同じ運命を背負った者――レオンハルトの名を口にして、助けを求めていた。

「レオン……だと?」

 レオンハルトの名を聞くと、リューイの表情はそれまでの優しげな笑みとは一転し、何処か狂気に満ちた狂った笑みへと変貌した。笑みだけではない。そこには、怒りや憎しみといった鬱屈した感情も表れている。いや、元々内に眠っていた感情が表に出たというべきであろうか。

「ふざけるなぁぁぁぁぁ!」

 次の瞬間、リューイはシアの腹部に強い蹴りを入れた。それまでに無かった突然の衝撃と、ナイフで刻まれた時よりも激しい痛みに、思わずシアは喘ぐ。

「はぐっ、あぅぅっ、かはっ……」

 息つく間も与えずに、リューイは短剣をシアの身体に突き立てた。しかし、それまでは肌の上を這わせていたのに対し、今回は確実に皮膚を引き裂くほどの深さまで刃が埋め込まれている。

「いぎぃっ、あっ、や、がっ……やめ……っ……」

 どれもわざと急所を外している。だが、より強い痛みがシアを襲う。苦痛に喘ぐシアの姿を見ても、リューイの表情は狂気に満ちた笑みを浮かべたままだ。何故だろうか。そこまでレオンハルトを毛嫌いする理由がわからない。

 いや、違う。今のリューイにとって、レオンハルトの名は単なる引き金に過ぎなかった。そう、今の行為こそ、リューイ自身が以前からシアに対して持っていた、鬱屈した感情だった。

「そうだ。シア。前から君のことが好きだった。それと同時に憎たらしかった」

「なん……で……ひっ、あっ、あああああああああっ――!」

 何故と言おうとしたところで、再び短剣が突き刺される。鋭い痛みに、苦痛の叫びをあげるシア。しかし、それを嘲笑うかのように、リューイはシアの顎を指で持ち上げた。

「何が次期族長候補だ。お前が生まれてから、僕はいつも惨めな日々を過ごしてきた。何をやっても、お前には何一つ敵わなかった」

 狂気に満ちた笑みの裏には、慟哭も見え隠れしていた。リューイの自分自身の頼りなさに対するものだ。あまりにもどす黒く歪んだ彼の感情に、シアは大きな恐怖心を抱く。ガタガタと身体を震わせ、虚ろな瞳でリューイを見上げる。一体、何が彼を此処まで変えてしまったのだろうか。事前に第三の眼の能力で見ていたのだが、兄が闇の者と関わっていたのは間違いない。何故、ドルイドの身でありながら、魔族と関わろうとしたのだろうか――

「お兄様……戻ってきて……」

 涙交じりに懇願するシア。昔の兄に戻ってほしいと訴える。

「戻る? 僕は昔のままだよ。昔から君が憎かったんだ……。解らないかい? 出来の良い妹を持って、初めは誇らしかった。でも、いつもチヤホヤされるのはシアだった。それが僕に惨めな思いをさせたんだ……。それでも、憎くても君のことは一人の肉親として愛していた。でも……シアはそんな僕の鬱屈した思いに気づくことなく過ごしてきた。僕がこれだけ憎んでいたのに、いつも優しく接してくれた……。それが、余計に僕を惨めにさせたんだよ!」

 抑揚のない声で、リューイは自身の思いをシアへとぶつけた。そして、それと同時に、何度も短剣でシアの身体をゆっくりと斬りつけていく。殺さぬよう、しかし相手が苦しむように、急所を外しながら、刃を埋め込んでいった。

 最早、自分を邪魔するものはいない。途中で別れた魔族のことが気がかりであったが、今の自分にとっては些末なことだ。全ては上手くいっている。シアを取り返そうとこちらに向かっている者達を、質量を持つ幻影の中で仕留めることが出来るはずだ。

「でも、シア。もう大丈夫だよ……。僕がたっぷりと可愛がってあげるから――」

 やっとシアを自分のものに出来る。

「無駄……。今の……お兄様じゃ……何も出来ない……」

 息も絶え絶えに、血塗れになりながらもシアはリューイに向けて呟く。

「何を」

 この期に及んで、未だ何かを言うのか。憤怒、憎悪、愛情、様々な感情の入り乱れた表情を浮かべ、リューイは血に塗れた短剣を大きく振りかざした。しかし、次の瞬間――

 ばちん、と何かが弾けるような衝撃が、リューイの脳内を襲った。その激痛に、思わず彼は頭を押さえこみ、苦痛で顔を歪めた。それは、自分の魔術が打ち破られたことを表していた。

「くそっ、僕の術を打ち破っただと!?」

《ディープミスト》を打ち破られるのは、ある程度は想定していた。だが、『クリフォトの輝石』による力を借り、周囲の植物を変質させた大がかりな儀式魔術を破られるとは思ってもいなかった。勿論、全力で術をかけたわけではない。本命となっているのは、今目の前にある、シアを拘束している無数のおぞましい触手である。

 それでも、解せなかった。今の自分には超越的な力が備わっているはずだ。何故だ。自分にはまだ力が足りないというのか。そんなことは許されない。力がなければ、シアを自分のモノにすることが出来ないではないか――

「そんなことが、そんなことがある筈ない!」

 だが、術が破られたのは事実であった。継続的に働く、儀式魔術のような大がかりな術を打ち破られると、その衝撃は術者へと跳ね返ってくるためだ。

 今のリューイは完全に動揺していた。冷静さがあれば、シアを抱えてこの場から撤退し、新たに術を組みなおすといったようなことも出来たであろう。しかし、自分が絶対的な優位にあると思い込んでいた故に、突然の出来事に対応できずにいた。

「くそっ、くそっ! どうすれば……。このままではシアを奪われてしまう……」

「随分と傲慢な考えをするのですね」

「誰だ!?」

 声の主を探そうとした時だった。何かが引きちぎれる音と共に、リューイの視界からシアの姿が消えた。リューイはすぐに対応しようとしたが、彼を中心に烈風が巻き起こり、そのまま身体に大きな衝撃波となって打ち付けた。受け身すら取れず、巻き上げられたリューイの身体は、転がるかのように地面に投げ出される。

 苦痛に顔を歪めながら、リューイは立ち上がった。服についた土埃を払い、周囲を見渡す。有り得ない。何故こんなことがるのか――

 少し離れたところには、四人の人影があった。レオンハルト、フレーナ、リーゼロッテ、ロイドの四人だ。それは、リューイの渾身の術が容易く打ち破られたということを、彼にとっての残酷な現実として、突きつけていた。

「酷い、こんなにズタズタに……」

 リーゼロッテは口元を抑えながら、シアの惨状を見て思ったままに呟いた。シアの身体には、無数の切り傷が刻まれており、そこから幾筋もの血液が流れ出ている。息も上がっており、意識も朦朧としている。致命傷は負ってはいないものの、酷く衰弱しており、このまま放置していては危険な状態だ。

 たった一人で助けを待ち続けたのだろう。怖かったに違いない。顔には涙の跡が残っており、今も時々ガタガタと震えているのが解る。レオンハルトは優しく彼女の身体を抱きかかえて、ゆっくりと地面に寝かせた。

「ああ。でも大丈夫、命に別状はない。すぐに治療しよう。しかし……」

 シアに治癒魔術をかける一方で、レオンハルトは憐れむような表情から一変し、強い警戒心を抱いた瞳で、ふらふらと近づいてくるリューイを睨み付けた。フレーナとロイドもまた、各々の武器を構えてリューイの様子を窺っている。

 本当に、彼はシアの肉親なのだろうか。この傷が、リューイによって刻まれたものであるのは間違いない。本当の肉親に、何故このようなことが出来るのかが分からない。

「返せよ……僕のシアを返せよ……」

 ぶつぶつと譫言のように呟きながら近づいてくるリューイ。しかし、不思議なことに武器を構える様子はなく、得意としている呪歌を使おうともしない。それどころか、敵意がまるで感じられないのだ。

「リューイ様、もうやめませんか。これ以上貴方が好き勝手やったところで、何にもなりません」

 ロイドが説得を試みようとする。しかし、リューイはそれに答えようともせず、ただフラフラと歩み寄ってくるだけだ。

「まだ間に合います。どうか、一度――」

「……だめ……ロイド、離れ……て……」

 息も絶え絶えに口を開くシア。あまりにも健気すぎる。これだけの目に遭いながらも、兄を庇おうとしているのだろうか。しかし、ロイドはすぐに認識を改めなければならなかった。

 突然、ロイドをめがけて何本もの触手が襲いかかってきた。ロイドはその場から飛びのきながら、避けきれないと判断した触手に対しては、手持ちのグラディウスと簡易な魔術で対応していった。シアの言葉がなければ、対応が遅れていたに違いない。ロイドは心の中で、シアに礼を述べた。

 フレーナはすぐにリューイに向けて間合いを詰めていくが、何処からか襲いかかってきた触手のためにそれを阻まれてしまう。フレーナに触手が当たる寸のところで、その触手の軌道は大きく逸れた。後方から、リーゼロッテが風の魔術を唱えたためだ。行き場を失った触手は周囲の木々に当たり、勢いを削がれて崩れ落ちた。

「……ドルイドの青年よ、その身に着けているものを手放しなさい。さもなくば、貴方自身の身を滅ぼすことになりますよ」

 フレーナは抑揚のない声でリューイに向けて告げた。彼女の視線の先はリューイの胸元に向けられており、そこにはどす黒い靄を帯びた石のようなものがあった。

「それを身につければ、闇の属する者と同等の力を得、己の限界を超えた力を発揮することができます。しかし、その一方で、代償として自身の命を削ることとなります。もう一度忠告します。その『クリフォトの輝石』を捨てなさい」

 抑揚のない声で続けるフレーナ。彼女にリューイを案じている様子は無い。特に嫌っている様子もない。そこには一切の感情は無く、ただ起こり得る結果を淡々と告げているだけだ。例えるならば、陽が東から昇る、雨が天から地へと向けて降る。そのようなごく当たり前のことを、そのまま伝えるかのように。

 だが、リューイはその忠告を受け入れようとはしていない。尤も、彼の自我は徐々に崩壊しつつあった。

「断ル。そんなことヲしたら、シアを僕ノものにデきないジャナいか……ソンなことハ、アッテハなラナいんだ……シアをしアわせニでキルノハ、ボクダけナんだ……オマエたチナンかニ、シアヲうバワレテタマルカ……」

 それがリューイから発せられた声とは思えない程、おどろおどろしいものであった。まるで異なる人間が何人も彼に乗り移ったかのように、様々な声音が多重に聞こえてくる。胸元にある『クリフォトの輝石』は妖しい輝きを帯び始め、心臓の鼓動のごとく脈動している。

 リューイを中心に、周囲が異様な空気に包まれていく。つい先程まで、無数の触手が蠢いていた空間と同じような空気だ。

「早く……お兄様を……」

 シアは何かを察知したのか、起き上がろうとする。しかし、痛みと疲労で思うように身体が動かない。レオンハルトは必死に治癒魔術をかけているが、やはり本職ではないために、思った以上に治癒に時間がかかっている。出来る限りの魔力は注いでいる。

 自分もすぐに駆けつけるべきなのかもしれない。だが、シアを放ってはおけない。レオンハルトは焦りに苛まれながらも、只管魔術の詠唱を続けた。シアのだいぶ傷は塞がっており、衰弱も回復してきているのが窺える。だが、まだ動くほどの体力は戻っていないといったところだ。

「シア、もう少しだから……」

 次の瞬間だった。

「リーゼロッテ、ロイド。離れなさい」

 フレーナが静かな声で、共に前線にいた二人に注意を促す。

 そして――

「シアハボクノモノダ……。オマエラハ、シアヲウバウ、ワルイヤツナンダナ……。ダカラ……コロシテヤル……コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル……!」

 リューイから、何かが弾けるような音が響いた。彼の身体――腹部、背、四肢の先から、何本もの触手状の物体が姿を現した。今までよりも強大でおぞましい異形の姿が、そこにはあった。リューイの身体を中心に、数百もの触手が伸びており、それぞれが不規則な動きを見せている。

「うええええええ!? 何これ? こんなの聞いてないよ!?」

「これは……、リューイ様なのか? そんなまさか……」

 恐慌状態までとはいかないが、突然の出来事にリーゼロッテとロイドは思わず声を上げる。無理もないだろう。突然、目の前で人が弾けて、何本もの触手が姿を現したのだ。驚くなと言う方が難しい。

 フレーナはまるで汚物を見るかのような視線で、目の前の異形を一瞥した。そこには、僅かながら、焦燥の色も見え隠れしている。事実、彼女はある懸念を抱いていた。レオンハルトがシアの治療に当たっている以上、戦力が不足しているためだ。

 レオンハルトとシアも、当然異変を察知していた。ちょうど、治癒を終えきったところだ。

 あまりのショッキングな出来事にシアは耐えられないのではないか。そう考えてレオンハルトは彼女の視界を覆うとしたが、彼女は逃げようとはしなかった。むしろ、何か決意に満ちた表情で、変わり果てた兄の姿を見つめている。

「シア!」

「大丈夫。治療、ありがとう」

 言って、にっこりと笑みを見せるシア。

 下がっていてほしいとレオンハルトは言おうとした。だが――

「わたしがお兄様を止めないと。たとえそれが、お兄様を殺めることになったとしても……」

 暫くの沈黙。その中で、レオンハルトはシアの決意を感じ取った。

 今自分にできることは、戦いの中で彼女を支えていくことだ。いや、今だけではない。これから、先の解らない未来も――

「解った。だが、無理はしないでくれ」

「ん。頑張ろう、レオン」

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