五十二章 初めての友達? 1
助手の仕事は、朝七時半にセトの研究室まで辿り着くところから始まる。
そう、辿り着くのだ。
何といっても、広い敷地内。転移魔法が使えない流衣では、足元が凍っているのもあって競歩で進んでも門から二十分はかかってしまう。
開門と同時に学校に入って、そこからひたすら歩く。歩く。歩く……。
正門から校舎前を通り抜け、校舎の終わりを左に曲がり、倉庫の前を通って、その隣にある研究棟まで行く。セトの研究室は一階の一番左端だから、そこから更に歩く。
「お早うございます!」
入口で息を整えてから、研究室の扉をノックして開ける。セトはすでにデスクに着座して、甘い香りのするお茶を飲んでいた。強面に反し、甘いものが好きなのだろうか。
「ああ、おはよう。ご苦労様。まあ、どうだね一杯」
まるで酒をすすめるみたいに茶の入ったカップを出すセト。
「ありがとうございます」
正直、喉が渇いていたので助かる。
流衣は礼を言ってカップを受け取り、座る場所がないので立ったままで茶を飲む。
広さだけなら十畳はあって一人暮らしも出来そうな研究室だが、物がごった返していて足の踏み場がない。二つの窓を除く四方にある本棚には本がぎっしり詰め込まれ、そこから飽和したと思われる本が床に乱雑に積まれている。更にその上に何かを書き散らした紙が散乱し、カオスを築いていた。
(このカップ、大丈夫かな)
急にカップの清潔さが気になって、思わずカップを凝視していると、セトが口を開いた。
「安心したまえ。私は片付けが出来ないだけで、綺麗好きだ。食器の清潔さは保証する」
「うっ、すみません」
「謝らなくていい。ここに来た生徒はみんな微妙な顔をするからな」
カカと笑うセト。
しかし、綺麗好きなのに片付けが出来ないというのは、意味が分からない。すでに矛盾が生じている気がするのだが。
「それで仕事だが」
「あ、はいっ」
どこから「それで」が来たのか分からないものの、流衣は返事してセトを見る。セトのいるデスクの上だけは最低限のものしか置いておらず、綺麗だ。きっと不必要なものは床の上に置いているのだろうと思われる。
「これが私の授業の時間割だ。今日、光の曜日は一時間目で、あとは水と木の曜日の二時間目になる。普段は週に三日出勤で構わないが、他の曜日にもたまに手伝って貰うから宜しく頼む」
セトが手渡ししてくるプリントを流衣は受け取り、頷く。
「はい、分かりました」
学校の授業は、一コマ六十分で、午前中に三コマと午後に三コマある。昼休みと放課後休みと地の曜日以外はほとんど勉強ばっかりだ。食事ですら、ここではマナーの授業と同じらしい。クラブ活動もあるというが、どういうのがあるかは知らない。
また、学校自体には十二歳から十八歳までなら年に金貨二十枚さえ払えば誰でも入れるから、一学年ごとの年齢はバラバラだ。教養科が七年あって、更にその上に進むつもりなら研究科が三年ある。授業は選択式で、魔法を学ぶ気がなくとも武術を学ぶことも可能だとか。こんなお高い学校にいて武術を学びに来ている生徒は、たいていが騎士志望者らしく、生徒達の間では魔法使い派と騎士派に派閥が分かれている、らしい。
どちらでも共通しているのは、マナーやダンスなどの社交技術の習得は必修課程というところだ。
「今日はプリントの配布と、課題の回収を頼む。ところで、君は筆記具は持ってきたか?」
「え?」
最低限の貴重品や弁当ならば肩に引っかけている鞄に入っているが、筆記具は持っていない。ノートも筆記用具も王城の客室に置いてあるからだ。
きょとんとする流衣を見て、セトはふむと顎に手を当てる。
「金は?」
「ありますけど?」
「では、行きがけに購買に寄るから、買い揃えなさい」
「はあ」
流衣は首を傾げる。
「あと、これもあげよう」
「?」
更に渡された冊子本を、流衣はきょとんと見下ろす。魔法学Ⅰと書かれた教本だ。
「え、あの」
「安心したまえ、プレゼントだ」
「は? えーと、……ありがとうございます?」
セトの意図が分からなかったが、セトがにっかりと良い笑顔をしたせいで、流衣は反射的に礼を言ってしまった。
*
よく分からないままプリントを抱えて研究室を出て、購買でノートやインク壺や羽ペンを買い揃え、やはりよく分からないまま校舎を歩く。
(何だってセトさんは僕に教本をくれたり筆記具を買えと言ったりしたんだろ)
流衣の仕事は助手という名の雑用であって、勉強ではないのに。
この学校の制服を着ていない流衣は目立つらしく、生徒達にじろじろと見られるが、流衣はその視線を会釈でかわしてセトを追いかける。
ここの女生徒の制服は、前にアルモニカが着ていた服と同じだ。白いブラウスと、膝下まであるローズピンクのスカート、黒いタイツと茶色い革靴。そして、その上に肘までの長さである黒いポンチョを羽織っている。学年を示す数字入りのバッジがポンチョの留め金についている。男子生徒は、ブラウスがシャツに代わり、首に紺色のタイをしていて、黒いズボンを履いている以外は同じだ。
どの生徒達も気位が高そうだ。背筋が良く、歩き方にも品がある感じ。ドキドキと心臓がうるさい。手があいていたら、手の平に「人」の字を書きまくりたいくらいだ。
『坊ちゃん、大丈夫です。わてがお供しております故!』
オルクスの力強い言葉に、流衣はハッとする。喧嘩っぱやいオルクスの性格をすっかり忘れていた。
「そういえばオルクス。言うの忘れてたけど、喧嘩しちゃ駄目だよ。怒って飛びかかったりしちゃ駄目だからね」
『ですが』
「ですが、でも駄目だよ。僕らの目的忘れたの? あんまり目立たないようにしなきゃ」
『むぅ。左様でございますね。余程のことが無ければ、大人しくしております』
渋々と引き下がるオルクスに流衣はほっとするが、流衣は気付いていなかった。オウムを肩に乗せている時点で、嫌でも目立つということに。
やがて一年の教室に辿り着き、セトに続いて扉をくぐった。
*
生徒達はすでに着席していた。
セトはすたすたと教壇まで歩いていくと、出入り口で逡巡している流衣を手招き、教壇の横に立たせた。
「魔法学Ⅰの講義を始める前に、彼を紹介しよう。私の助手を務めることになった、ルイ・オリベだ。一応断っておくが、男だぞ。見た通り、外国人だ。言葉は流暢だが、ときどき常識が分からないことがあるようなので、その辺は考慮してやって欲しい」
「よろしくお願いします」
流衣はどぎまぎしつつ、頭を下げる。顔を上げると、何故か女生徒達の間で黄色い悲鳴が上がる。
(!?)
何事かとぎょっとするが、同時に男子生徒の冷たい視線に背筋に冷や汗が浮かぶ。なんだかよく分からないが、自己紹介の掴みを失敗したっぽい? 転校した経験がないので、転入生のように掴みの得方は分からない。
「彼はあまり魔法に詳しくないと言うのでね、私の講義のみ、聴講して貰うことにした。というわけでルイ、そのプリントを配ったら、一番後ろの空いている席につきなさい」
「はいっ。……って、え?」
流衣はセトの堅物にしか見えない角ばった顔を凝視する。そんなの初耳だ。
「え? あの、でもセトさん。僕の仕事は助手……」
「どうせ授業中は待っているだけで暇だろう。時間は有意義に使いたまえ。大丈夫、私の独断だから」
「はあ……」
それは大丈夫ということになるのか?
流衣は首をひねりつつ、とりあえずプリントを配り、余ったプリント一枚を片手に一番後ろの席につく。
教科書をくれた理由が分かってすっきりしたが、それならそれで前もって教えてくれてもいいのにと思った。
テーブルは横に細長く、二人掛けになっている。廊下側の方の席に座っている、流衣より年下に見える少年が、人懐こい笑みを浮かべる。短い金髪は猫っ毛で、赤茶色の目をしていて、肌は褐色だ。
「よろしく、助手サン。オレ、ファリド=エネ」
偶然だと思うが、ファリドという少年も外国人のようだ。言葉がたどたどしい感じだ。
「僕はルイ・オリベです。よろしくお願いします」
小声で丁寧に言うと、ファリドはにこっと笑ってくれた。
これはもしかして、意外に掴みOKだったんじゃないか。流衣は少し期待に胸を膨らませた。
*
授業が終わって、課題を回収してセトの研究室に帰ろうとしたら、何故か女生徒達に詰め寄られてお菓子を押し付けられた。
どうして貰ったのか分からない。
しかも、鈴やベルなどを鳴らしただけで侍女がすっ飛んできて、菓子の包みを持ってきて置いていったのには面食らった。
何が起こったのか分からないまま、呆然としつつ教室を出る。
「な、何だったんだろうね、オルクス。ここの生徒は、新入りにお菓子をくれるものなのかな?」
『さあ。わてには分かりかねます』
オルクスも不思議そうだ。
『まあ、毒入りのようではないですし、おいしく召し上がれば宜しいのでは?』
「う、うん……」
両腕に菓子包みを抱え、セトの後ろを歩く。セトはくつくつと笑っている。
「いや、君のもてっぷりは意外だったな。可愛いとか、可愛い……っ。ぶくくく」
仕舞いには腹を抱えて爆笑し始めた。
「もて……? 可愛い……?」
何のことかさっぱり分からない。
しばらく考えてみて、ああ、と頷く。
「そんなにオルクスって可愛いんですか? それは良かったです」
「オルクス?」
怪訝な顔をするセト。
「僕の使い魔です。このオウムですよ」
「その鳥は使い魔だったのかね。というか、君、もしや気付いていないのか?」
「何をですか?」
首を傾げる流衣を見て、セトは呆れた顔をする。
「あんなに分かりやすいのだがなあ……」
しかも可哀想なものを見るような目をされ、溜息までつかれる。
「まあいい。今日の授業はどうだったかね?」
「はい、分かりやすくて面白かったです。僕、本を読んで独学で呪文を覚えているところだったので、理屈が分かって良かったです」
「では、その理屈について説明してみなさい」
廊下を歩きながらであるが、教師らしく質問してくるセト。
流衣は少し緊張しつつ、授業の内容を思い出しながら言う。呪文構成の文法の復習と、呪文を新しく考案する時の属性の掛け合わせの可否、というのが授業のテーマだった。
「ええと、呪文には、魔法として精霊に発動して貰う為の鍵となる言葉が必要になります。初級の呪文を見れば分かりやすくて、例えば、点火の術なら『ファイアー』がそれになりまっうわっ」
説明している途中で、無意識に魔法を使ってしまい、流衣は慌てる。意識していなかったので爆発まではしなかったが、杖の先端に火の玉が浮かんでいた。
「なんだ、その火はっ」
ぎょっと身を引くセト。流衣は大急ぎで火が消えるように念じた。何とか消える。
「すいません、よく使うせいか無意識に使っちゃいまして。あと、僕、魔力の調節が下手なんです」
「そ、そうか。まあいい、続けて」
セトは続きを促す。
あまり大袈裟にとられなくてほっとしつつ、話を続ける。
「単語一つで発動するものが初級に多く、中級からは、頭文、対象指定と行動指定の文、発動の鍵の単語、という組み合わせになり、上級に行くにつれ、文章が長くなります」
「それは何故かね?」
授業では理由は言っていなかったが、流衣は考えて、少ししてから答える。
「そうですね、多分、力が強いほど、魔法として形を作るのにイメージを固める必要があるからなんじゃないかと思います」
校舎を出て研究棟への道を歩きつつ、セトがにやりとする。
「なかなか良い答えだが、少し違うな。確かに、魔法は術者が信じることで強固となるというのは真実だ。だが、術を引き起こすのはあくまで精霊なのだ。だから、精霊にどうして欲しいのか、それを正確に伝える為に、呪文が長くなってしまうのだよ」
「なるほど!」
流衣は理由が分かって、大きく頷く。精霊にどう伝えるか考えながら口にする。そう考えると、とても面白く思えた。
「熟練者は、そのイメージを魔力に乗せて伝えることが出来るため、短縮詠唱や無詠唱でも魔法を使えるがね。だが、……ふむ。今日の講義だけでそこまで理解したのなら、君はなかなか筋が良い。しかも魔法について真面目に考えているのが、君の良いところだな」
セトは満足げに何度も首肯する。そして、研究棟の出入り口になる両開きの扉を開け、中へと入る。流衣も重いガラス扉を腕で押し開け、セトに続く。
セトの褒め言葉に、しかし、流衣は困った顔をしてしまう。何故、そこが良いのか分からないのだ。
「真面目に考えるのは、当たり前だと思うんですが」
セトの足がぴたりと止まる。何かを探るように、じろりと一瞥される。
「君は魔法好きなのか?」
流衣は返事に詰まったものの、正直に首を振る。
「いいえ、どちらかというと、あんまり好きではないです」
「どうしてかね?」
「……単語一つで、誰かに大怪我をさせてしまうかもしれないからです。それが、とても怖いです。でも、僕は力が無いので、魔法に頼ってしまってます。そこがまた怖いといいますか……」
漠然とある恐怖感。最近ではだんだん使うことに慣れてきているが、慣れきってしまうことが怖い。慣れてしまったら便利な為に後で苦労しそうだし、そもそも、躊躇なくほいほいと使うようになっては、どこかで大事故を引き起こしそうな気がするのだ。
セトはぽんと流衣の頭に手を乗せた。大柄な体躯と同じ、大きな手だ。
「――良い答えだ。魔法は怖いものだよ。だが、それを理解しないで、ただの便利な道具だと思っている輩の方が多いのだ。とはいえ、使い方さえ間違わなければ良いのだ。君は一番大事なところが分かっているから、大丈夫だ。恐れを忘れろとは言わない。上手く共存したまえ」
ぽんぽんと二度軽く手を乗せると、セトは再び歩き出す。
やれやれと溜息を零しながら。
「そこのところを、ナゼルは分かっていないからな。だが、こないだの雪だるまの件で、少しは身に沁みたようだ。その点では君に感謝しているよ」
セトの歩幅は広いので、流衣は小走りについていく。
「ナゼル君と雪だるま作ったのって、やっぱりセトさんなんですか?」
「ああ。まさかゴーレムとして使えるとは思わなかったから、あの子の気が収まるようにと教えてしまったのがいけなかったな。雪で作るゴーレムは一番難しいというのに、全く。才能というのは洒落にならん……」
セトに溜息をつかせる程、ナゼルは将来有望らしい。
「母親を守ろうと背伸びしているせいか、少しばかり屈折しているが、良い子だから仲良くしてやってくれ。ナゼルが余所者になつくなんて珍しいんだ」
「そうなんですか? そうは見えませんでしたけど」
どちらかといえば、誰とでも仲良くなれそうな子どもに見えたが。
「あの歳で、すでに営業スマイルを身に着けているんだぞ。子どもっぽい行動をするのも少数の人間の前だけだ」
そんな話をしているうちに、ようやく研究室まで辿り着いた。
セトはふうと息を吐く。
「よし。では、課題を出席番号で並べて貰おうか。その後は私は課題の採点をしなくてはならんし、自由にしていて構わんが……」
「良ければ、ここを片付けるのを手伝っていいですか?」
とりあえず、あまり片付けが得意といえない流衣にも滅茶苦茶だと思う部屋なので、そう申し出てみた。セトは快諾してくれた。
*
手伝うというより、流衣だけで片付けた。
とはいえ、棚がすでに飽和状態だから、分類して部屋の隅に寄せる程度しか出来なかった。だが助手用の椅子が置けるスペースが出来ただけ上出来だろう。
研究室には薪ストーブが置いてあるので、とても暖かい。ストーブの上ではヤカンが湯気を吐きだしている。
セトは生徒達と同じく食堂で昼食を摂るというので、流衣は研究室に居座って持参した弁当を食べている。許可も貰ってある。
昨日から居住場所になっているゴーストハウスは、悪趣味なのを除けば住み心地は良いと分かった。調理器具も揃っているし、期待通り風呂もあったのが嬉しかった。しかもお湯の出る魔法道具付きだ。風呂場に黒い壁紙が貼ってなかったのは良かった。そうだとしたら暗過ぎるし、風呂場にある鏡に何か得体の知れないものが映りこみそうで怖すぎる。
とりあえず、昨日は日用品の追加や食材、薪などを買い揃えた。リビングの改装については、資金の都合があるので簡単な見積もりだけアランザ家具店で聞いてきた。部屋の広さや壁紙の質にもよるが、一部屋の壁紙を貼り直すだけで、だいたい銀貨一枚程度だそうだ。近いうちに、正確な見積もりを出しに訪問してくれるそうだ。――ゴーストハウスと聞いた瞬間、店主の営業スマイルが凍りついていたけれど。
「ふぉうやって、生徒と仲良くなふぉうふぁな」
もぐもぐとサンドイッチを頬張りながら呟く流衣を、黒いデスクの上をぴょんぴょんと跳ねるようにして歩き回っていたオルクスは振り返る。
『意外に接点がありませんよね』
流衣はごくんと飲み込み、頷く。
「そうなんだよね。難しいなあ。しかも、雑用レベルが簡単だからすぐに仕事終わっちゃうし……」
『確かに、すぐに慣れましたね』
「うん。出席番号で並べれば良いだけだもん。しかも、名前のアイウエオ順だからね」
きっと、一般言語では別の言葉での順序なのだろうが、女神ツィールカのお陰で自動的に一般言語が日本語に翻訳されているのでアイウエオにしか見えない。この一般言語というのも、世界共通貨幣であるクリエステル貨幣と同じで、ルマルディー王国圏内で使われている言葉や文字のことみたいだ。ラーザイナ・フィールドで一番の大国で使われているから、一般言語になっているんだろう。
「その程度なら、元いた世界で日直や係でしてたから分かるよ。でも、プリントってどうやって刷ってるんだろうね。印刷機を見たことないけど、印刷機ってあるの?」
流衣の問いに、オルクスは首を傾げる。
『インサツキが何か分かりませんが……。同じ内容の書かれた用紙を作るのでしたら、記録転写の術を使えば済みますよ?』
「記録転写?」
『水の魔法の一種です。領域外なのでわては使えませんが、確かそんなにレベルの高くない術だったと思います。一枚だけ書類を作り、書類上に水鏡を作りだし、インク部分だけを写しとり、紙に転写するのです。インクと紙が必要な魔法です』
流衣は眉を寄せる。考えてみたが、よく分からなかった。
「ふ、ふぅん……。魔法を使った印刷技術ってことなのかな。へえ……」
『この魔法が開発されたのは、ざっと八百年ほど前になります。元々、紙の材料となる草は多く生えていましたから、紙自体は昔から安価で出回っていたのですが、この魔法が開発されるまでは本を手書きで書き写すしかありませんでしたから、本は大変高価でした。写本師という仕事が幅を利かせていた時代ですね』
何やら懐かしそうに語りだすオルクス。流衣はオルクスを見下ろす。
『あの頃は、読み書き出来る人材はなかなかいませんでしたから、例え書き写すにしろ高度テクニックでした。たいていは、神殿が一つの事業として仕事をしていましたね。あの場所程、文字の読み書きを普及させられるに適した場所はありませんからね。しかも神官なら結構な数がいますから』
「うん」
『写本師は、美術としての写本師を残して今ではほとんどいなくなりましたけれど、そういう経緯もあって、神殿は今でも教育の立場を担っているのですよ』
「そんな経緯が……。流石オルクス、物知りだね」
オウム殿は胸を張る。ふわふわの黄緑色の身体が膨れる。
『伊達に長く生きておりませんから。お役に立てて光栄です。歴史はわての得意とするところ、いつでもお聞き下さい。表から裏まで全てお答えしましょう!』
流衣はぶんぶんと首を振る。
「え、いいよ。黒歴史なんて怖いから知りたくない」
うっかり権力者の痛い所を突くような知識を得てしまったら怖い。
『左様ですか? まあ、興味を惹かれましたらいつでもどうぞ』
ちょっと残念そうなオルクス。そんなに政治の裏側を暴露したかったのだろうかと考えていると、気を改めたオルクスが問うてくる。
『坊ちゃん、この後はどのようなご予定なのですか?』
「僕の本当の仕事をクリアする為にも、まず、接点を見つけなきゃね。それに異世界の学校って面白そうだから、校内巡りしたいな。セトさんにも許可を貰おう」
*
「それならば、放課後にアルモニカ嬢に案内して貰ってはどうだ?」
思いがけないセトの言葉に、流衣はえっと声を漏らす。
「君は彼女の数少ない友人なんだろう? うぐっ!」
セトは本棚の一番上に詰まっている本を一冊引き抜いて――雪崩れてきた本の襲撃に遭ってうめいた。
折角片付けたのに……。
流衣は本が散らばる研究室をがっかりしつつ見つめる。同時に、どうしてセトが片付けが下手なのか、今ので分かった気がした。
「……あまりグレッセン家の者と平民が仲良くしていると、いらぬやっかみを買うかもしれんが、〈塔〉で出来た友人と言っておけば、たいていの貴族も納得するだろう」
少しの間、本の角が直撃した顔面を押さえてうずくまっていたセトだが、しばらくすると復活して最もらしく言った。最初から最後までばっちり見てしまっているので、流衣には何ら威厳があるようには見えなかったが。
「実際、〈塔〉で知り合いましたしね……。じゃあ、頼んでみることにします」
流衣の返事に、セトは頷く。
「あと言うのを忘れていたが、君は私の助手なのでね、その身分証があれば図書館の利用が可能だ。貸出も出来る。それから、申請を出せば鍛練場も使える。必要なら利用するといい」
思い出したように言うセト。
流衣はマントの左胸辺りに付けている、名前と所属先が彫られた銀製プレートの身分証を見下ろしてから、パッと表情を明るくする。
「図書館を使っていいんですか? やった! ありがとうございます!」
そして礼を言ってから、とりあえず、床に散らばる本を見た。
「放課後まで何か手伝いをしようかと思いますが、先にそれを片付けますね?」
「……う。すまない、頼む」
セトは気まずげに顔を歪め、申し訳なさそうに言った。
――とてもしっかりしていて、しかも硬派な印象の人なのに、意外なところで抜けているなあこの人。そういうところがうけて、生徒に人気がありそうな気がする。
流衣は心の内でこっそり思った。