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「君を迎えに来る」と言った幼馴染は、隣国で結婚していました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/27

 その方は、私に会うのを楽しみにしていると書いていた。


 淡い菫色の封筒だった。

 封蝋には、よく知っている家の紋章が押されている。それなのに、宛名を書いた筆跡には見覚えがなかった。


 窓の外では、庭師が薔薇の枝を整えていた。

 まだ花のない四月の庭を眺めてから、私はもう一度、便箋へ目を落とした。


〈突然のお便りをお許しください。

 ナディーヌ・ヴァレと申します。一月に、セドリックと婚姻を結びました。

 六月には夫の帰国に同行いたします。幼い頃から親しくなさっているリゼット様に、ぜひご挨拶できればと筆を取りました。

 夫から、故郷のお話はよく聞いております。私もお目にかかれる日を、楽しみにしております〉


 婚姻、という文字を指でなぞりかけ、手を止めた。

 インクはとうに乾いている。

 それでも、触れたら何かが変わってしまう気がした。


「お嬢様、お返事の紙をお持ちいたしましょうか」


 侍女に尋ねられ、私は顔を上げた。


「……少し、あとで」


 声が、自分でも驚くほどかすれた。


 ナディーヌ・ヴァレ。

 セドリックの奥様。


 彼には、奥様がいた。


 引き出しを開けた。

 上に載せてあった手紙は、二月の日付だった。受け取ったのは三月に入ってからで、いつもより雪が多く、街道で配達が遅れたと聞いた。


〈今度の帰国は六月になりそうだ。

 その頃には君も王都へ来られるだろうか。帰ったら、君を迎えに行く。久しぶりに、二人で踊ろう〉


 私はこの手紙を、何度も読んでいた。

 青いドレスを仕立て直そうかと考えた。彼が前に、その色はよく似合うと言ってくれたから。


 二枚の便箋を、机に並べた。

 片方の文字は大きく、少し右へ傾いていた。

 もう片方は、細く整っていた。


 どちらも、嘘を書いているようには見えなかった。


     *


「お母様。セドリックが、ご結婚なさったそうです」


 母は、刺繍の手を止めた。


「セドリック様が?」


 うなずいて手紙を渡すと、母の表情が静かに変わった。

 便箋を持つ指に、わずかに力が入ったのが分かった。


「……あなたは、今、知ったのね」

「はい」


 母は手紙を畳まなかった。

 机の上にそっと置き、私に座るよう勧めた。


「こちらには何も伺っていません。お父様にも確認しましょう」

「私が、何か勘違いしていたのでしょうか」


 母が私を見た。


「あの方が私にお会いになるのは、子どもの頃からの付き合いだから。手紙も、お贈り物も。それだけだったのかもしれません」


 言葉にすると、ひどく子どもじみたことを話している気がした。

 二十三歳にもなって、幼馴染の親切を求愛と取り違えた。

 そういう話なのだろうか。


「彼から、結婚のお申し入れはなかったのね」

「……ありません」


 父にも、以前、同じことを聞かれた。

 私は、まだ、と答えた。

 父はそこで、縁談の話はなかったものとして扱うと告げた。誰かから紹介の申し出があれば、私の耳にも入れる、と。


 両親は、私たちを婚約者とは考えていなかった。

 私も口にはしなかった。

 ただ、私の中にだけ、その先の期待があった。


「でも、結婚なさったことまで、知らされずにいて平気である必要はありませんよ」


 母の言葉に、私は顔を上げた。


「まず、ご本人に確かめましょう。奥様のお便りには、あなたを傷つけるつもりなど見えません。今、返事を急ぐこともないでしょう」


 私はうなずいた。

 泣かずに部屋を出られた。

 自室の扉を閉め、侍女を下がらせてから、椅子に座り込んだ。


 手紙を見つけた朝の喜びが、まだ体に残っていた。

 同じ紋章だったから、彼からだと思ったのだ。


     *


 私たちの領地と、ヴァレ子爵家の領地は近かった。

 子どもの頃は両親に連れられて互いの屋敷を訪れた。二歳年上のセドリックは、庭の木に登るのがうまく、私はその下で見張り役をさせられた。


 彼が隣国の公使館に勤めるようになったのは、五年前のことだった。

 次男として自分の仕事を得たのだと、出発の日は誇らしそうだった。

 私は寂しかったが、恋をしていたかと聞かれれば、あの頃はまだ違ったと思う。


 変わったのは、その翌年だった。

 母が肺を患い、長く療養することになった。


 医師は回復を待ちましょうと言った。

 待つ以外にできることが少ないのが、私はつらかった。

 母の部屋に本を運び、花を替え、午後になれば父の書斎を手伝った。招待は断った。

 夜会で笑っていて、もしその間に母の容体が変わったらと思うと、出かけられなかった。


 短い休暇で帰国したセドリックは、そんな私を訪ねてきた。

 母の体調を尋ねたあと、隣国の宮殿の宴から戻った夜、宿舎で靴を片方なくした話をした。


「どうやってなくしたの?」

「それが分かれば、なくしてない」


 夜遅くに宿舎へ帰り、玄関で靴を脱いだところまでは覚えているらしい。

 翌朝、使用人たちが探してくれて、片方だけ中庭の犬小屋から見つかったという。


「よほど気に入られたのね」

「履いて行ったら、みんな靴ばかり見るんだ。噛み跡も、磨くと案外目立たなかったのに」


 私は吹き出した。

 自分がそんなふうに笑えることを、久しぶりに思い出した。


 それから彼は、帰国のたびに訪ねてくれた。

 贈り物は高価な宝石ではなく、見たことのない菓子や、異国の挿絵が入った本だった。

 母の回復が進むと、庭を歩こうと誘ってくれた。


「リゼットは、少し外へ出たほうがいい」

「お母様の具合が、また悪くなったらと思うと」

「今日は伯爵もいらっしゃる。庭なら、すぐ呼びに来てもらえるよ」


 彼は私の気持ちを全部理解したわけではなかった。

 ただ、一緒に歩いてくれた。


 母が普段の生活へ戻った頃には、私はセドリックの帰国を待つようになっていた。

 彼の話に笑いたかった。彼にも、私の話で笑ってほしかった。


 以前より元気になった母は、私に王都へ行くよう勧めた。

 伯母からも、屋敷に滞在しないかと何度か誘われた。

 私は日程を決めなかった。

 セドリックがいつ戻るか、分からなかったから。


 昨年の秋、縁談の話が続いて少し疲れていたとき、彼にそれをこぼしたことがある。


「周りが気にかけてくださるのは、ありがたいの。でも、誰と暮らすのかも決まっていないのに、早く決めなさいと言われても」

「そんなに焦らなくていい」


 彼は笑った。


「僕が戻ったら、迎えに来るから」


 私は、その言葉を覚えていた。

 どこへ、と聞かなかった。

 彼がどんなつもりで言ったのかも、確かめなかった。


 手紙を束ねた青い紐をほどくと、懐かしい匂いがした。

 一番下には、母の病気を気遣った短い手紙がある。

 あのときの言葉まで嘘だったとは、思えなかった。


 でも、その上に重なった年月の中で、彼には別の人生が始まっていた。

 私の知らないところで。


     *


 セドリックには、結婚のお祝いと、知らせを受け取ったことを書いた。

 自分には報告がなかったので、本人の言葉で事情を聞きたいとも。


 隣国の都まで、通常の便なら片道十日ほどかかる。

 往復を待つあいだ、私は父の書斎へ通った。


 領内の診療所の帳簿を確かめ、昨冬の記録をまとめた。

 冬のあいだ患者が少なくなるのは、病人が減るからではない。山側の村から、診療所へ来る道が塞がるからだ。

 それを王都の支援団体へ伝えるための資料だった。


 計算している間は、数字のことを考えられた。

 けれど、夕方に郵便が運ばれてくると、ペン先が止まった。


 四月の終わりに届いた返事は、思っていたより短かった。


〈知らせが遅くなってすまない。

 一月に、こちらで結婚した。妻はこの国の男爵家の娘で、ナディーヌという。

 帰国のときに、きちんと話すつもりだった。驚かせてしまったね。

 でも、君とはこれからも変わらず会いたい。六月には、例年どおり夜会へ行こう〉


 手紙を机に置いた。

 窓を開けると、湿った土の匂いがした。


 彼は、これで話が済んだと思っているのだろうか。


 私は新しい便箋を出した。

 何度か書き直した末に、初めて、自分の気持ちを文字にした。


〈私は、あなたが迎えに来るとおっしゃった言葉に、将来への期待を抱いていました。

 正式なお申し入れがなかったことは、承知しています。けれど、ご結婚を知らないまま、そのあとのお誘いを喜んでいたことは、つらく感じています〉


 読み返すと、指先まで熱くなった。

 こんなことを伝えれば、彼に好意が知られる。


 知ってほしかったのではなかったか。

 いつか、向こうから気づいてくれるのを待っていたのではなかったか。


 私は封をした。


     *


 五月の初め、王都へ向かうことにした。

 伯母は、父の姉で、王都に屋敷を持つ伯爵家の未亡人だった。

 領地から馬車で三日。出発が決まると、仕立て直しに出していたドレスや、持っていく本のことを考えるだけで忙しくなった。


 青いドレスも鞄に入れた。

 母がそれを見て、手を止めた私に言った。


「あなたが気に入っているなら、着ればいいのよ」


 私は布を撫でた。

 柔らかい光沢のある、好きな色だった。


 父は出発前に、私を呼んだ。


「先方の手紙で傷ついたからといって、急いで縁談を決める必要はない」

「はい」

「診療所の説明も、お前一人に背負わせるつもりはない。分からないことは、持ち帰りなさい」


 父の机には、私がまとめた資料が置かれていた。

 端の計算違いを一か所直した跡があり、私はそれを見つめた。


「……次は、間違えないようにします」

「計算は私も間違える。だから人に見てもらうんだ」


 父は資料を揃え、私に渡した。


「行っておいで」


 馬車に乗ってから、振り返った。

 父の隣で母が手を振っていた。

 私は窓から手を振り返した。


 セドリックの帰国まで、まだ一月以上あった。

 そのあいだを、ただ待って過ごすのはやめようと思った。


     *


 王都の伯母の屋敷には、白い猫がいた。

 初めて見る私の鞄に前足をかけ、侍女が持ち上げようとすると、ひどく不満そうに鳴いた。


「その子の荷物ではありませんよ」


 伯母が言っても、猫は動かなかった。

 結局、私は鞄を開ける前に、中身より猫の機嫌をどうにかしなければならなかった。


「お母様から聞いていらっしゃいますか」


 お茶の席で尋ねると、伯母はうなずいた。


「ええ。でも、あなたから話したくなったら聞きます。今日でなくてもいいし、話さなくてもいいわ」


 それから、私の前へ小さな菓子皿を寄せた。


「明後日の支援団体との面談には、私も同席します。資料は明日、一緒に見ましょう。今日は休みなさい」


 その晩、私は枕が違うことよりも、廊下を猫が走る音を気にして眠った。

 明け方に一度目が覚めたが、手紙の箱を開けることはなかった。


     *


 支援団体は、王都の診療所や地方の施療事業へ寄付を取り次いでいた。

 面談は、代表を務める老伯爵夫人の屋敷で行われた。


 私と伯母の向かいに、伯爵夫人と、書類を持った男性が座った。


「支援の報告書を確認してくださっている、マティアス・オルディ様です」


 紹介され、私は挨拶をした。

 侯爵家の次男で、官庁に勤めている方だと、伯母から聞いていた。

 支援団体では、本務とは別に、会計や報告の整理を手伝っているらしい。


 落ち着いた灰色の上着を着ていた。

 私よりいくつか年上で、机に置いた手の指が長かった。人を見るとき、顔だけでなく体ごと向き直る人だった。


「こちらが、昨年の診療の記録です」


 私は資料を渡した。

 説明を始めると、声が思うより速くなった。


 伯爵夫人はうなずきながら聞いてくださった。

 マティアス様は数字を確かめ、冬の欄でペンを止めた。


「この時期は患者数が減っていますね。薬の使用も少ない」

「はい。ただ、病気の方が減ったわけではありません」

「診療所に来られない?」

「山側の村からの道が、雪で通れなくなります」


 私は別の紙を出した。

 道筋と村の位置を、簡単に描いたものだった。


「春になってから、冬のあいだの具合を聞きに回ります。こちらの記録は、そのときのものです」


 彼は二枚を並べた。


「診療所で治療した人数と、村で聞き取った人数は、分けて報告したほうがよさそうですね。重なっている方もいますか」

「はい。今の書き方では、分かりにくいでしょうか」

「分からないというより、この資料だけを受け取った人が、重ねて数える可能性があります」


 私は書き留めた。

 隣で伯母がお茶を飲む音がした。


「道が通れないのでしたら、冬の前に診療所でまとめて診てもらうのは難しいですか」


 彼に尋ねられ、私は少し考えた。


「出かけるだけで仕事を一日休むことになります。冬支度をしている家には、それも難しくて」

「収穫が終わったあとでも?」

「燃料を集めたり、家畜の世話をしたり。収穫が終われば仕事がなくなるわけではありません」


 つい、強い言い方になった。

 彼はペンを置き、私を見た。


「なるほど。私は、動ける時期なら来られると簡単に考えていました」


 謝られるのかと思い、私は姿勢を正した。


「その事情も書き添えていただけますか。寄付をする側にも、知ってもらいたいので」


 私は、はい、と答えた。

 反論を嫌がられたわけではなかった。


 面談の後半、彼の説明は細かくなった。

 寄付金をいつ届け、どの費用と分けて報告し、翌年の見込みをどこへ書くのか。

 途中で私の手が止まった。


「申し訳ありません。今のところを、もう一度お願いできますか」


 マティアス様も止まった。


「……一度に話しすぎましたね」

「私の書くのが遅くて」

「いえ。紙に順序を書きます」


 彼は余白に項目を三つ並べた。

 一つずつ説明されると、今度は理解できた。


「分かりました。ありがとうございます」


 彼がほっとしたように笑った。

 初めて見たその笑顔に、私も少し安心した。


     *


 帰りの馬車で、伯母に尋ねた。


「私、失礼な言い方をしませんでしたか」

「冬にも仕事がある、というところ?」

「はい」

「言ってよかったと思いますよ。あちらも、それを聞くために時間を取ったのでしょう」


 伯母は膝の上の手袋を揃えた。


「声が大きかったかどうかより、伝えるべきことを伝えられたか、考えなさい」


 私は窓の外を見た。

 通りには色とりどりの店先が並んでいた。

 知らない菓子の名前が、看板に書かれていた。


 彼ならこの菓子を知っているだろうか、と考えかけた。

 セドリックではなく、私が一人で買ってみればいいのだと思い直した。


「伯母様。あのお店に、今度寄ってもいいですか」

「今からでも構いませんよ」


 御者へ声をかけてもらい、私は伯母と店へ入った。

 買った焼き菓子は思ったより酸っぱかった。

 二つ目を食べる頃には、その酸っぱさが気に入っていた。


     *


 セドリックからの二度目の返事は、伯母の屋敷へ転送されてきた。

 宛先が変わることは、出発前に知らせてあった。


〈迎えに行くと言ったのは、夜会への誘いのつもりだった。

 将来の約束をしたと受け取らせたのなら、申し訳なく思う。

 君は大切な友人だ。帰ったら、一度きちんと話そう〉


 私は最後まで読んで、封筒へ戻した。


 将来の約束ではなかった。

 そう言われれば、そのとおりだった。


 伯母の屋敷の窓からは、自宅とは違う庭が見えた。

 母の病気が心配で動けなかった頃の私は、もっと狭い窓から外を見ていた。

 彼はそこへ来てくれた人だった。


 それから母は回復した。

 父は、王都へ行っておいでと言った。

 伯母も部屋を空けてくれていた。


 それでも、私は同じ窓辺にいた。


 手紙を箱へしまった。

 その日は、資料の書き直しを終えることにした。


     *


 五月半ばの昼食会で、マティアス様と再会した。

 伯母が友人を招いた小さな集まりで、診療所の支援に関わる方も何人か来ていた。


「先日は、ありがとうございました」


 私から挨拶すると、彼はすぐに私を思い出した。


「こちらこそ。書き直した資料、拝見しました。父君から補足の手紙も届いています」

「不足はありませんでしたか」

「今のところは。今度は、私の説明が長くならないよう気をつけます」


 彼が真面目な顔で言ったので、私は笑ってしまった。

 昼食の席は、伯母の采配で斜め向かいになった。


 料理の話になり、私が王都で買った酸っぱい菓子の話をすると、彼は店の名前を知っていた。


「あそこの店主は、酸味がないと菓子を認めないんじゃないかと、兄が言っています」

「お兄様は、お好きではないんですか」

「買って帰ると食べます。ただ、食べるたびに顔をしかめる」

「それは、好きなのでは」

「私もそう言うんですが、本人は否定します」


 侯爵家の兄弟にも、そんな会話があるらしかった。


 食後、伯母が庭の薔薇を見せた。

 まだ数輪しか開いていなかったが、枝には蕾が並んでいた。

 大勢で歩くうち、私はマティアス様と少し長く話すことになった。


「王都には、しばらく滞在されるのですか」

「はい。期限は決めていませんが、夏の終わりには一度、領地へ戻ろうかと」

「では、来週の音楽会にも?」


 伯母が招かれている集まりだった。


「伯母とご一緒するつもりです」

「それなら、またお会いできますね」


 その言葉に、私は少しだけ返事を迷った。

 ただの挨拶かもしれない。

 挨拶なら、挨拶として返せばよかった。


「はい。楽しみにしております」


 彼はうなずき、それから庭の先を見た。


「あの白いのは、置物ですか」


 薔薇の間に、猫が座っていた。

 顔だけこちらを向け、動かない。


「違います。鞄を占領するほうです」


 彼が私を見て、それから声を出して笑った。


     *


 音楽会には、青いドレスを着て行った。

 伯母に、別のものにするか尋ねられたが、私は首を横に振った。


「この色が好きなので」

「ええ。よく似合っているわ」


 首飾りは、母から借りた真珠にした。

 セドリックに以前もらったリボンは、引き出しへ戻した。


 会場でマティアス様に会った。

 彼は、私のドレスを褒めた。

 私はありがとうございますと答え、それ以上の意味を探さなかった。


 演奏の前半は、よく知っている曲だった。

 後半には初めて聞く曲があった。

 休憩中、私が好きだった箇所を話すと、マティアス様はそこよりも前の旋律が気になったと言った。


「あの楽器が重なったところですか」

「はい。もう一度聞きたいんですが、頭の中でうまく再現できなくて」


 彼は指を少し動かしかけ、途中でやめた。


「弾けるのですか」

「子どもの頃に習いました。今は、人前で弾けるほどでは」

「私もです。途中で分からなくなると、最初から弾き直してしまいます」

「それでは、最後のほうほど練習できませんね」


 私は笑った。

 まさにそのとおりだった。


 帰りの馬車で、その話を伯母にすると、伯母も笑った。


「明日、最後の一頁から弾いてみなさい」

「できるでしょうか」

「最初からではできなかったのだから、一度くらい逆から試しても損はないわ」


 屋敷へ戻ると、私は久しぶりに楽譜を出した。


     *


 五月の終わり、私は伯母にマティアス様のことを尋ねた。


「ご結婚も、ご婚約もなさっていないのですよね」


 伯母は持っていた本を閉じた。


「そう伺っています。ただ、お付き合いのことは、あちらのご家族にも確かめましょう」


 数日後、伯母は彼の母に確認したと教えてくれた。

 現在、決まった相手はいないという。


「ただ、あなたが気になるなら、ご本人とも話すのですよ。私が確認できるのは、今、伺ったことまでです」


 私はうなずいた。

 伯母の言葉を聞いても、すぐに安心して恋に落ちるわけではなかった。

 でも、知りたいことを尋ねるのを、恥ずかしがらずに済んだ。


 まだセドリックとの話は終わっていない。

 それでも、王都へ来てからの日々は、彼の帰国までの日数だけではなくなっていた。


 診療所の資料には、返事が届いていた。

 楽譜の最後の一頁は、つまずきながらなら弾けるようになった。

 伯母の猫は、私の膝にも座るようになった。


 六月が来た。


     *


 セドリックが帰国し、ヴァレ子爵夫妻とともに伯母の屋敷を訪ねる日が決まった。

 父と母も、それに合わせて王都へ来ることになった。


 私は、まだナディーヌ様への返事を出していなかった。

 本人に事実を確かめたあとも、何を書けばよいのか分からなかったのだ。

 帰国の日程が届いたとき、ようやく短いお祝いと、挨拶をお待ちしているという手紙を送った。


 セドリックに会うのは、昨年の秋以来だった。

 その間に、私は二十三歳になった。

 彼は二十五歳になり、結婚していた。


 客間へ入る前、廊下で母が私の手に触れた。


「つらければ、長く座っていなくてもいいのよ」

「はい」


 扉が開いた。

 立ち上がったセドリックは、少し日焼けしていた。


「リゼット。久しぶり」


 いつもの声だった。

 隣で、一人の女性が微笑んだ。

 淡い金色の髪をきちんと結い上げ、小さな青い石の耳飾りを着けていた。


「初めまして。ナディーヌと申します」


 私は挨拶を返した。

 彼女の声も、その手紙と同じように穏やかだった。


「お便りをいただき、ありがとうございました。お返事が遅くなってしまい、申し訳ありません」

「いいえ。こちらこそ、突然お手紙を差し上げてしまって」


 皆が席に着いた。

 セドリックの母が、私の母へ話しかけた。


「今回ようやくご紹介できて、うれしく思っております。お知らせだけで、お祝いのお礼もきちんとできずに」


 母が、わずかに言葉を選んだ。


「ええ。先日、ナディーヌ様から娘へお便りをいただきました。私どもも、その折に結婚を伺いまして」


 子爵夫人の目が、息子へ向いた。


「セドリック。あなたからお知らせすると言ったでしょう」


 彼は、持ち上げかけたカップを置いた。


「……帰ってから、直接と思って」

「一月のお話よ」


 父が静かに口を開いた。


「ご結婚のことは、伺いました。今日は新しいご家族をご紹介いただいた日ですから」


 父はナディーヌ様に向き直り、道中は疲れなかったかと尋ねた。

 彼女は一瞬セドリックを見たあと、父に答えた。


 話題は国境の道や、この季節の王都のことへ移った。

 私はお茶を飲んだ。

 味が分かることに、少し安心した。


 ナディーヌ様は、自国では見慣れない庭の花を楽しんでいた。

 母が名前を教えると、手帳に書き留めていた。


「夫から、お庭で遊んだお話も聞いております。木に登って叱られたことがあるそうですね」


 私に尋ねられ、うなずいた。


「見張りを頼まれたのに、すぐ見つかってしまって」

「リゼットが、母上に木のほうを見ないよう頼むからだよ」


 セドリックが笑った。

 私も昔を思い出し、少しだけ笑った。

 それから、ナディーヌ様のほうを見た。


「私まで、一緒に叱られました」


 ナディーヌ様が笑った。

 私も、あの頃の庭を思い出した。二人で叱られていた子どもが、こうして別々の人と向き合う大人になったのだ。


 別れ際、セドリックが小さな包みを差し出した。

 見慣れた隣国の菓子店の紐だった。


「君の好きなもの。覚えているだろう?」


 手が動きかけた。

 私は母のほうへ半歩寄った。


「ありがとうございます。皆でいただきますね」


 彼はわずかに口を開き、それから包みを母へ渡した。

 ナディーヌ様も、おいしい菓子だと話した。

 私はその説明を聞き、丁寧に礼を述べた。


 彼だけが、私の顔をもう一度見た。


     *


 三日後、今度はヴァレ子爵夫妻が、父との用件で屋敷へ来た。

 セドリックも同行した。

 ナディーヌ様は、その日は王都に滞在する隣国の知人を訪ねていると聞いた。


 母に、セドリックと話したいと伝えた。

 母はうなずき、客間から見える庭のベンチを示した。

 私たちはそこへ座った。

 開いた窓の向こうには、母と伯母がいた。


「王都へ来ていたんだね」


 彼は、まずそう言った。


「ええ。五月から」

「手紙では、診療所の用件と書いてあったけれど」

「それもあります。伯母の集まりに出たり、音楽を聞きに行ったりもしています」


 彼はうなずいた。


「母上には、叱られたよ。知らせたと思っていたって」

「そうだったのね」


 私は膝の上で手を重ねた。

 彼の叱られた話を聞くために来たのではなかった。


「なぜ、私には言わなかったの?」

「手紙にも書いたけれど、帰ってから話そうと思ったんだ」

「結婚なさったのは、一月でしょう」

「うん」

「そのあとにも、お手紙はいただいているわ」


 彼は視線を落とした。

 昔なら、私はここで別の話をしていたかもしれない。

 困らせたくなかったから。


「私が、あなたを好きなのは、分かっていた?」


 木の葉が風で鳴った。

 彼は顔を上げたが、すぐに返事をしなかった。


「……好いてくれているのかもしれないとは、思っていた」


 目の奥が熱くなった。

 知られたかった気持ちが、すでに知られていた。


「だから、言えなかった?」

「リゼット」

「教えてほしいの。私が受け取り違えただけなら、そう思って、これからを考えたいから」


 彼は両手を組んだ。


「結婚を伝えたら、君からの手紙が来なくなると思った」


 私は黙って聞いた。


「僕が帰ってくるのを、こんなに楽しみにしてくれる人は、あまりいない。君とは子どもの頃からの話ができるし、何も気を張らなくていい。だから」

「だから、知らないままでいてほしかったの?」


 彼は答えなかった。


「ナディーヌ様とのご結婚は、お二人が望んだものなのよね」

「もちろん。彼女と結婚したかった」


 はっきりした声だった。

 その言葉に傷つきながら、私はうなずいた。

 彼にとって結婚が、仕方なく選んだものではないことは分かった。


「それなら、私はどうして、あなたを待っていればよかったのでしょう」


 息を吸った。


「私が待って、その先には何があったの?」


 セドリックが私を見た。

 その目には、困惑があった。


「君に、ずっと独りでいてほしいわけじゃない」

「でも、私が誰かと結婚を考え始めたら、今までと同じ手紙は続けられないわ」

「それは、分かっているよ」


 分かっている。

 なのに、自分の結婚は知らせなかった。


「僕たちは、婚約していたわけではないだろう」


 私は、うなずいた。


「ええ。だから、結婚を迫っているのではないの」


 声が震え、私は一度口を閉じた。


「知らないまま、期待して待っていたくなかった。それだけよ」


 彼は、何か言おうとした。

 私は続けた。


「お母様が病気のとき、来てくれたことは、今も感謝しているわ。あの頃、私はあなたに会うのがとても楽しみだった」


 彼の顔が少し緩んだ。

 私は、その変化を見ながら言った。


「でも、これからも同じように会うことはできません。個人的なお手紙も、もうやめましょう」

「そこまでしなければいけないのかい」

「私は、そうしたいの」


 彼の眉が寄った。


「せっかく帰ってきたのに」


 胸の奥が、すっと冷えた。

 私は彼が帰ってくることを、長い間、自分の幸せのように考えていた。

 彼も、私ならそうしてくれると思っていた。


「お帰りなさい」


 私は言った。


「ご結婚、おめでとうございます。これからは、両家のお付き合いの場で、ご挨拶いたします」


 立ち上がった。

 膝のあたりの布が少し皺になっていた。

 手で整え、客間へ戻った。


 母は何も尋ねなかった。

 伯母が、私に新しいお茶を注いでくれた。

 私はカップを持ち上げ、口をつける前に一度だけ息を吐いた。


     *


 その夜は、泣いた。

 部屋へ戻ったあと、髪をほどく途中で涙が止まらなくなった。


 何年も好きだった。

 名前を呼ばれるのがうれしかった。

 隣国でこんなものを見た、と彼が話すと、自分もその場所に少しだけ連れていってもらえた気がした。


 それらを全部、自分の思い違いだったと片づけるのは苦しかった。

 けれど、いくら思い出しても、彼が結婚した事実は変わらなかった。


 翌朝は、顔がむくんでいた。

 侍女に冷たい布を借り、鏡の前で額に当てた。

 伯母は朝食の席で、今日の外出は休むかと尋ねた。


「少し遅れても、行っていいでしょうか」

「もちろん」


 支援団体から、資料の確認を頼まれていた。

 泣いたままでも約束のことを考えられたのが、私には少し不思議だった。


 その午後、伯爵夫人の屋敷でマティアス様に会った。

 彼は私の顔を見て、何か気づいたようだったが、理由を尋ねなかった。


「今日は、冬の費用の話を少し。疲れたら、途中で休みましょう」


 彼の前に座り、私は資料を開いた。


「お願いします」


 彼はいつものように、紙の端へ項目を書いた。

 私はそれを見ながら、知らずに肩を下ろしていた。


     *


 六月の終わりに、大きな夜会があった。

 私も伯母と招かれていた。

 セドリックとナディーヌ様も出席すると聞いたが、欠席するつもりはなかった。


 鏡の前で、仕立て直した青いドレスを確かめた。

 以前より袖が少し軽くなり、踊るときに腕が動かしやすかった。


 会場でマティアス様を見つけた。

 彼は近づいて挨拶をし、私の持つ小さな舞踏の手帳へ目を向けた。


「一曲、お願いできますか」

「はい」

「では、この曲はいかがでしょう」


 彼が示した曲名を見て、一瞬、指が止まった。

 懐かしい曲だった。

 セドリックと何度か踊っていた。


「ほかに、お約束が?」

「いいえ。ありません」


 私は手帳を渡した。

 彼は名前を書き、それを返した。


 胸が小さく弾んだ。

 誰かの名前が書かれていることよりも、その時間にマティアス様と踊れることがうれしかった。


 しばらくして、セドリックがこちらへ来た。

 妻は少し離れたところで、王都に住む同郷の夫人と話していた。


「あの曲、もうすぐだね」


 彼は、懐かしそうに笑った。

 私の隣には伯母がいた。


「一曲、踊ってくれる?」

「申し訳ありません。その曲は先約があります」


 彼は目を瞬いた。


「そうなのか」

「ええ」


 私は手帳を閉じた。

 彼は、私の手元と顔を見比べた。


「前は、僕のために空けてくれたのに」


 少し笑いながら言った。

 私は、その笑顔を見た。


「ええ。私が、そうしたかったからです」


 彼の笑みが止まった。


「今日は、別の方と約束しました」

「誰と?」


 私が答える前に、伯母が口を開いた。


「リゼットが今夜、誰と踊るかは、この子が決めることです」


 セドリックが伯母を見た。

 伯母は穏やかな顔のまま、言葉を足さなかった。


「失礼。お約束のお時間ですが」


 マティアス様が来ていた。

 彼はセドリックへ会釈をし、私に向き直った。


「リゼット様、よろしいでしょうか」

「はい」


 差し出された手に、自分の手を重ねた。

 伯母に挨拶をし、輪の中へ向かった。


 セドリックがどんな顔をしたのかは、見なかった。

 最初の足を間違えないように、前を向いていた。


     *


 マティアス様は、踊り始める前に尋ねた。


「少し、速い曲ですが、大丈夫ですか」

「久しぶりなので、間違えたらお許しください」

「それは、こちらもお願いします」


 音楽が始まった。

 手の位置が、覚えていたものと少し違った。

 歩幅も違う。

 私は一度だけ足を迷わせ、彼が動きを小さくした。


「失礼しました」

「いえ。次から、少しゆっくり」


 合わせ直すと、踊れた。

 音楽を聞く余裕が戻り、私は顔を上げた。

 マティアス様は、少し緊張した顔をしていた。


「お上手ですね」

「今、一度止まりかけました」

「私もです」


 互いに笑い、次の旋回をした。


 知っている曲なのに、違う踊りのようだった。

 懐かしい夜を再現しようとしなければ、こうして新しい相手とも踊れた。


 曲が終わったとき、私は息を弾ませていた。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」


 彼に伯母のもとまで送ってもらった。

 伯母は私を見るなり、水を渡してくれた。


「ずいぶん楽しそうだったわ」


 私はグラスを受け取り、うなずいた。

 楽しかった、と言ってよかった。


     *


 七月に入ってから、セドリックから手紙が届いた。

 隣国へ戻る前の、王都の宿舎からだった。


 今度は結婚を伏せたことも、私の好意を知りながら手紙を続けたことも、自分の都合だったと書かれていた。


〈君が待っていてくれるのを、当たり前のように考えていた。

 僕のほうで立場が変わっても、君との関係だけは変えずにいたかった。君のこれからを考えていなかった。

 すまなかった〉


 私は二度読み、机へ置いた。

 欲しかった言葉に近かった。

 そのことが、少し悲しかった。


 返事には、謝罪を受け取ったと書いた。

 ただし、以前の文通は再開しないことも。


〈これまでの親切には感謝しています。

 けれど、もう、帰国のたびに私との時間が空いているとは考えないでください〉


 書き終えたあと、私はしばらく机の前に座っていた。

 彼が帰る日を、今度は尋ねなかった。


     *


 七月のある午後、伯母の屋敷で小さな演奏の集まりがあった。

 招いた方が順番に楽器を弾き、弾かない方はお茶を飲む。失敗しても、最初からやり直す必要はないという、伯母の決めた会だった。


 私は短い曲を選んだ。

 練習では何度もつまずいた最後の一頁を、先に何度も弾いておいた。


 それでも、本番では途中の音を一つ外した。

 一瞬、指が止まった。

 先へ進んだ。


 最後の音を弾き終えると、マティアス様が拍手をしていた。

 私が立ち上がると、伯母も楽しそうに手を叩いた。


「終わりまで行けましたね」


 席へ戻った私に、マティアス様が小声で言った。


「はい。真ん中は少し怪しかったですけれど」

「最後は、迷いませんでした」

「そこだけ、ずいぶん練習したんです」


 彼は笑った。


「今度、私も後ろから練習してみます」


 次は彼の番だった。

 席へ着いたときよりも、背中が緊張して見えた。

 私は両手を膝で重ね、耳を澄ませた。


 彼の演奏は、正確なところと、急に慎重になるところがあった。

 同じ旋律が戻ると、さっきより楽そうに弾いた。

 上手な方と比べれば、きっと違いはあるのだろう。

 私は、その指が次にどこへ行くのか、目で追っていた。


 終わると、彼はほっと息をついた。

 私のところへ戻ってきて、苦笑する。


「人前で弾けるほどではないと、申し上げたはずなんですが」

「伯母は、そういう言葉で諦めない方です」

「先に伺っておけばよかった」


 私たちは笑った。

 彼の演奏を、もう一度聞きたいと思った。

 間違えない演奏を、ではなく、彼がまた練習してきたものを。


     *


 その日の食後、彼から庭を歩こうと誘われた。

 伯母は別の客と話しており、私たちは侍女を伴って薔薇の道を進んだ。


 暑い盛りを過ぎるまで、窓の外を歩く人は少なかった。

 白い猫が石段の影にいて、私が呼んでも耳だけを動かした。


「今日は鞄がないので、興味を持たれないんでしょうか」

「撫でられたいときだけ、近づいてきます」


 マティアス様はしゃがみ、猫が自分から手の匂いを嗅ぐのを待った。

 猫は少しだけ鼻を寄せ、それからそっぽを向いた。


「断られました」

「私も、最初はそうでした」


 彼が立ち上がり、上着の裾を払った。

 私は聞こうと思っていたことを、ようやく言葉にした。


「マティアス様は、お忙しいのに、何度もお越しくださいますね」

「毎日ではありませんから」

「診療所の資料は、もう私から申し上げることは少なくなりましたのに」


 彼が私を見た。

 風が通り、薔薇の葉が揺れた。


「父とのお仕事のために、気にかけてくださっているのでしょうか」


 声の終わりが、少し細くなった。

 私は、これで彼を困らせるかもしれないと思った。

 でも、何でもないと取り消すことはしなかった。


「診療所の仕事は、最初のきっかけです」


 彼は言った。


「今は、あなたに会いたくて伺っています」


 胸が、速く打った。


「最初の面談で、冬にも仕事があると教えてくださったでしょう。私はあのあと、自分がほかにも知らないまま決めつけていることがあるのではと、考えました」


 私は黙って聞いた。


「その話を、またあなたとしたかった。けれど、会うと今度は菓子の話や音楽の話もしたくなる。仕事の相談だけなら、屋敷まで何度も伺う必要はありません」


 彼は一度、指先で上着の縫い目をなぞった。


「お迷惑でしたか」


 私は首を横に振った。


「いらっしゃらない集まりでは、今日はお忙しいのかしらと思っていました」


 言ってから、頬が熱くなった。

 彼は、少し目を見開いた。


「そうでしたか」

「はい」


 彼は口元を緩め、それから、改めて姿勢を正した。


「あなたを、お慕いしています。正式に求愛することを、お許しいただけますか」


 私は彼の目を見た。

 人に伝えるための言葉を、丁寧に選ぶ方だった。

 今はその丁寧さが、自分のために向けられていた。


「私も、あなたにお会いするのが楽しみです。もっと、お話ししたいと思っています」


 膝の前で重ねた手を、一度握り直した。


「よろしくお願いいたします」


 マティアス様が、深く息を吐いた。

 私もつられて笑った。

 お互い、少し緊張していたことが分かった。


 客間へ戻り、伯母に伝えた。

 伯母は私たちを見比べ、うなずいた。


「では、伯爵夫妻にもお知らせしましょう。私からも手紙を書きます」


 その日の夜、私は母への便箋を広げた。

 何と書き始めればよいか、ずいぶん迷った。

 相手の気持ちを推し量るためではなく、うれしいことを母にどう伝えようかと考えていた。


     *


 求愛を受け入れてから、彼との会話がすべて楽になるわけではなかった。

 むしろ、以前より気になることも増えた。


 八月、約束していた観劇の前日に、官庁で仕事が延びるかもしれないと連絡が来た。

 彼は伯母宛ての手紙に、間に合わない場合は、代わりに母が同行すると書き添えていた。


 私はがっかりした。

 好きな演目だったし、彼と見て、そのあとに感想を話したかった。


 でも、お仕事なら仕方がありません。

 そう返事をして、それきりにしようかと思った。


 伯母が私の顔を見た。


「楽しみにしていたのなら、そのことも書けばいいのでは?」

「責めているように思われませんか」

「仕事を放り出していらして、と言うのでなければ」


 私は短い返事を書いた。

 彼と一緒に見るのを楽しみにしていたので、残念だということ。

 仕事の都合は承知したこと。

 また別の機会に、二人で同じ演目を見たいということ。


 当日はマティアス様の母と、伯母と私の三人で出かけた。

 彼の母はよく笑う方で、幕間には、息子が子どもの頃に芝居の筋を勘違いした話を聞かせてくれた。

 私はその時間も楽しかった。


 数日後、彼が屋敷を訪れた。


「申し訳ありませんでした」

「いいえ。ご連絡もいただいていましたし、お母様にもよくしていただきました」

「母から、手紙で話したのと違う筋だったと笑われました。私は、別の作品と取り違えていたようです」


 私は笑い、物語の筋を説明した。

 彼は途中で口を挟みかけたが、やめて聞いていた。


「今、また取り違えましたね」

「……少し」


 笑い合ってから、彼が言った。


「次は、一緒に見てください。同じ話を、きちんと知っておきたい」

「はい。でも、先に全部お話ししてしまいました」

「あなたがどこで笑ったのかは、まだ分かりませんから」


 私は、また頬が熱くなった。


     *


 診療所への支援が決まったのは、八月の半ばだった。

 希望した額のすべてではなかった。

 冬の前に薬を確保する費用は認められたが、村を回る人手については、翌春の報告を見て再検討するという。


 私は返事を読み、うれしさと落胆を一緒に覚えた。


「薬を届ける人がいなければ、そこも困るのですけれど」


 マティアス様にこぼすと、彼はうなずいた。


「その点は、会合でも話が出ました。薬を買う費用と、人を継続して雇う費用では、必要な約束が違うので」


 詳しく説明され、私は書類を読み直した。

 決めたのは彼一人ではなく、寄付を預かる複数の方々だった。

 彼が私に好意を持っているからといって、望んだものがすべて届くわけではない。


「今年の冬をどうするかは、父と相談します。今ある人手で回せる方法も、もう少し考えてみます」

「はい。次の報告の書き方なら、お手伝いできます」


 私は礼を言った。

 彼が仕事の判断を私への求愛と結びつけないことを、ありがたく思った。


 その日は話が終わってから、伯母の猫が彼の膝に乗った。

 彼は上着が毛だらけになるのを気にせず、ただ、少し驚いた顔で動かなくなった。


「気に入られましたね」

「これは、動いてはいけないんでしょうか」

「そのうち、自分で下ります」


 猫はしばらく下りなかった。

 私は、彼が困った顔で猫の背を撫でるのを見ながら、お茶を飲んだ。


     *


 八月の終わり、私は一度、領地へ戻った。

 出発の日、マティアス様は屋敷まで見送りに来てくれた。


「お戻りは、九月の終わり頃でしたね」

「はい。父と診療所の方針を決めてから、また伺います」


 彼は小さな紙包みを渡した。

 最初の面談の帰りに買った、酸っぱい菓子だった。


「道中に。お口に合わなければ、伯爵に」

「父も、きっと顔をしかめながら食べます」


 彼は笑った。

 私は包みを受け取り、礼を言った。


「お手紙を、差し上げてもいいですか」

「もちろん。私からも、お返事を」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。

 手紙を書くのを楽しみにする自分を、まだ怖がっているところがあった。

 それでも、彼には書きたかった。


 馬車から手を振ると、彼も手を上げた。

 私はその姿が見えなくなるまでではなく、通りを曲がるところまで見ていた。

 膝には、家へ持ち帰る資料があった。


     *


 母は、以前より少しふっくらしたように見えた。

 私がそう言うと、夏に菓子を食べすぎたのだと笑った。


「あなたは、顔つきが変わりましたね」

「そうでしょうか」

「ええ。王都は、楽しかった?」


 私は、楽しかったです、と答えた。

 つらいこともあった。泣いた夜もあった。

 それでも、楽しかったことの話から母にしたかった。


 猫のこと、音楽会のこと、マティアス様が曲を弾いたこと。

 母は時折質問を挟みながら聞いた。


「その方が来なかった日に、あなたから残念だとお伝えしたのね」

「はい。伯母様に、書いてもよいのではと言われて」

「それで、お返事は?」


 私は、別の日に同じ芝居を見る約束をしたことを話した。

 母はうなずき、私の手にそっと触れた。


「あなたの楽しみを、相手も知っていてくれるのね」


 私は、はい、と答えた。


 夕方、父と診療所の話をした。

 家を継ぐ弟も同席し、村へ行く馬車をどの時期に回せるか、帳簿を広げて考えた。

 王都で直した資料を渡すと、弟は分かりやすくなったと言った。


「前のは、姉上の頭の中を一緒に見ないと、意味が取れなかったから」

「そこまで分かりにくかった?」

「少し」


 父が咳払いをしながら笑った。

 私は紙の端へ新しい項目を書いた。

 マティアス様がしていたように、まず話を三つに分けた。


 離れていても、その方を思い出すことはあった。

 思い出したあと、自分の仕事へ戻ることもできた。


     *


 最初の手紙は、帰宅して四日目に届いた。

 王都からの便だった。


 診療所の件で必要な書類が一枚と、私への便箋が入っていた。

 二つは別の封筒に分かれていた。


〈お帰りの道は、暑くありませんでしたか。

 こちらは朝夕、少し涼しくなりました。

 伯母君の猫は、先日も私の上着を毛だらけにしました。次に伺うときには、同じ上着を着ていくつもりです〉


 私は笑った。


 便箋の後半には、一緒に見られなかった演目が、十月にも上演されるとあった。

 九月末に戻る予定が変わらなければ、日を決めたいという。


 自分の予定を確かめ、都合のよい日を書いた。

 猫のための上着を決めるのは賢明だと思う、とも。


 以前も、私は返事を書いていた。

 ただ、いつ帰るか分からない人に、自分はここにいると伝えるような手紙だった。

 今は、次に会う日を相談していた。


 返事が届くまで、毎日何度も窓を見ることはなかった。

 村へ出かけ、母とお茶を飲み、父と相談した。

 それでも郵便が届けば、胸は弾んだ。


 うれしいことまで、我慢する必要はなかった。


     *


 九月の終わりに王都へ戻ると、伯母の猫は私の鞄を覚えていた。

 侍女と二人で笑いながら、それを持ち上げた。


 十月に入ってすぐ、マティアス様が来た。

 彼は私を見ると、言いかけた挨拶を少し詰まらせた。


「お帰りなさい」

「ただいま戻りました」


 声を聞くと、手紙の文字だけでは足りなかったと分かった。

 彼も、私の顔をしばらく見ていた。


「会えて、うれしいです」


 先に言うと、彼ははっきり笑った。


「私もです」


 伯母が猫を抱いて席を外した。

 扉は開いたままで、隣の部屋から侍女の動く音が聞こえた。


「領地でのことを、聞かせていただけますか」


 私は村へ行った話をした。

 途中で彼の仕事の話も聞いた。

 会わなかった一月の間にも、互いにいろいろなことがあった。


 話し終える頃には、お茶が冷めていた。

 彼はそれを飲み、少し真面目な顔になった。


「今日、お話ししたかったことが、もう一つあります」


 私はカップを置いた。


「将来のことを、あなたと相談してもよろしいでしょうか」


 膝の上で、指先を揃えた。

 はい、と答えた声は、少し震えた。


     *


 彼は、すぐに宝石を取り出さなかった。

 まず、自分の仕事の話をした。


「私は、侯爵家を継ぐ立場ではありません。官庁の仕事は、結婚しても続けたいと考えています」


 兄の家に頼りきるのではなく、母方から受け継いだ小さな所領の収入と、自分の俸給で暮らしを立てているという。

 今の住まいは独り者には十分だが、家族で暮らすなら手を入れるか、別の家を探したい、と。


「ただ、私一人で決めるつもりはありません。あなたが、領地の仕事をどのように続けたいかも伺いたいのです」


 私は少し考えた。


「父の手伝いは、これからは弟へ移していく部分もあります。でも、診療所のことには、できれば関わり続けたいです」

「はい」

「王都で資料をまとめるだけでなく、春や秋には、何週間か領地で過ごしたいと思います」


 彼は、すぐに何でもできるとは言わなかった。


「私は、毎回はご一緒できないかもしれません。官庁の都合があるので」

「ええ。それは、承知しています」

「でも、休暇を相談して、行けるときには伺いたい。あなたが話してくださった場所を、私も見たいです」


 私はうなずいた。

 話してみれば、考えなければならないことは、いくつもあった。

 訪問の日程、王都での住まい、留守中の連絡。

 それでも、一つ話すごとに、気持ちは軽くなった。


「ご不安なことは、ほかにもありますか」


 尋ねられ、私は正直に答えた。


「まだ、知らないことが多いと思います。あなたのことも、結婚して暮らすことも」

「私もです」


 彼は少し笑った。


「ですから、分からないことを、分からないままにしないようにしたい」


 私は顔を上げた。

 彼は、私を見ていた。


「リゼット様。あなたと、家族になりたいと思っています。私と結婚していただけますか」


 胸の奥が、じんと熱くなった。


 優しい言葉を言われたことはある。

 また会おうと約束したこともある。

 今は、何を申し込まれたのか、何に答えるのか、分かっていた。


「はい」


 私は答えた。


「私も、あなたと暮らしたいです」


 彼は、しばらく何も言わなかった。

 顔を見ていると、私のほうが泣きそうになった。


「よかった」


 彼は小さく言い、それから、もう一度言った。


「ありがとうございます」


 私は首を横に振った。

 お礼を言うことではない気がした。

 でも、自分も同じ言葉を言いたかった。


「こちらこそ」


 隣の部屋へ伯母を呼ぶと、伯母は猫を抱えたまま現れた。

 私たちの顔を見て、何が決まったのか分かったらしい。


「では、次はご両親とお話しする日を決めましょうね」


 猫が、小さく鳴いた。


     *


 父と母は、十月の半ばに王都へ来ることになった。

 事前に私から手紙を書き、マティアス様からも正式な申し入れが送られた。

 父は、本人の話を聞くのを楽しみにしていると返してきた。


 挨拶の前日、私は手紙の箱を片づけた。

 セドリックの便箋は、青い紐で束ねたまま、別の小箱へ移した。


 母を心配してくれた言葉も、知らない国の挿絵も、そこにあった。

 私は、その一枚一枚を読み直さなかった。

 あの頃の自分が喜んだことまで、間違いにはしたくなかった。

 ただ、彼がどんな意味で書いたのかを、これから先も探すつもりはなかった。


 蓋を閉めた。

 侍女に頼んで、季節外れの品を収める棚へ運んでもらった。


 机に残ったのは、マティアス様からの手紙だった。

 訪問の日付と、午後二時に伺うという約束が記されている。


 翌朝、私は青いドレスを選んだ。

 母が、真珠の首飾りの留め具を確かめてくれた。


「緊張していますか」

「はい」

「お父様もよ。朝から、書斎の椅子の位置を二度変えていらっしゃるわ」


 私は笑った。

 母も笑い、それから鏡越しに私を見た。


「よく、お似合いです」


 昼食を済ませると、伯母は使用人たちにお茶の支度を頼んだ。

 猫は、知らない人の気配を察したのか、窓辺に陣取った。


 二時が近づいた。

 私は一度、窓から通りを見た。

 見覚えのある馬車が曲がってくるところだった。


 窓を離れた。

 侍女に、玄関へ行きますと伝えた。


 彼を迎えるのが、楽しみだった。

 父が何を尋ねるか、少し心配でもあった。

 話が済んだら、先日買った菓子を一緒に食べたいと思った。


 玄関の扉が開いた。

 マティアス様は、いつもの上着より少し改まった装いで立っていた。

 手には花束があった。


 私を見つけると、彼の顔がほころんだ。


「約束より、少し早かったでしょうか」

「いいえ。お待ちしていました」


 彼が花を差し出した。

 私は受け取り、その間から彼の顔を見上げた。


「父も、母も」


 付け加えると、彼はまた少し緊張した。

 私は笑って、空いた手を差し出した。


「一緒に参りましょう」


 彼がその手を取った。

 応接室の向こうから、父の咳払いが聞こえた。


 私は彼と顔を見合わせ、今度は声を立てずに笑った。



~完~


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