「君を迎えに来る」と言った幼馴染は、隣国で結婚していました
その方は、私に会うのを楽しみにしていると書いていた。
淡い菫色の封筒だった。
封蝋には、よく知っている家の紋章が押されている。それなのに、宛名を書いた筆跡には見覚えがなかった。
窓の外では、庭師が薔薇の枝を整えていた。
まだ花のない四月の庭を眺めてから、私はもう一度、便箋へ目を落とした。
〈突然のお便りをお許しください。
ナディーヌ・ヴァレと申します。一月に、セドリックと婚姻を結びました。
六月には夫の帰国に同行いたします。幼い頃から親しくなさっているリゼット様に、ぜひご挨拶できればと筆を取りました。
夫から、故郷のお話はよく聞いております。私もお目にかかれる日を、楽しみにしております〉
婚姻、という文字を指でなぞりかけ、手を止めた。
インクはとうに乾いている。
それでも、触れたら何かが変わってしまう気がした。
「お嬢様、お返事の紙をお持ちいたしましょうか」
侍女に尋ねられ、私は顔を上げた。
「……少し、あとで」
声が、自分でも驚くほどかすれた。
ナディーヌ・ヴァレ。
セドリックの奥様。
彼には、奥様がいた。
引き出しを開けた。
上に載せてあった手紙は、二月の日付だった。受け取ったのは三月に入ってからで、いつもより雪が多く、街道で配達が遅れたと聞いた。
〈今度の帰国は六月になりそうだ。
その頃には君も王都へ来られるだろうか。帰ったら、君を迎えに行く。久しぶりに、二人で踊ろう〉
私はこの手紙を、何度も読んでいた。
青いドレスを仕立て直そうかと考えた。彼が前に、その色はよく似合うと言ってくれたから。
二枚の便箋を、机に並べた。
片方の文字は大きく、少し右へ傾いていた。
もう片方は、細く整っていた。
どちらも、嘘を書いているようには見えなかった。
*
「お母様。セドリックが、ご結婚なさったそうです」
母は、刺繍の手を止めた。
「セドリック様が?」
うなずいて手紙を渡すと、母の表情が静かに変わった。
便箋を持つ指に、わずかに力が入ったのが分かった。
「……あなたは、今、知ったのね」
「はい」
母は手紙を畳まなかった。
机の上にそっと置き、私に座るよう勧めた。
「こちらには何も伺っていません。お父様にも確認しましょう」
「私が、何か勘違いしていたのでしょうか」
母が私を見た。
「あの方が私にお会いになるのは、子どもの頃からの付き合いだから。手紙も、お贈り物も。それだけだったのかもしれません」
言葉にすると、ひどく子どもじみたことを話している気がした。
二十三歳にもなって、幼馴染の親切を求愛と取り違えた。
そういう話なのだろうか。
「彼から、結婚のお申し入れはなかったのね」
「……ありません」
父にも、以前、同じことを聞かれた。
私は、まだ、と答えた。
父はそこで、縁談の話はなかったものとして扱うと告げた。誰かから紹介の申し出があれば、私の耳にも入れる、と。
両親は、私たちを婚約者とは考えていなかった。
私も口にはしなかった。
ただ、私の中にだけ、その先の期待があった。
「でも、結婚なさったことまで、知らされずにいて平気である必要はありませんよ」
母の言葉に、私は顔を上げた。
「まず、ご本人に確かめましょう。奥様のお便りには、あなたを傷つけるつもりなど見えません。今、返事を急ぐこともないでしょう」
私はうなずいた。
泣かずに部屋を出られた。
自室の扉を閉め、侍女を下がらせてから、椅子に座り込んだ。
手紙を見つけた朝の喜びが、まだ体に残っていた。
同じ紋章だったから、彼からだと思ったのだ。
*
私たちの領地と、ヴァレ子爵家の領地は近かった。
子どもの頃は両親に連れられて互いの屋敷を訪れた。二歳年上のセドリックは、庭の木に登るのがうまく、私はその下で見張り役をさせられた。
彼が隣国の公使館に勤めるようになったのは、五年前のことだった。
次男として自分の仕事を得たのだと、出発の日は誇らしそうだった。
私は寂しかったが、恋をしていたかと聞かれれば、あの頃はまだ違ったと思う。
変わったのは、その翌年だった。
母が肺を患い、長く療養することになった。
医師は回復を待ちましょうと言った。
待つ以外にできることが少ないのが、私はつらかった。
母の部屋に本を運び、花を替え、午後になれば父の書斎を手伝った。招待は断った。
夜会で笑っていて、もしその間に母の容体が変わったらと思うと、出かけられなかった。
短い休暇で帰国したセドリックは、そんな私を訪ねてきた。
母の体調を尋ねたあと、隣国の宮殿の宴から戻った夜、宿舎で靴を片方なくした話をした。
「どうやってなくしたの?」
「それが分かれば、なくしてない」
夜遅くに宿舎へ帰り、玄関で靴を脱いだところまでは覚えているらしい。
翌朝、使用人たちが探してくれて、片方だけ中庭の犬小屋から見つかったという。
「よほど気に入られたのね」
「履いて行ったら、みんな靴ばかり見るんだ。噛み跡も、磨くと案外目立たなかったのに」
私は吹き出した。
自分がそんなふうに笑えることを、久しぶりに思い出した。
それから彼は、帰国のたびに訪ねてくれた。
贈り物は高価な宝石ではなく、見たことのない菓子や、異国の挿絵が入った本だった。
母の回復が進むと、庭を歩こうと誘ってくれた。
「リゼットは、少し外へ出たほうがいい」
「お母様の具合が、また悪くなったらと思うと」
「今日は伯爵もいらっしゃる。庭なら、すぐ呼びに来てもらえるよ」
彼は私の気持ちを全部理解したわけではなかった。
ただ、一緒に歩いてくれた。
母が普段の生活へ戻った頃には、私はセドリックの帰国を待つようになっていた。
彼の話に笑いたかった。彼にも、私の話で笑ってほしかった。
以前より元気になった母は、私に王都へ行くよう勧めた。
伯母からも、屋敷に滞在しないかと何度か誘われた。
私は日程を決めなかった。
セドリックがいつ戻るか、分からなかったから。
昨年の秋、縁談の話が続いて少し疲れていたとき、彼にそれをこぼしたことがある。
「周りが気にかけてくださるのは、ありがたいの。でも、誰と暮らすのかも決まっていないのに、早く決めなさいと言われても」
「そんなに焦らなくていい」
彼は笑った。
「僕が戻ったら、迎えに来るから」
私は、その言葉を覚えていた。
どこへ、と聞かなかった。
彼がどんなつもりで言ったのかも、確かめなかった。
手紙を束ねた青い紐をほどくと、懐かしい匂いがした。
一番下には、母の病気を気遣った短い手紙がある。
あのときの言葉まで嘘だったとは、思えなかった。
でも、その上に重なった年月の中で、彼には別の人生が始まっていた。
私の知らないところで。
*
セドリックには、結婚のお祝いと、知らせを受け取ったことを書いた。
自分には報告がなかったので、本人の言葉で事情を聞きたいとも。
隣国の都まで、通常の便なら片道十日ほどかかる。
往復を待つあいだ、私は父の書斎へ通った。
領内の診療所の帳簿を確かめ、昨冬の記録をまとめた。
冬のあいだ患者が少なくなるのは、病人が減るからではない。山側の村から、診療所へ来る道が塞がるからだ。
それを王都の支援団体へ伝えるための資料だった。
計算している間は、数字のことを考えられた。
けれど、夕方に郵便が運ばれてくると、ペン先が止まった。
四月の終わりに届いた返事は、思っていたより短かった。
〈知らせが遅くなってすまない。
一月に、こちらで結婚した。妻はこの国の男爵家の娘で、ナディーヌという。
帰国のときに、きちんと話すつもりだった。驚かせてしまったね。
でも、君とはこれからも変わらず会いたい。六月には、例年どおり夜会へ行こう〉
手紙を机に置いた。
窓を開けると、湿った土の匂いがした。
彼は、これで話が済んだと思っているのだろうか。
私は新しい便箋を出した。
何度か書き直した末に、初めて、自分の気持ちを文字にした。
〈私は、あなたが迎えに来るとおっしゃった言葉に、将来への期待を抱いていました。
正式なお申し入れがなかったことは、承知しています。けれど、ご結婚を知らないまま、そのあとのお誘いを喜んでいたことは、つらく感じています〉
読み返すと、指先まで熱くなった。
こんなことを伝えれば、彼に好意が知られる。
知ってほしかったのではなかったか。
いつか、向こうから気づいてくれるのを待っていたのではなかったか。
私は封をした。
*
五月の初め、王都へ向かうことにした。
伯母は、父の姉で、王都に屋敷を持つ伯爵家の未亡人だった。
領地から馬車で三日。出発が決まると、仕立て直しに出していたドレスや、持っていく本のことを考えるだけで忙しくなった。
青いドレスも鞄に入れた。
母がそれを見て、手を止めた私に言った。
「あなたが気に入っているなら、着ればいいのよ」
私は布を撫でた。
柔らかい光沢のある、好きな色だった。
父は出発前に、私を呼んだ。
「先方の手紙で傷ついたからといって、急いで縁談を決める必要はない」
「はい」
「診療所の説明も、お前一人に背負わせるつもりはない。分からないことは、持ち帰りなさい」
父の机には、私がまとめた資料が置かれていた。
端の計算違いを一か所直した跡があり、私はそれを見つめた。
「……次は、間違えないようにします」
「計算は私も間違える。だから人に見てもらうんだ」
父は資料を揃え、私に渡した。
「行っておいで」
馬車に乗ってから、振り返った。
父の隣で母が手を振っていた。
私は窓から手を振り返した。
セドリックの帰国まで、まだ一月以上あった。
そのあいだを、ただ待って過ごすのはやめようと思った。
*
王都の伯母の屋敷には、白い猫がいた。
初めて見る私の鞄に前足をかけ、侍女が持ち上げようとすると、ひどく不満そうに鳴いた。
「その子の荷物ではありませんよ」
伯母が言っても、猫は動かなかった。
結局、私は鞄を開ける前に、中身より猫の機嫌をどうにかしなければならなかった。
「お母様から聞いていらっしゃいますか」
お茶の席で尋ねると、伯母はうなずいた。
「ええ。でも、あなたから話したくなったら聞きます。今日でなくてもいいし、話さなくてもいいわ」
それから、私の前へ小さな菓子皿を寄せた。
「明後日の支援団体との面談には、私も同席します。資料は明日、一緒に見ましょう。今日は休みなさい」
その晩、私は枕が違うことよりも、廊下を猫が走る音を気にして眠った。
明け方に一度目が覚めたが、手紙の箱を開けることはなかった。
*
支援団体は、王都の診療所や地方の施療事業へ寄付を取り次いでいた。
面談は、代表を務める老伯爵夫人の屋敷で行われた。
私と伯母の向かいに、伯爵夫人と、書類を持った男性が座った。
「支援の報告書を確認してくださっている、マティアス・オルディ様です」
紹介され、私は挨拶をした。
侯爵家の次男で、官庁に勤めている方だと、伯母から聞いていた。
支援団体では、本務とは別に、会計や報告の整理を手伝っているらしい。
落ち着いた灰色の上着を着ていた。
私よりいくつか年上で、机に置いた手の指が長かった。人を見るとき、顔だけでなく体ごと向き直る人だった。
「こちらが、昨年の診療の記録です」
私は資料を渡した。
説明を始めると、声が思うより速くなった。
伯爵夫人はうなずきながら聞いてくださった。
マティアス様は数字を確かめ、冬の欄でペンを止めた。
「この時期は患者数が減っていますね。薬の使用も少ない」
「はい。ただ、病気の方が減ったわけではありません」
「診療所に来られない?」
「山側の村からの道が、雪で通れなくなります」
私は別の紙を出した。
道筋と村の位置を、簡単に描いたものだった。
「春になってから、冬のあいだの具合を聞きに回ります。こちらの記録は、そのときのものです」
彼は二枚を並べた。
「診療所で治療した人数と、村で聞き取った人数は、分けて報告したほうがよさそうですね。重なっている方もいますか」
「はい。今の書き方では、分かりにくいでしょうか」
「分からないというより、この資料だけを受け取った人が、重ねて数える可能性があります」
私は書き留めた。
隣で伯母がお茶を飲む音がした。
「道が通れないのでしたら、冬の前に診療所でまとめて診てもらうのは難しいですか」
彼に尋ねられ、私は少し考えた。
「出かけるだけで仕事を一日休むことになります。冬支度をしている家には、それも難しくて」
「収穫が終わったあとでも?」
「燃料を集めたり、家畜の世話をしたり。収穫が終われば仕事がなくなるわけではありません」
つい、強い言い方になった。
彼はペンを置き、私を見た。
「なるほど。私は、動ける時期なら来られると簡単に考えていました」
謝られるのかと思い、私は姿勢を正した。
「その事情も書き添えていただけますか。寄付をする側にも、知ってもらいたいので」
私は、はい、と答えた。
反論を嫌がられたわけではなかった。
面談の後半、彼の説明は細かくなった。
寄付金をいつ届け、どの費用と分けて報告し、翌年の見込みをどこへ書くのか。
途中で私の手が止まった。
「申し訳ありません。今のところを、もう一度お願いできますか」
マティアス様も止まった。
「……一度に話しすぎましたね」
「私の書くのが遅くて」
「いえ。紙に順序を書きます」
彼は余白に項目を三つ並べた。
一つずつ説明されると、今度は理解できた。
「分かりました。ありがとうございます」
彼がほっとしたように笑った。
初めて見たその笑顔に、私も少し安心した。
*
帰りの馬車で、伯母に尋ねた。
「私、失礼な言い方をしませんでしたか」
「冬にも仕事がある、というところ?」
「はい」
「言ってよかったと思いますよ。あちらも、それを聞くために時間を取ったのでしょう」
伯母は膝の上の手袋を揃えた。
「声が大きかったかどうかより、伝えるべきことを伝えられたか、考えなさい」
私は窓の外を見た。
通りには色とりどりの店先が並んでいた。
知らない菓子の名前が、看板に書かれていた。
彼ならこの菓子を知っているだろうか、と考えかけた。
セドリックではなく、私が一人で買ってみればいいのだと思い直した。
「伯母様。あのお店に、今度寄ってもいいですか」
「今からでも構いませんよ」
御者へ声をかけてもらい、私は伯母と店へ入った。
買った焼き菓子は思ったより酸っぱかった。
二つ目を食べる頃には、その酸っぱさが気に入っていた。
*
セドリックからの二度目の返事は、伯母の屋敷へ転送されてきた。
宛先が変わることは、出発前に知らせてあった。
〈迎えに行くと言ったのは、夜会への誘いのつもりだった。
将来の約束をしたと受け取らせたのなら、申し訳なく思う。
君は大切な友人だ。帰ったら、一度きちんと話そう〉
私は最後まで読んで、封筒へ戻した。
将来の約束ではなかった。
そう言われれば、そのとおりだった。
伯母の屋敷の窓からは、自宅とは違う庭が見えた。
母の病気が心配で動けなかった頃の私は、もっと狭い窓から外を見ていた。
彼はそこへ来てくれた人だった。
それから母は回復した。
父は、王都へ行っておいでと言った。
伯母も部屋を空けてくれていた。
それでも、私は同じ窓辺にいた。
手紙を箱へしまった。
その日は、資料の書き直しを終えることにした。
*
五月半ばの昼食会で、マティアス様と再会した。
伯母が友人を招いた小さな集まりで、診療所の支援に関わる方も何人か来ていた。
「先日は、ありがとうございました」
私から挨拶すると、彼はすぐに私を思い出した。
「こちらこそ。書き直した資料、拝見しました。父君から補足の手紙も届いています」
「不足はありませんでしたか」
「今のところは。今度は、私の説明が長くならないよう気をつけます」
彼が真面目な顔で言ったので、私は笑ってしまった。
昼食の席は、伯母の采配で斜め向かいになった。
料理の話になり、私が王都で買った酸っぱい菓子の話をすると、彼は店の名前を知っていた。
「あそこの店主は、酸味がないと菓子を認めないんじゃないかと、兄が言っています」
「お兄様は、お好きではないんですか」
「買って帰ると食べます。ただ、食べるたびに顔をしかめる」
「それは、好きなのでは」
「私もそう言うんですが、本人は否定します」
侯爵家の兄弟にも、そんな会話があるらしかった。
食後、伯母が庭の薔薇を見せた。
まだ数輪しか開いていなかったが、枝には蕾が並んでいた。
大勢で歩くうち、私はマティアス様と少し長く話すことになった。
「王都には、しばらく滞在されるのですか」
「はい。期限は決めていませんが、夏の終わりには一度、領地へ戻ろうかと」
「では、来週の音楽会にも?」
伯母が招かれている集まりだった。
「伯母とご一緒するつもりです」
「それなら、またお会いできますね」
その言葉に、私は少しだけ返事を迷った。
ただの挨拶かもしれない。
挨拶なら、挨拶として返せばよかった。
「はい。楽しみにしております」
彼はうなずき、それから庭の先を見た。
「あの白いのは、置物ですか」
薔薇の間に、猫が座っていた。
顔だけこちらを向け、動かない。
「違います。鞄を占領するほうです」
彼が私を見て、それから声を出して笑った。
*
音楽会には、青いドレスを着て行った。
伯母に、別のものにするか尋ねられたが、私は首を横に振った。
「この色が好きなので」
「ええ。よく似合っているわ」
首飾りは、母から借りた真珠にした。
セドリックに以前もらったリボンは、引き出しへ戻した。
会場でマティアス様に会った。
彼は、私のドレスを褒めた。
私はありがとうございますと答え、それ以上の意味を探さなかった。
演奏の前半は、よく知っている曲だった。
後半には初めて聞く曲があった。
休憩中、私が好きだった箇所を話すと、マティアス様はそこよりも前の旋律が気になったと言った。
「あの楽器が重なったところですか」
「はい。もう一度聞きたいんですが、頭の中でうまく再現できなくて」
彼は指を少し動かしかけ、途中でやめた。
「弾けるのですか」
「子どもの頃に習いました。今は、人前で弾けるほどでは」
「私もです。途中で分からなくなると、最初から弾き直してしまいます」
「それでは、最後のほうほど練習できませんね」
私は笑った。
まさにそのとおりだった。
帰りの馬車で、その話を伯母にすると、伯母も笑った。
「明日、最後の一頁から弾いてみなさい」
「できるでしょうか」
「最初からではできなかったのだから、一度くらい逆から試しても損はないわ」
屋敷へ戻ると、私は久しぶりに楽譜を出した。
*
五月の終わり、私は伯母にマティアス様のことを尋ねた。
「ご結婚も、ご婚約もなさっていないのですよね」
伯母は持っていた本を閉じた。
「そう伺っています。ただ、お付き合いのことは、あちらのご家族にも確かめましょう」
数日後、伯母は彼の母に確認したと教えてくれた。
現在、決まった相手はいないという。
「ただ、あなたが気になるなら、ご本人とも話すのですよ。私が確認できるのは、今、伺ったことまでです」
私はうなずいた。
伯母の言葉を聞いても、すぐに安心して恋に落ちるわけではなかった。
でも、知りたいことを尋ねるのを、恥ずかしがらずに済んだ。
まだセドリックとの話は終わっていない。
それでも、王都へ来てからの日々は、彼の帰国までの日数だけではなくなっていた。
診療所の資料には、返事が届いていた。
楽譜の最後の一頁は、つまずきながらなら弾けるようになった。
伯母の猫は、私の膝にも座るようになった。
六月が来た。
*
セドリックが帰国し、ヴァレ子爵夫妻とともに伯母の屋敷を訪ねる日が決まった。
父と母も、それに合わせて王都へ来ることになった。
私は、まだナディーヌ様への返事を出していなかった。
本人に事実を確かめたあとも、何を書けばよいのか分からなかったのだ。
帰国の日程が届いたとき、ようやく短いお祝いと、挨拶をお待ちしているという手紙を送った。
セドリックに会うのは、昨年の秋以来だった。
その間に、私は二十三歳になった。
彼は二十五歳になり、結婚していた。
客間へ入る前、廊下で母が私の手に触れた。
「つらければ、長く座っていなくてもいいのよ」
「はい」
扉が開いた。
立ち上がったセドリックは、少し日焼けしていた。
「リゼット。久しぶり」
いつもの声だった。
隣で、一人の女性が微笑んだ。
淡い金色の髪をきちんと結い上げ、小さな青い石の耳飾りを着けていた。
「初めまして。ナディーヌと申します」
私は挨拶を返した。
彼女の声も、その手紙と同じように穏やかだった。
「お便りをいただき、ありがとうございました。お返事が遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いいえ。こちらこそ、突然お手紙を差し上げてしまって」
皆が席に着いた。
セドリックの母が、私の母へ話しかけた。
「今回ようやくご紹介できて、うれしく思っております。お知らせだけで、お祝いのお礼もきちんとできずに」
母が、わずかに言葉を選んだ。
「ええ。先日、ナディーヌ様から娘へお便りをいただきました。私どもも、その折に結婚を伺いまして」
子爵夫人の目が、息子へ向いた。
「セドリック。あなたからお知らせすると言ったでしょう」
彼は、持ち上げかけたカップを置いた。
「……帰ってから、直接と思って」
「一月のお話よ」
父が静かに口を開いた。
「ご結婚のことは、伺いました。今日は新しいご家族をご紹介いただいた日ですから」
父はナディーヌ様に向き直り、道中は疲れなかったかと尋ねた。
彼女は一瞬セドリックを見たあと、父に答えた。
話題は国境の道や、この季節の王都のことへ移った。
私はお茶を飲んだ。
味が分かることに、少し安心した。
ナディーヌ様は、自国では見慣れない庭の花を楽しんでいた。
母が名前を教えると、手帳に書き留めていた。
「夫から、お庭で遊んだお話も聞いております。木に登って叱られたことがあるそうですね」
私に尋ねられ、うなずいた。
「見張りを頼まれたのに、すぐ見つかってしまって」
「リゼットが、母上に木のほうを見ないよう頼むからだよ」
セドリックが笑った。
私も昔を思い出し、少しだけ笑った。
それから、ナディーヌ様のほうを見た。
「私まで、一緒に叱られました」
ナディーヌ様が笑った。
私も、あの頃の庭を思い出した。二人で叱られていた子どもが、こうして別々の人と向き合う大人になったのだ。
別れ際、セドリックが小さな包みを差し出した。
見慣れた隣国の菓子店の紐だった。
「君の好きなもの。覚えているだろう?」
手が動きかけた。
私は母のほうへ半歩寄った。
「ありがとうございます。皆でいただきますね」
彼はわずかに口を開き、それから包みを母へ渡した。
ナディーヌ様も、おいしい菓子だと話した。
私はその説明を聞き、丁寧に礼を述べた。
彼だけが、私の顔をもう一度見た。
*
三日後、今度はヴァレ子爵夫妻が、父との用件で屋敷へ来た。
セドリックも同行した。
ナディーヌ様は、その日は王都に滞在する隣国の知人を訪ねていると聞いた。
母に、セドリックと話したいと伝えた。
母はうなずき、客間から見える庭のベンチを示した。
私たちはそこへ座った。
開いた窓の向こうには、母と伯母がいた。
「王都へ来ていたんだね」
彼は、まずそう言った。
「ええ。五月から」
「手紙では、診療所の用件と書いてあったけれど」
「それもあります。伯母の集まりに出たり、音楽を聞きに行ったりもしています」
彼はうなずいた。
「母上には、叱られたよ。知らせたと思っていたって」
「そうだったのね」
私は膝の上で手を重ねた。
彼の叱られた話を聞くために来たのではなかった。
「なぜ、私には言わなかったの?」
「手紙にも書いたけれど、帰ってから話そうと思ったんだ」
「結婚なさったのは、一月でしょう」
「うん」
「そのあとにも、お手紙はいただいているわ」
彼は視線を落とした。
昔なら、私はここで別の話をしていたかもしれない。
困らせたくなかったから。
「私が、あなたを好きなのは、分かっていた?」
木の葉が風で鳴った。
彼は顔を上げたが、すぐに返事をしなかった。
「……好いてくれているのかもしれないとは、思っていた」
目の奥が熱くなった。
知られたかった気持ちが、すでに知られていた。
「だから、言えなかった?」
「リゼット」
「教えてほしいの。私が受け取り違えただけなら、そう思って、これからを考えたいから」
彼は両手を組んだ。
「結婚を伝えたら、君からの手紙が来なくなると思った」
私は黙って聞いた。
「僕が帰ってくるのを、こんなに楽しみにしてくれる人は、あまりいない。君とは子どもの頃からの話ができるし、何も気を張らなくていい。だから」
「だから、知らないままでいてほしかったの?」
彼は答えなかった。
「ナディーヌ様とのご結婚は、お二人が望んだものなのよね」
「もちろん。彼女と結婚したかった」
はっきりした声だった。
その言葉に傷つきながら、私はうなずいた。
彼にとって結婚が、仕方なく選んだものではないことは分かった。
「それなら、私はどうして、あなたを待っていればよかったのでしょう」
息を吸った。
「私が待って、その先には何があったの?」
セドリックが私を見た。
その目には、困惑があった。
「君に、ずっと独りでいてほしいわけじゃない」
「でも、私が誰かと結婚を考え始めたら、今までと同じ手紙は続けられないわ」
「それは、分かっているよ」
分かっている。
なのに、自分の結婚は知らせなかった。
「僕たちは、婚約していたわけではないだろう」
私は、うなずいた。
「ええ。だから、結婚を迫っているのではないの」
声が震え、私は一度口を閉じた。
「知らないまま、期待して待っていたくなかった。それだけよ」
彼は、何か言おうとした。
私は続けた。
「お母様が病気のとき、来てくれたことは、今も感謝しているわ。あの頃、私はあなたに会うのがとても楽しみだった」
彼の顔が少し緩んだ。
私は、その変化を見ながら言った。
「でも、これからも同じように会うことはできません。個人的なお手紙も、もうやめましょう」
「そこまでしなければいけないのかい」
「私は、そうしたいの」
彼の眉が寄った。
「せっかく帰ってきたのに」
胸の奥が、すっと冷えた。
私は彼が帰ってくることを、長い間、自分の幸せのように考えていた。
彼も、私ならそうしてくれると思っていた。
「お帰りなさい」
私は言った。
「ご結婚、おめでとうございます。これからは、両家のお付き合いの場で、ご挨拶いたします」
立ち上がった。
膝のあたりの布が少し皺になっていた。
手で整え、客間へ戻った。
母は何も尋ねなかった。
伯母が、私に新しいお茶を注いでくれた。
私はカップを持ち上げ、口をつける前に一度だけ息を吐いた。
*
その夜は、泣いた。
部屋へ戻ったあと、髪をほどく途中で涙が止まらなくなった。
何年も好きだった。
名前を呼ばれるのがうれしかった。
隣国でこんなものを見た、と彼が話すと、自分もその場所に少しだけ連れていってもらえた気がした。
それらを全部、自分の思い違いだったと片づけるのは苦しかった。
けれど、いくら思い出しても、彼が結婚した事実は変わらなかった。
翌朝は、顔がむくんでいた。
侍女に冷たい布を借り、鏡の前で額に当てた。
伯母は朝食の席で、今日の外出は休むかと尋ねた。
「少し遅れても、行っていいでしょうか」
「もちろん」
支援団体から、資料の確認を頼まれていた。
泣いたままでも約束のことを考えられたのが、私には少し不思議だった。
その午後、伯爵夫人の屋敷でマティアス様に会った。
彼は私の顔を見て、何か気づいたようだったが、理由を尋ねなかった。
「今日は、冬の費用の話を少し。疲れたら、途中で休みましょう」
彼の前に座り、私は資料を開いた。
「お願いします」
彼はいつものように、紙の端へ項目を書いた。
私はそれを見ながら、知らずに肩を下ろしていた。
*
六月の終わりに、大きな夜会があった。
私も伯母と招かれていた。
セドリックとナディーヌ様も出席すると聞いたが、欠席するつもりはなかった。
鏡の前で、仕立て直した青いドレスを確かめた。
以前より袖が少し軽くなり、踊るときに腕が動かしやすかった。
会場でマティアス様を見つけた。
彼は近づいて挨拶をし、私の持つ小さな舞踏の手帳へ目を向けた。
「一曲、お願いできますか」
「はい」
「では、この曲はいかがでしょう」
彼が示した曲名を見て、一瞬、指が止まった。
懐かしい曲だった。
セドリックと何度か踊っていた。
「ほかに、お約束が?」
「いいえ。ありません」
私は手帳を渡した。
彼は名前を書き、それを返した。
胸が小さく弾んだ。
誰かの名前が書かれていることよりも、その時間にマティアス様と踊れることがうれしかった。
しばらくして、セドリックがこちらへ来た。
妻は少し離れたところで、王都に住む同郷の夫人と話していた。
「あの曲、もうすぐだね」
彼は、懐かしそうに笑った。
私の隣には伯母がいた。
「一曲、踊ってくれる?」
「申し訳ありません。その曲は先約があります」
彼は目を瞬いた。
「そうなのか」
「ええ」
私は手帳を閉じた。
彼は、私の手元と顔を見比べた。
「前は、僕のために空けてくれたのに」
少し笑いながら言った。
私は、その笑顔を見た。
「ええ。私が、そうしたかったからです」
彼の笑みが止まった。
「今日は、別の方と約束しました」
「誰と?」
私が答える前に、伯母が口を開いた。
「リゼットが今夜、誰と踊るかは、この子が決めることです」
セドリックが伯母を見た。
伯母は穏やかな顔のまま、言葉を足さなかった。
「失礼。お約束のお時間ですが」
マティアス様が来ていた。
彼はセドリックへ会釈をし、私に向き直った。
「リゼット様、よろしいでしょうか」
「はい」
差し出された手に、自分の手を重ねた。
伯母に挨拶をし、輪の中へ向かった。
セドリックがどんな顔をしたのかは、見なかった。
最初の足を間違えないように、前を向いていた。
*
マティアス様は、踊り始める前に尋ねた。
「少し、速い曲ですが、大丈夫ですか」
「久しぶりなので、間違えたらお許しください」
「それは、こちらもお願いします」
音楽が始まった。
手の位置が、覚えていたものと少し違った。
歩幅も違う。
私は一度だけ足を迷わせ、彼が動きを小さくした。
「失礼しました」
「いえ。次から、少しゆっくり」
合わせ直すと、踊れた。
音楽を聞く余裕が戻り、私は顔を上げた。
マティアス様は、少し緊張した顔をしていた。
「お上手ですね」
「今、一度止まりかけました」
「私もです」
互いに笑い、次の旋回をした。
知っている曲なのに、違う踊りのようだった。
懐かしい夜を再現しようとしなければ、こうして新しい相手とも踊れた。
曲が終わったとき、私は息を弾ませていた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
彼に伯母のもとまで送ってもらった。
伯母は私を見るなり、水を渡してくれた。
「ずいぶん楽しそうだったわ」
私はグラスを受け取り、うなずいた。
楽しかった、と言ってよかった。
*
七月に入ってから、セドリックから手紙が届いた。
隣国へ戻る前の、王都の宿舎からだった。
今度は結婚を伏せたことも、私の好意を知りながら手紙を続けたことも、自分の都合だったと書かれていた。
〈君が待っていてくれるのを、当たり前のように考えていた。
僕のほうで立場が変わっても、君との関係だけは変えずにいたかった。君のこれからを考えていなかった。
すまなかった〉
私は二度読み、机へ置いた。
欲しかった言葉に近かった。
そのことが、少し悲しかった。
返事には、謝罪を受け取ったと書いた。
ただし、以前の文通は再開しないことも。
〈これまでの親切には感謝しています。
けれど、もう、帰国のたびに私との時間が空いているとは考えないでください〉
書き終えたあと、私はしばらく机の前に座っていた。
彼が帰る日を、今度は尋ねなかった。
*
七月のある午後、伯母の屋敷で小さな演奏の集まりがあった。
招いた方が順番に楽器を弾き、弾かない方はお茶を飲む。失敗しても、最初からやり直す必要はないという、伯母の決めた会だった。
私は短い曲を選んだ。
練習では何度もつまずいた最後の一頁を、先に何度も弾いておいた。
それでも、本番では途中の音を一つ外した。
一瞬、指が止まった。
先へ進んだ。
最後の音を弾き終えると、マティアス様が拍手をしていた。
私が立ち上がると、伯母も楽しそうに手を叩いた。
「終わりまで行けましたね」
席へ戻った私に、マティアス様が小声で言った。
「はい。真ん中は少し怪しかったですけれど」
「最後は、迷いませんでした」
「そこだけ、ずいぶん練習したんです」
彼は笑った。
「今度、私も後ろから練習してみます」
次は彼の番だった。
席へ着いたときよりも、背中が緊張して見えた。
私は両手を膝で重ね、耳を澄ませた。
彼の演奏は、正確なところと、急に慎重になるところがあった。
同じ旋律が戻ると、さっきより楽そうに弾いた。
上手な方と比べれば、きっと違いはあるのだろう。
私は、その指が次にどこへ行くのか、目で追っていた。
終わると、彼はほっと息をついた。
私のところへ戻ってきて、苦笑する。
「人前で弾けるほどではないと、申し上げたはずなんですが」
「伯母は、そういう言葉で諦めない方です」
「先に伺っておけばよかった」
私たちは笑った。
彼の演奏を、もう一度聞きたいと思った。
間違えない演奏を、ではなく、彼がまた練習してきたものを。
*
その日の食後、彼から庭を歩こうと誘われた。
伯母は別の客と話しており、私たちは侍女を伴って薔薇の道を進んだ。
暑い盛りを過ぎるまで、窓の外を歩く人は少なかった。
白い猫が石段の影にいて、私が呼んでも耳だけを動かした。
「今日は鞄がないので、興味を持たれないんでしょうか」
「撫でられたいときだけ、近づいてきます」
マティアス様はしゃがみ、猫が自分から手の匂いを嗅ぐのを待った。
猫は少しだけ鼻を寄せ、それからそっぽを向いた。
「断られました」
「私も、最初はそうでした」
彼が立ち上がり、上着の裾を払った。
私は聞こうと思っていたことを、ようやく言葉にした。
「マティアス様は、お忙しいのに、何度もお越しくださいますね」
「毎日ではありませんから」
「診療所の資料は、もう私から申し上げることは少なくなりましたのに」
彼が私を見た。
風が通り、薔薇の葉が揺れた。
「父とのお仕事のために、気にかけてくださっているのでしょうか」
声の終わりが、少し細くなった。
私は、これで彼を困らせるかもしれないと思った。
でも、何でもないと取り消すことはしなかった。
「診療所の仕事は、最初のきっかけです」
彼は言った。
「今は、あなたに会いたくて伺っています」
胸が、速く打った。
「最初の面談で、冬にも仕事があると教えてくださったでしょう。私はあのあと、自分がほかにも知らないまま決めつけていることがあるのではと、考えました」
私は黙って聞いた。
「その話を、またあなたとしたかった。けれど、会うと今度は菓子の話や音楽の話もしたくなる。仕事の相談だけなら、屋敷まで何度も伺う必要はありません」
彼は一度、指先で上着の縫い目をなぞった。
「お迷惑でしたか」
私は首を横に振った。
「いらっしゃらない集まりでは、今日はお忙しいのかしらと思っていました」
言ってから、頬が熱くなった。
彼は、少し目を見開いた。
「そうでしたか」
「はい」
彼は口元を緩め、それから、改めて姿勢を正した。
「あなたを、お慕いしています。正式に求愛することを、お許しいただけますか」
私は彼の目を見た。
人に伝えるための言葉を、丁寧に選ぶ方だった。
今はその丁寧さが、自分のために向けられていた。
「私も、あなたにお会いするのが楽しみです。もっと、お話ししたいと思っています」
膝の前で重ねた手を、一度握り直した。
「よろしくお願いいたします」
マティアス様が、深く息を吐いた。
私もつられて笑った。
お互い、少し緊張していたことが分かった。
客間へ戻り、伯母に伝えた。
伯母は私たちを見比べ、うなずいた。
「では、伯爵夫妻にもお知らせしましょう。私からも手紙を書きます」
その日の夜、私は母への便箋を広げた。
何と書き始めればよいか、ずいぶん迷った。
相手の気持ちを推し量るためではなく、うれしいことを母にどう伝えようかと考えていた。
*
求愛を受け入れてから、彼との会話がすべて楽になるわけではなかった。
むしろ、以前より気になることも増えた。
八月、約束していた観劇の前日に、官庁で仕事が延びるかもしれないと連絡が来た。
彼は伯母宛ての手紙に、間に合わない場合は、代わりに母が同行すると書き添えていた。
私はがっかりした。
好きな演目だったし、彼と見て、そのあとに感想を話したかった。
でも、お仕事なら仕方がありません。
そう返事をして、それきりにしようかと思った。
伯母が私の顔を見た。
「楽しみにしていたのなら、そのことも書けばいいのでは?」
「責めているように思われませんか」
「仕事を放り出していらして、と言うのでなければ」
私は短い返事を書いた。
彼と一緒に見るのを楽しみにしていたので、残念だということ。
仕事の都合は承知したこと。
また別の機会に、二人で同じ演目を見たいということ。
当日はマティアス様の母と、伯母と私の三人で出かけた。
彼の母はよく笑う方で、幕間には、息子が子どもの頃に芝居の筋を勘違いした話を聞かせてくれた。
私はその時間も楽しかった。
数日後、彼が屋敷を訪れた。
「申し訳ありませんでした」
「いいえ。ご連絡もいただいていましたし、お母様にもよくしていただきました」
「母から、手紙で話したのと違う筋だったと笑われました。私は、別の作品と取り違えていたようです」
私は笑い、物語の筋を説明した。
彼は途中で口を挟みかけたが、やめて聞いていた。
「今、また取り違えましたね」
「……少し」
笑い合ってから、彼が言った。
「次は、一緒に見てください。同じ話を、きちんと知っておきたい」
「はい。でも、先に全部お話ししてしまいました」
「あなたがどこで笑ったのかは、まだ分かりませんから」
私は、また頬が熱くなった。
*
診療所への支援が決まったのは、八月の半ばだった。
希望した額のすべてではなかった。
冬の前に薬を確保する費用は認められたが、村を回る人手については、翌春の報告を見て再検討するという。
私は返事を読み、うれしさと落胆を一緒に覚えた。
「薬を届ける人がいなければ、そこも困るのですけれど」
マティアス様にこぼすと、彼はうなずいた。
「その点は、会合でも話が出ました。薬を買う費用と、人を継続して雇う費用では、必要な約束が違うので」
詳しく説明され、私は書類を読み直した。
決めたのは彼一人ではなく、寄付を預かる複数の方々だった。
彼が私に好意を持っているからといって、望んだものがすべて届くわけではない。
「今年の冬をどうするかは、父と相談します。今ある人手で回せる方法も、もう少し考えてみます」
「はい。次の報告の書き方なら、お手伝いできます」
私は礼を言った。
彼が仕事の判断を私への求愛と結びつけないことを、ありがたく思った。
その日は話が終わってから、伯母の猫が彼の膝に乗った。
彼は上着が毛だらけになるのを気にせず、ただ、少し驚いた顔で動かなくなった。
「気に入られましたね」
「これは、動いてはいけないんでしょうか」
「そのうち、自分で下ります」
猫はしばらく下りなかった。
私は、彼が困った顔で猫の背を撫でるのを見ながら、お茶を飲んだ。
*
八月の終わり、私は一度、領地へ戻った。
出発の日、マティアス様は屋敷まで見送りに来てくれた。
「お戻りは、九月の終わり頃でしたね」
「はい。父と診療所の方針を決めてから、また伺います」
彼は小さな紙包みを渡した。
最初の面談の帰りに買った、酸っぱい菓子だった。
「道中に。お口に合わなければ、伯爵に」
「父も、きっと顔をしかめながら食べます」
彼は笑った。
私は包みを受け取り、礼を言った。
「お手紙を、差し上げてもいいですか」
「もちろん。私からも、お返事を」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
手紙を書くのを楽しみにする自分を、まだ怖がっているところがあった。
それでも、彼には書きたかった。
馬車から手を振ると、彼も手を上げた。
私はその姿が見えなくなるまでではなく、通りを曲がるところまで見ていた。
膝には、家へ持ち帰る資料があった。
*
母は、以前より少しふっくらしたように見えた。
私がそう言うと、夏に菓子を食べすぎたのだと笑った。
「あなたは、顔つきが変わりましたね」
「そうでしょうか」
「ええ。王都は、楽しかった?」
私は、楽しかったです、と答えた。
つらいこともあった。泣いた夜もあった。
それでも、楽しかったことの話から母にしたかった。
猫のこと、音楽会のこと、マティアス様が曲を弾いたこと。
母は時折質問を挟みながら聞いた。
「その方が来なかった日に、あなたから残念だとお伝えしたのね」
「はい。伯母様に、書いてもよいのではと言われて」
「それで、お返事は?」
私は、別の日に同じ芝居を見る約束をしたことを話した。
母はうなずき、私の手にそっと触れた。
「あなたの楽しみを、相手も知っていてくれるのね」
私は、はい、と答えた。
夕方、父と診療所の話をした。
家を継ぐ弟も同席し、村へ行く馬車をどの時期に回せるか、帳簿を広げて考えた。
王都で直した資料を渡すと、弟は分かりやすくなったと言った。
「前のは、姉上の頭の中を一緒に見ないと、意味が取れなかったから」
「そこまで分かりにくかった?」
「少し」
父が咳払いをしながら笑った。
私は紙の端へ新しい項目を書いた。
マティアス様がしていたように、まず話を三つに分けた。
離れていても、その方を思い出すことはあった。
思い出したあと、自分の仕事へ戻ることもできた。
*
最初の手紙は、帰宅して四日目に届いた。
王都からの便だった。
診療所の件で必要な書類が一枚と、私への便箋が入っていた。
二つは別の封筒に分かれていた。
〈お帰りの道は、暑くありませんでしたか。
こちらは朝夕、少し涼しくなりました。
伯母君の猫は、先日も私の上着を毛だらけにしました。次に伺うときには、同じ上着を着ていくつもりです〉
私は笑った。
便箋の後半には、一緒に見られなかった演目が、十月にも上演されるとあった。
九月末に戻る予定が変わらなければ、日を決めたいという。
自分の予定を確かめ、都合のよい日を書いた。
猫のための上着を決めるのは賢明だと思う、とも。
以前も、私は返事を書いていた。
ただ、いつ帰るか分からない人に、自分はここにいると伝えるような手紙だった。
今は、次に会う日を相談していた。
返事が届くまで、毎日何度も窓を見ることはなかった。
村へ出かけ、母とお茶を飲み、父と相談した。
それでも郵便が届けば、胸は弾んだ。
うれしいことまで、我慢する必要はなかった。
*
九月の終わりに王都へ戻ると、伯母の猫は私の鞄を覚えていた。
侍女と二人で笑いながら、それを持ち上げた。
十月に入ってすぐ、マティアス様が来た。
彼は私を見ると、言いかけた挨拶を少し詰まらせた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
声を聞くと、手紙の文字だけでは足りなかったと分かった。
彼も、私の顔をしばらく見ていた。
「会えて、うれしいです」
先に言うと、彼ははっきり笑った。
「私もです」
伯母が猫を抱いて席を外した。
扉は開いたままで、隣の部屋から侍女の動く音が聞こえた。
「領地でのことを、聞かせていただけますか」
私は村へ行った話をした。
途中で彼の仕事の話も聞いた。
会わなかった一月の間にも、互いにいろいろなことがあった。
話し終える頃には、お茶が冷めていた。
彼はそれを飲み、少し真面目な顔になった。
「今日、お話ししたかったことが、もう一つあります」
私はカップを置いた。
「将来のことを、あなたと相談してもよろしいでしょうか」
膝の上で、指先を揃えた。
はい、と答えた声は、少し震えた。
*
彼は、すぐに宝石を取り出さなかった。
まず、自分の仕事の話をした。
「私は、侯爵家を継ぐ立場ではありません。官庁の仕事は、結婚しても続けたいと考えています」
兄の家に頼りきるのではなく、母方から受け継いだ小さな所領の収入と、自分の俸給で暮らしを立てているという。
今の住まいは独り者には十分だが、家族で暮らすなら手を入れるか、別の家を探したい、と。
「ただ、私一人で決めるつもりはありません。あなたが、領地の仕事をどのように続けたいかも伺いたいのです」
私は少し考えた。
「父の手伝いは、これからは弟へ移していく部分もあります。でも、診療所のことには、できれば関わり続けたいです」
「はい」
「王都で資料をまとめるだけでなく、春や秋には、何週間か領地で過ごしたいと思います」
彼は、すぐに何でもできるとは言わなかった。
「私は、毎回はご一緒できないかもしれません。官庁の都合があるので」
「ええ。それは、承知しています」
「でも、休暇を相談して、行けるときには伺いたい。あなたが話してくださった場所を、私も見たいです」
私はうなずいた。
話してみれば、考えなければならないことは、いくつもあった。
訪問の日程、王都での住まい、留守中の連絡。
それでも、一つ話すごとに、気持ちは軽くなった。
「ご不安なことは、ほかにもありますか」
尋ねられ、私は正直に答えた。
「まだ、知らないことが多いと思います。あなたのことも、結婚して暮らすことも」
「私もです」
彼は少し笑った。
「ですから、分からないことを、分からないままにしないようにしたい」
私は顔を上げた。
彼は、私を見ていた。
「リゼット様。あなたと、家族になりたいと思っています。私と結婚していただけますか」
胸の奥が、じんと熱くなった。
優しい言葉を言われたことはある。
また会おうと約束したこともある。
今は、何を申し込まれたのか、何に答えるのか、分かっていた。
「はい」
私は答えた。
「私も、あなたと暮らしたいです」
彼は、しばらく何も言わなかった。
顔を見ていると、私のほうが泣きそうになった。
「よかった」
彼は小さく言い、それから、もう一度言った。
「ありがとうございます」
私は首を横に振った。
お礼を言うことではない気がした。
でも、自分も同じ言葉を言いたかった。
「こちらこそ」
隣の部屋へ伯母を呼ぶと、伯母は猫を抱えたまま現れた。
私たちの顔を見て、何が決まったのか分かったらしい。
「では、次はご両親とお話しする日を決めましょうね」
猫が、小さく鳴いた。
*
父と母は、十月の半ばに王都へ来ることになった。
事前に私から手紙を書き、マティアス様からも正式な申し入れが送られた。
父は、本人の話を聞くのを楽しみにしていると返してきた。
挨拶の前日、私は手紙の箱を片づけた。
セドリックの便箋は、青い紐で束ねたまま、別の小箱へ移した。
母を心配してくれた言葉も、知らない国の挿絵も、そこにあった。
私は、その一枚一枚を読み直さなかった。
あの頃の自分が喜んだことまで、間違いにはしたくなかった。
ただ、彼がどんな意味で書いたのかを、これから先も探すつもりはなかった。
蓋を閉めた。
侍女に頼んで、季節外れの品を収める棚へ運んでもらった。
机に残ったのは、マティアス様からの手紙だった。
訪問の日付と、午後二時に伺うという約束が記されている。
翌朝、私は青いドレスを選んだ。
母が、真珠の首飾りの留め具を確かめてくれた。
「緊張していますか」
「はい」
「お父様もよ。朝から、書斎の椅子の位置を二度変えていらっしゃるわ」
私は笑った。
母も笑い、それから鏡越しに私を見た。
「よく、お似合いです」
昼食を済ませると、伯母は使用人たちにお茶の支度を頼んだ。
猫は、知らない人の気配を察したのか、窓辺に陣取った。
二時が近づいた。
私は一度、窓から通りを見た。
見覚えのある馬車が曲がってくるところだった。
窓を離れた。
侍女に、玄関へ行きますと伝えた。
彼を迎えるのが、楽しみだった。
父が何を尋ねるか、少し心配でもあった。
話が済んだら、先日買った菓子を一緒に食べたいと思った。
玄関の扉が開いた。
マティアス様は、いつもの上着より少し改まった装いで立っていた。
手には花束があった。
私を見つけると、彼の顔がほころんだ。
「約束より、少し早かったでしょうか」
「いいえ。お待ちしていました」
彼が花を差し出した。
私は受け取り、その間から彼の顔を見上げた。
「父も、母も」
付け加えると、彼はまた少し緊張した。
私は笑って、空いた手を差し出した。
「一緒に参りましょう」
彼がその手を取った。
応接室の向こうから、父の咳払いが聞こえた。
私は彼と顔を見合わせ、今度は声を立てずに笑った。
~完~




