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感情を研究する天才魔法学者は、司書の私にだけ恋を定義できないようです

作者: メイ
掲載日:2026/03/19

 七月の第一月曜日。レナはいつも通り、六時四十分に王都立図書館の正面扉へ鍵を差し込んだ。


 王都立図書館分類体系・第三版。

 蔵書三十万冊を迷わせず動かすその仕組みを、レナは三年かけて改訂した。


 その名を覚えている人間は、ほとんどいない。けれど本が正しい場所へ戻るなら、それで十分だとレナは思っていた。——そう思っていた。


 だから扉の隙間から灯りが漏れているのを見たとき、レナが最初に考えたのは単純な規則違反のことだった。


 消し忘れ。


 ありえない、と思った。


 昨夜閉館したのは自分だ。確認もした。確認には限界があるからこそ、彼女はいつも二度確認する。

 その規則から外れるものを、レナは好まなかった。ありえないものを見たとき、まず規則へ立ち返るのは長年の癖だった。


 扉を開けた瞬間、「うぐ」と喉の潰れた音がした。


 レナは足を止めた。


 泣いている。

 しかも、第二閲覧室のほうからだ。


 足音を消して近づく。


 参考図書の棚の間に、男がひとり座り込んでいた。三十代前半くらい。薄いグレーの外套は明らかに上等な素材だったが、今は床に雑に脱ぎ捨てられている。その持ち主は一冊の本を膝に開いたまま、両手で顔を覆っていた。指の隙間から涙が落ち、床に小さな染みを作っている。


 本の題名が見えた。


『王都立図書館分類体系・第三版』


 他人が自分の仕事を読んで泣く、という事態は、レナの人生の想定に入っていなかった。


「……あの」


 声をかけると、男は顔を上げた。


 目が赤かった。それ以外は整っていた、という情報をレナは適切に処理して脇へ置いた。——置いたはずだったのに、その情報だけが少し残った。


「君、この本を書いたのは誰だ」


 男の第一声は、それだった。

 泣いていた人間とは思えないほど真っ直ぐで、けれど声の奥だけがまだ整いきっていなかった。


「……私ですが」


「君か」


「私です」


「天才だ」


 断言のあと、男はまるで信じがたいものを見るようにレナを見た。


 レナは返事をしなかった。そういう言葉を真正面から向けられることに、慣れていなかった。


「本を整理するための仕組みを、この本を読むまで私は技術だと思っていた。だが違う。これは芸術だ。数学であり、哲学であり、愛だ」


「ただのマニュアルです」


「同じことだ。私にとっては」


 男はそこで一度だけ息を継いだ。


「しかも、こんなものを書いた人間が、まさにここにいる」


 その目は、ただ著者を見つけた人間のものではなかった。

 心が思った以上に動いていることを、本人だけがまだ正確に把握していないような、まっすぐな目だった。


「本を書く人間は、たいてい本の向こう側にいるものだと思っていた」


 男はレナをまっすぐ見た。


「だが君は、ここにいる。しかも、こんな場所で、こんなふうに本のそばに立っている」


 一度だけ息を継いで、続ける。


「こんな幸運、めったにお目にかかれない」


 その言葉は本への賛辞の続きのはずなのに、なぜかそれだけでは済んでいないように聞こえた。


 レナは返す言葉を持たなかった。


 男は立ち上がった。所作に迷いがなかった。泣いていた人間とは思えないほど、次の行動へ移るのが早かった。


「アル。王国魔法学者だ」


 名乗ってから、少しもためらわずに言う。


「君の助手になりたい」


 少しも迷いのない声だった。

 思いつきで口にした声音ではなく、見つけたものを逃したくない人間の声だった。


「思いつきではない。ここへ来る前から、私は長く探していたのだと思う」


 アルはレナをまっすぐ見た。


「仕組みを作れる人間は多くない。だが、仕組みにまで思想を宿せる人間は、もっと少ない」


 一拍置いて、言い切る。


「それが君だった」


 こんなふうに真正面から必要とされたことはなかった。しかもその言葉には、思いつきの軽さがなかった。困るはずなのに、完全に不快とも切り捨てられない自分が、いちばん扱いづらかった。


「レナです」


「レナ先生」


「……まだ、返事はしていませんが」


「ならば返事をしてくれるか」


「その前にひとつ気になったことがあったので聞いても?」


「なんだ、レナ先生」


「まだです」


「なんだ、レナさん」


「あの。普通は逆では」


「なぜ」


「あなたのほうが立場が上では」


「関係ない。立場は仕事の性質に付随するものだ。私は君の仕事を学びたい。なら君が上で、私が下だ。論理的に考えればそうなる」


 論理的かどうかはさておき、相当面倒な人が来た、とレナは思った。顔には出さなかった。ただ、その面倒さが不快さと完全には一致しないことだけが、少し厄介だった。


 ——それにしても助手か。

 その発想自体が、レナにはなかった。


「助手の件ですが、お断りします」


「前向きに検討してくれるか」


「いま断りましたよね?」


「聞いた。その上で頼んでいる」


「駄目です」


「なぜだ」


「助手を必要としてないからです」


「……嫌か?」


「嫌ではないです」


 即答してから、レナは自分で少しだけ困った。嫌ならもっと簡単だったのに、と一瞬だけ思う。


「なら、拒絶ではないな」


「必要がないと言ってるんです」


「なら必要になればいい。また来る」


「ここは図書館です。来るのは構いませんが、規則の範囲内でお願いします」


「規則とは」


「利用者として入れる場所で、本を読むことです」


「許されていない場所もあるのか」


「あります。たとえば閉架書庫は立ち入り禁止です」


「閉架書庫とは」


「一般利用者が入れない書庫です」


「君は入れるのか」


「業務上は」


「では君が案内すれば問題ない」


「私は理由もなく許可することはありません」


「……わかった」


 アルは脱ぎ捨てた外套を拾い上げた。


「明日も来る」


 それから、当然のことのように続けた。


「ここ以上に、気になる場所をまだ見つけていない」


 何が「わかった」のかは不明だった。

 ただ、ここで押し問答を続けるのも非効率だとレナは判断した。


 レナは頭の中で一度だけ計算した。王国魔法学者という肩書きを持つ人間を追い返すための労力と、規則の範囲内で受け入れる労力。その比較は、思っていたほど複雑ではなかった。


「……規則を守る限りは、構いません」


 これが始まりだった。


 アルは約束通り翌日から来た。

 そしてその翌日も来た。

 その次の週も、その次の月も、開館時間をほとんど狂いなく守って現れた。最初は妙な利用者だった。気づけば、図書館の朝の並びの中へ当然のように組み込まれていた。


 奇妙な熱量を除けば、アルは優良利用者だった。返却期限を守る。閲覧室へ昼食を持ち込まない。閉架書庫には近づかない。規則を忘れない。

 王国魔法学者。王都でも数えるほどしかいない肩書きを持つ人間が、これほど律儀に開館時間へ合わせて通ってくる理由は、レナにはわからなかった。


 ただ一点だけ、レナには理由のわからない習慣があった。


 毎朝開館と同時に、アルはある一角の前でだけ、ほんの少し長く立ち止まった。本を探しているようには見えない。むしろ、そこへ来たこと自体を確かめているように見えた。


 王立研究所の人間がなぜ図書館にこれほど執着するのか、レナには理解できなかった。だから厄介だった。規則を守る相手を、規則では追い払えない。


 最初の違和感は、出会ってから三週間後に来た。



 アルが読み終えた本には、いつも栞が挟まっていた。


 それ自体は珍しくない。読みかけの目印に栞を使う利用者は多い。だがアルの場合、読み終えた本にも栞が残っていた。


 最初は偶然だと思った。

 返却本を受け取り、何気なく挟まった頁を開く。そこには一節があった。


 ——言葉は、沈黙の形を取るときに最も多くを語る。


 レナが十六歳のときに初めて読んだ詩集の、一番好きな一節だった。

 誰にも話したことはない。話す必要もないと思っていた。


 偶然だと思った。


 しかし、それからも随筆集、旅行記、古い書簡集と続いた。

 返却されるたび、アルの栞は、なぜかいつもレナが立ち止まる頁に挟まっていた。


 二冊目で妙だと思った。

 三冊目で落ち着かなくなった。

 四冊目で、もう偶然とは思えなくなった。


 この男は、何も知らないまま、いつも自分が立ち止まる場所で立ち止まっている。


 それは落ち着かないことのはずなのに、胸のどこかではひどく静かな喜びがあった。誰にも気づかれないままでいいと思っていた場所を、見つけてもらえたような気がした。見つけられたいと思っていたわけではない。ただ、説明しなくてもそこへ触れられてしまうことが、ひどく静かに胸へ残った。


 しかもそれが、意図ではないらしいことが、なおさら質が悪かった。


 自分だけが知っていると思っていた場所に、説明もなく触れられている気がした。

 それを理解と呼ぶにはまだ早い。けれど偶然で片づけるには、もう遅かった。


 ある昼下がり、返却された本を手にしたまま、レナは尋ねた。

 レナには珍しく、少し声が跳ねてたかもしれない。


「その頁が、気に入ったんですか」


 アルは顔を上げた。


「どの頁」


「栞が挟まっているところです」


 アルは手元の本を見た。栞が覗いていた。しばらく考えてから、首を振る。


「特に意識していない。自然にそこで止まる」


「……自然に」


「何かを読んでいると、手が止まる場所がある。そこに栞を挟む。それだけだ。なぜ聞く」


「返却された本に、全部栞が残っていたので」


「それは悪かった。外せばよかったか」


「いえ」


 レナは本棚に向き直った。


「構いません」


 背中を向けたまま、彼女は静かに整理していた。


 アルは気づいていない。自分がどこで止まっているのかに、気づいていない。


 なぜ気づかないのかが、かえって怖かった。


 意図があって選んでいるなら、まだ扱える。意図があるなら、避け方も考えられる。けれど、理由もなく、ただそこに惹かれてしまうものは扱えない。意図のないものは、ただそこにある。


 ただそこにある引力には、名前がつけられない。


「ああ、そうだ。強いて言えることがひとつだけある」


「……なんですか」


「もう一度目を通したいと思った。だから栞を挟んだ」


「目を通したい理由を伺っても?」


「心地いい。それだけだ」


 その言い方には、理由を飾る気配がなかった。


 その一言だけで、喉の奥がわずかに詰まった。レナは本の背表紙を見つめたまま、それをやり過ごした。

 そんなふうに、自分の好きなものと自分自身を切り分けずに受け取られたことは、一度もなかった。


 引力はやはりそこにある。



 翌日も、午前中は何ひとつ乱れなかった。

 返却本を分類し、配架し、利用者の質問に答える。規則通りで、予定通りの時間が過ぎていく。


 それなのに昼前、閲覧室へ入った瞬間、レナは無意識に窓際の一角を見た。


 いる。


 そう確認してから、自分が息をついていたことに気づく。安心したのだと気づいて、レナは目を逸らした。


 そのあとで、足音を聞き分けようとしていた自分にも。


 人がいるかを確かめたのではない。

 誰がいるかを、確かめていた。


 その事実だけは、あまり認めたくなかった。認めた瞬間に、困るより先に少しうれしいと思ってしまいそうだったからだ。


 レナは何事もなかったように視線を外した。

 けれど、その直後にアルが顔を上げると、なぜか少しだけ安心した。

 安心する理由がないことが、いちばん落ち着かなかった。


 昼は、生きている限り規則正しくやってくる。

 昼食はたいてい、アルが図書館裏手の中庭へ持ち込んだ。


 アルは紙袋から取り出したパンをしばらく眺めてから、真顔で聞いた。


「これは何に見える?」


「パンです」


「どんなパンだ?」


「普通のパンです」


「普通とは何か」


「……最も一般的な、という意味です」


「では最も一般的なものに固有の名前がないのはなぜだ。最も多くの人間が口にするなら、最も重要なものではないのか」


「そういう名付けの話ではないと思います」


「では何の話だ」


「カテゴリの話です。普通、というのは特定の一つじゃなくて、属するグループを示しているので。この場合は『多くの場合の』って意味のグループになります」


 アルは一口かじり、しばらく咀嚼してから言った。


「分類の話か」


「結果的にはそうかもしれません」


「分類の専門家がいて良かった」


 それだけ言ってまた食べ始める。

 あまりに当然の顔で言うものだから、レナは返事を忘れた。自分が会話の続きを期待していたことに気づいて、さらに困った。


 アルがいる昼休みは、もう業務と業務の隙間時間とは思えなくなっていた。

 以前なら、昼はただ規則正しく過ぎる時間でしかなかった。

 けれど最近は、一日の中でそこだけ、呼吸の深さが少し変わる。


 ある日、レナが中庭の椅子へ手を伸ばすより先に、アルが当然のように椅子を引いた。

 礼を言うほどのことでもない、ほんの小さな動作だった。

 それなのに、その日の昼休みだけは、妙に長く胸に残った。


 昼食のあと、アルはデザートにお決まりのチョコレートを口に含んでから、胸ポケットから小さな革表紙のノートを取り出す。


 何を書いているのか、レナは聞かなかった。

 聞かなくていいことを増やさないのは、彼女の仕事の流儀だった。


 レナは、アルとなんでもないような時間を過ごすたびに思う。

 アルのその話し方に、自分の時間の流れが馴染み始めていると。

 答えを急がず、それでいて曖昧なままにはしないところが、少しだけ好きだと気づきかけて、考えるのをやめた。


 それは小さなことのはずなのに、気にせずにいられない気がした。

 しかもその相手が、昼食のパンひとつで哲学を始める男だというのが妙におかしく、でも嫌にも思えなかった。


 最近のお気に入りの言い訳は、何周も回って「天気がいいから」に落ち着きつつあった。

 曇りの日は窓を見ないことにした。見なければ、何も考えなくて済む気がした。

 アルが来なかった昼のことまで想像しそうになる日は、特に。



 その数日後のことだった。


 アルが参考図書の棚の前で、本棚の最上段に手を伸ばしていた。


 踏み台を一段置く。さらにもう一段。その上に三段目を重ねようとして、レナは顔を上げた。


「危ないのでは」


「届く」


 届かなかった。


 正確には、本には届いた。その瞬間、積み上げた踏み台が見事に崩れた。


 ガタン、と音が響いた。


 アルは本を抱えたまま床に座り込んだ。何が起きたのか理解しようとしているみたいな顔で、しばらく動かなかった。腕の中の本だけが、やけに大事そうに抱え込まれている。


 その本の表紙を、淡い青白い光が一瞬だけ包んだ。落ちる直前に、本だけを守ろうとしたらしかった。

 本人は無自覚のようだった。


 その真顔があまりにも真顔だったので、レナは思わず笑ってしまった。


 喉の奥から、短く息が漏れた。

 笑い声というには小さかったけれど、抑えきれなかった音だ。


 アルが顔を上げる。


 その視線が、思ったよりまっすぐで、レナは一瞬だけ息を止めた。

 まるで、今この場にある他のものがすべて後ろへ退いたみたいに、その視線だけが残る。

 笑ったことを見られたのに、なぜか恥ずかしいより先に、胸の奥が静かに熱を持った。


 目を逸らすのが、ほんのわずかに遅れた。


 レナは咳払いをひとつして、いつもの顔へ戻る。


「規則違反です」


「何がだ?」


「踏み台は二段までです」


「……二段までか」


「規則なので」


 アルは床に座ったまま頷いた。


 その様子がまた少しおかしくて、レナは今度こそ目を逸らした。口角が上がっていたことにまで気は回せなかった。


 その日以降、アルが棚の高い場所へ手を伸ばすたび、レナは先に踏み台の段数を確認するようになった。

 自分でも、過保護だと思った。

 けれど、あの真顔のまま落ちるところを二度と見たくないとも思ってしまった。



 感情の一覧表、というものをアルがつけていると知ったのは、その翌週だった。


 革表紙のノートの中に、感情の名と定義、発生条件が几帳面な字でびっしり並んでいる。


「感情を研究しているんですか」


「魔法の制御に感情が影響することがわかってきていてな。しかし定義できなければ制御できない。だから記録しているんだ」


 そう言ってアルがノートに何かを書き足したとき、ペン先にごく淡い青白い光が走った。インクは紙の上で一度だけ揺れ、それから定規で引いたようにまっすぐ整列した。書き終わると、それは何事もなかったように消えた。


 レナは視線を落とすつもりはなかった。


 ただ、ペン先に走った青白い光が一瞬だけ目を引いた。

 そのまま、まだ乾ききらないインクの上に視線が触れる。


 少し上の行には、別の項目が残っていた。

 見ないつもりだった。そのつもりのまま、視線だけが一行ずつ滑っていく。


『孤独/周囲に人がいても解消されない持続的空白感』

『改善条件:未確認だが、共有が鍵かもしれない』

『進行状態:——』


 言葉がそこで途切れていた。

 その空白にだけは、レナも見覚えがあった。

 だからこそ、その下に続く文字列から目を逸らすのが一瞬遅れた。


『胸部圧迫感/呼吸浅化/笑声の想起により増幅』

『対象不在時も反復』

『本人の前では悪化傾向』

『他対象では再現せず』


 そこでレナはやっと目を逸らした。


 そこから先を読めば、おそらく何かが決定的になる気がして。

 だから見ないことにした。呼吸の深さだけが、さっきまでと違う。


 見てはいけないものを見た、というより、自分だけが胸の内に綴じていた頁を、向こうが先に読んでしまっていたような感覚だった。


 まだ名前のついていないものの輪郭だけを、もう向こうは手探りでなぞってしまっている。

 そんなふうに感じた。


 分類のための記録のはずなのに、分類されているのが自分のほうみたいだった。


 そんなふうに自分のことで胸を乱されていると、文字で見せつけられる日が来るなんて思わなかった。

 恥ずかしいのに、どこかでうれしいと思ってしまう自分がいちばん扱いづらかった。


 アルがふと口を開く。


「感情と言えば、甘いものを食べると落ち着く。昨日も帰り道にチョコレートケーキを食べてから帰路についた」


「……意外です」


「何を言っている。甘いものを食べたら落ち着くのが自然の摂理だろう」


 あまりにもアルが真剣に言うものだから、レナはそのズレた瞳に「ふっ」と笑みをこぼしてしまった。


 アルはレナを見た。いつもの真顔だったが、この日のそれは少し違って見えた。


「ひとつ聞いていいか」


「どうぞ」


「お前が笑ったとき」


 レナがアルの前で笑ったのは一度だけだ。先週、アルが本棚の最上段から本を取ろうとして踏み台を三段重ねた末、見事に崩したその瞬間だけだと、レナは認識している。


「胸のここが詰まる感覚がある」


 アルは自分の胸の中央より少し左を押さえた。


「……病気、ではなさそうですね」


「そうだ。こんな状態を医学的な意味で私は知らない。それに……」


「それに?」


「すごく跳ねている」


「え」


 次の瞬間、アルはレナの手を取っていた。

 驚く暇もなく、そのまま自分の胸へそっと導く。

 外套越しでも、速すぎる鼓動が掌に伝わった。

 熱い、と思った。

 触れてはいけないものに触れた気がしたのに、レナは手を引けなかった。引けばいいのに、と頭ではわかる。それでも指先は、そこに確かにある速さを確かめるみたいに、かすかに強張った。


 自分の鼓動まで、つられるように浅く速くなる。


「わかるか」


「……心配になります」


「病気ではない。こうなるのはお前といるときだけだ」


「……そうですか」


「おそらくこれは感情的なものなのだろう」


 そこでやっと、アルはレナの手を解放した。

 心地よさと緊張は、まだ手に残っていた。離れたはずなのに、そこだけ妙に温度が残っている。


「だが、どの感情の項目に入るのかわからない」


 アルは真顔のまま、レナを見た。


「分類はお前の専門だろう。……俺には無理だった」


 アルはそこで一度だけ視線を落とした。


「ほかの誰に聞いても意味がない気がする。だから、お前に頼みたい」


 レナは答えられなかった。


 答えを知らないわけではなかった。たぶん知っていた。けれど言った瞬間に何かが決定的に変わる気がして、口にできなかった。


「どうでしょうね……」


「無理か」


「……検討します」


「分類を試みてくれたら、お礼にケーキを奢ろう」


 そう言って、アルはすぐにノートへ何かを書き込んだ。


 その夜、レナは何の分類もしなかった。アルがノートに何を書き足したのか、彼女は見ていない。


 帰宅して、机の引き出しを閉めた。閉め直した。少しずれていた角が気になったからだ。

 誰もいない部屋でそんなことをしている自分を、レナは考えないようにした。

 代わりに、自分の胸へそっと手を重ねた。動悸を感じた。

 昼間触れた鼓動と、自分の鼓動がどちらのものかわからなくなる一瞬があった。


 なぜかレナは、ふと甘いものが食べたくなった。



 ある午後、棚を眺めながらアルが言った。


「王立研究所の本は、誰かが正解だと決めたものしかない」


 レナは書類から目を上げなかった。


「だが、ここは違う」


 アルの声は低く、妙に静かだった。


「誰かの失敗も、途中で止まった思考も、訂正された理論も、全部棚に入っている。この図書館は、正しいものを集めているんじゃない。あったものを集めている。正しくなくとも、正しく見ようとしている。素晴らしいことだ」


 レナは何も返さなかった。

 でもその言葉は、胸の中のどこかに静かに降り積もった。


 好意の言葉より、こういう言葉のほうが深く残ることもある。

 自分が積み重ねてきたものを、まるごと見つけられたような気がした。


 アルは棚から一冊の古い整理記録簿を抜き取り、ぱらぱらと頁をめくった。


「旧蔵書の再編記録が途中で止まっているな」


「予算と人手が足りないので」


「愚かだな……そして残念だ」


「残念、ですか」


「知の蓄積は、止めた瞬間から崩れる」


 アルは本を閉じた。

 だが、すぐには棚へ戻さなかった。表紙に指を置いたまま、背表紙の並ぶ棚の奥をしばらく静かに見ていた。


「この分類体系を王都立だけで使っているのは損失だ」


 その言い方は、慰めでも持ち上げでもなかった。

 本当に惜しいと思っている人間の声だった。


 ようやくそう言って、整理記録簿を棚へ戻す。


 レナは何も言わなかった。

 けれどその言葉は、あとから何度も思い出すことになる。



 密使が来たのは、八月の終わりだった。


 国王の紋章入りの封書を携えた男が閉館間際に現れ、アルに王立研究所への転任を要請した。レナは封書の中身までは読んでいない。でも密使の表情と、アルの返答だけで十分だった。


「再度の辞退は前例がありません」


 密使はそう言った。


 けれどアルは少しも間を置かずに答えた。


「断る。俺はここで研究する」


 即答だった。

 迷った形跡がまったくないことが、かえってレナの胸をざわつかせた。


 密使が眉をひそめる。


 アルは一拍だけ黙って、それでも言い切った。


「ここには俺が見失いたくないものがある。研究より先に、離したくないものがある。だから離れる気はない」


 その声音は、研究への執着を語るにはあまりにも個人的だった。


 その瞬間、閲覧室のランプがひとつ、かすかに揺れた。

 見間違いではない、とレナは思った。抑え込まれた何かが、最小限の形で漏れたのだとわかった。


 ここでなければ意味がない。


 その「ここ」に、どこまでが図書館で、どこからがそうでないのかを、レナは考えないことにした。

 考えた瞬間に、自分までその中へ含まれてしまう気がしたからだ。


 図書館のことを言っているのだと、自分に言い聞かせることはできた。

 けれど、それだけでは足りない気がしてしまうのを止められなかった。


 密使は戸惑いを隠せないまま去り、アルは何事もなかったように本へ視線を戻した。


 なぜ、とレナは聞かなかった。


 けれど帰り道を歩きながら、王室と直接交渉できる立場の人間が、この薄暗い図書館を選んでいるという事実だけは、何度も静かに確かめてしまった。


 選ばれ得る人が、ここを選んでいる。

 選び直せる人が、それでもここへ戻ってくる。

 それは選びたいと、決めていることであって。


 その事実は、レナの日常の中心に分類不能なものが静かに居座りはじめている証拠みたいだった。



 異変に気づいたのは、九月に入ってすぐのことだった。


 朝の配架作業。返却された本を、それぞれの棚へ戻す。入職してから一度も間違えたことのない作業だった。棚の番号は脊髄で覚えている。考えるより先に、手が動く。


 利用者に棚番号を案内しかけて、レナは一拍遅れた。

 入職以来、一度もなかった遅れだった。

 そのたった一拍だけで、背筋が冷えた。


 それがたった一人の不在に由来していることを、認めたくなかった。


 一冊の本を持ったまま、レナはしばらく棚の前に立ち尽くした。魔法理論の応用と実践。薄い、背表紙の黄ばんだ本。場所を知っている。毎朝戻してきた棚だ。


 わかっているのに、手が動かなかった。

 衝動のようなこの感覚を、レナは知らない。


 ただ、確実に知っているのは、アルが先週、この本を読んでいたこと。

 それだけ。なのにそれだけのことが、一度もエラーを起こさなかったレナの手を数秒間止めた。


 ただ会えないだけで、こんなふうに整わなくなる自分を知らなかった。

 それは不便というより、ほとんど敗北に近かった。


 レナは本を棚に戻した。

 戻して、気づく。間違っている棚に置いたのだと。


 その瞬間、指先が冷えた。

 ありえない、とレナは思った。この作業でだけは乱れないはずだった。


 レナはハッとして、次こそ正確な場所に置いた。

 問題はなかった。


 しかし、その夜から眠りが浅くなった。


 翌々日、アルが休みの日のことだった。昼過ぎに閲覧室を通り抜けたとき、レナの足がひとりでに止まった。アルがいつも座っている席。窓際の、少し傾いた椅子。誰も座っていない。


 誰も座っていない。

 ただそれだけのことなのに、その一角だけが不自然なくらい静かだった。


 レナは眉を寄せた。

 いつも通りの閲覧室だ。机も、椅子も、本の並びも何ひとつ変わらない。

 変わっていないはずなのに、そこだけが妙に足りなかった。


 空いているだけの席が、こんなふうに胸の内側へ触れてくることを、レナは知らなかった。


 レナはそこに近づいた。


 テーブルの上に、本が一冊置きっぱなしになっていた。アルのものだった。頁が開かれたままになっている。


 栞が挟まっていた。


 レナの指が、その栞の頁をそっと押さえる。


 気づいたとき、すでに触れていた。

 冷たい感触に、温もりを探るように指が動いていた。

 紙に触れただけなのに、あまりに私的なものへ手を伸ばしてしまった気がした。


 それがわかった瞬間、レナは手を引いた。一歩下がって、閲覧室の入口まで戻った。棚の角から、空っぽの席を見た。


 もう、あの席をただの利用者の席として見ることができない。


 これ以上近づいたら、何かが壊れる。


 何が壊れるのかはわからなかった。

 自分が保ってきた秩序なのか、自分の生活なのか、それとも名前のつかない別の何かなのか。

 分類する気が起きなかった。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 このままでは、本を見るより先にあの席を探してしまう。


 それは、レナにとって小さな乱れではなかった。


 癖や気分の範囲ではない。自分の仕事の骨組みに、はじめて別のものが触れたのだとわかった。


 棚番号より先に、誰かの不在を数えるようになったら、もう司書として正しくいられない。

 本の位置を間違えないこと。必要な利用者に必要な本を渡すこと。自分の感情より先に、棚の秩序を守ること。

 その順番が崩れるのは、ただ困るのではなく、怖かった。


 規則を守らないといけないのに、規則の外にある何かを疑ってしまう。


 だからレナは、混乱する前に線を引くことにした。


 壊したくないと思っている時点で、もう十分に大事になっているのだと、そこまでは考えないようにした。


 自分で引いた線なら、自分で越えない限り、越えられないはずだった。


 その夜、レナは異動願いを出した。


 離れたいからではなかった。

 むしろ逆だった。

 離れたくないからこそ、先に自分で切り離すしかないのだと、理屈だけが冷たく整っていた。


 このままここにいたら、守りたいものの順番を自分で入れ替えてしまう。

 本より先に、規則より先に、たった一人が気になってしまう。

 やがてそれを、選ぶと呼ぶ日が来る気がした。

 その人が来るかどうかで一日の輪郭が変わってしまう。

 会えないだけで、こんなふうに仕事の手が止まる自分を、もう知ってしまった。

 その予感が、レナには怖かった。


 誰にも言わなかった。理由も詳しくは書かなかった。ただ、異動を希望します、とだけ。


 ……あの人に褒められたマニュアルはそこにある。仕事をするだけなら、私である必要はない。


 そこまで思って、レナは罠にはまった。

 その言葉で傷つく理由がある時点で、もう手遅れだった。



 十月の末、雨の降る午後に、アルが言った。


「あの部屋に入りたい」


「なぜ」


「前から気になっていた。鍵がかかっている。君しか入れない部屋だ。どんな本があるのか知りたい」


「規則を忘れたので」


「覚えている」


「なら、入れないことはわかるでしょう」


「だから頼んでいるのだ。入れてほしい」


「あそこには……個人的な資料も含まれます」


「見るだけでいい」


「見るだけ……」


「駄目か」


 レナはしばらく考えた。断る理由はある。けれど、断る理由の根拠を問われたとき、業務上のそれだけでは足りない気がした。


 足りない理由に名前をつけたくなかった。

 しかしレナは、許可する理由にも名前をつけたくない。


「一度だけ」


 そう言ってから、レナは鍵を取り出すまでに一拍かかった。

 断る理由はある。けれど許可したくない理由のほうは、もう業務だけでは説明できなかった。


「私が案内します」


 なぜそう言ったのか、レナはその時わからなかった。


 指先に触れた金属が、いつもより少しだけ重く感じられた。


 廊下を歩くあいだ、アルは珍しく何も言わなかった。

 足音だけが、閉館後の静かな図書館に小さく響いていた。

 それなのにレナには、その沈黙だけで十分うるさかった。


 書庫の扉の前で、レナは鍵穴へ鍵を差し込む前に一瞬だけ手を止めた。


 この扉を開ければ、自分とアルのあいだに引いていた境界まで、別の形に変わってしまう気がした。


 考える前に、鍵を回した。


 閉架書庫は図書館の最奥にある。


 扉は重く、閉めると空気が変わる。古い紙と乾いた木の匂いが濃くなり、小さな窓から差し込む光は斜めに細い。

 アルが息をする音まで、いつもより近く聞こえた。

 閉じているのに深い感覚をもたらすみたいで、レナはここが図書館の中で一番好きだった。


 アルは入った瞬間、珍しく動きを止めた。しばらく何も言わず棚を見上げている。雨音が、遠くで静かに鳴っていた。


「気になりますか」


「なる。どの本も見たことがない」


「修復待ちの資料、絶版で複製不可の本、寄贈者の希望で非公開にしているもの。それから」


 レナはほんの一瞬だけ間を置いた。


「個人的なもの」


 アルは棚の間をゆっくり進み、その手が一冊の布張りの本で止まった。小さくて、題名のない本だった。


「これは何だ」


「……日記です。私の」


 アルはレナを見た。


「なぜ棚に」


「本は棚に入れるものなので」


「未分類の棚に置いてある。この一冊だけ」


「日記は分類できませんから」


 それを聞いて、アルは少しだけ考えるような顔をした。次に本を指さした。


「これ、読んでいいか」


 レナは少し迷ってから、頷いた。


「…………どうぞ」


 アルは頁をめくっていき、最後のほうで手を止めた。白紙だった。


「最後の頁だけが白紙だ」


「はい」


「なぜ続きを書かない」


「書くことがなくなったので」


 アルはレナを見た。


「妙だ」


「……」


「余白がある。書くことがなければ余白を作らない。このノートにはまだ白紙が残っている。この日記の最後の言葉は、『それから』だ。ここで止まっている。続きを書く気があって、しかし書いていない」


 レナは何も言えなかった。


「未完の本は、完成させなければならない」


 アルの声は、ひどく真面目だった。


「続きを書く。何が起きたか教えてくれ」


「他人が書いていいものじゃありません」


「なぜ」


「日記だからです」


「日記とは何だ。自分の記録か」


「そうです」


「ならばその記録を、お前に代わって私が——」


「駄目です」


 ほんの少しだけ声が強くなったのを、レナは自分でわかった。


「日記は事実の記録じゃないんです。そのときの感情の記録だから——」


 短い沈黙が落ちた。


 レナは息をひとつ飲んだ。


「私の感情を、あなたは書けない」


 それから。

 何秒経ったのか、わからなかった。


 アルが、手持ち無沙汰を紛らわせるみたいに胸ポケットへ手を入れた。


 栞が出てきた。


 その手には別の本があった。さっきから棚から外されたままになっていた一冊だ。アルは特に探す様子もなく、ぱらぱらと頁をめくった。ただ、手が動いていた。


 そして、ぴたりと止まる。


 いつもの場所だった。


 レナはその頁を見た。


 そこは、昔の日記に自分では書けなかった感情を、他人の文章に借りて線を引いた場所だった。


 アルは気づいていない。自分がどこで止まったのか、この人はいつも気づいていない。


 けれど、その手はもう答えを知っていた。


 レナは息を呑んだ。


 この人は、ずっと、私が止まる場所で止まっていたのだ。


 誰かに教わったわけでもない。

 意図して選んだわけでもない。

 ただ、そこで手が止まる。

 もう、偶然では守れなかった。


 この人はずっと、言葉にならなかった自分の輪郭へ触れてきたのだ。


 叫ぶような確信ではなかった。ただ静かに、そこにあるものとして胸の中へ収まった。


 アルがレナを見た。何かを言おうとして、少しだけ迷う。


「俺は、お前を……」


 アルは眉を寄せた。

 言い慣れない理論を口にする時とは違う詰まり方だった。

 考えるより先に胸のほうが答えているのに、それを言葉へ移せない顔だった。


「お前のことだけ、定義できない」


 そこでいったん言葉が止まる。

 それでも、もう引き返す気のない声で続けた。


「どの棚にも入れられない。ほかの何かで代用もできない。なのに、手放す気にもなれない。それが——ひどく困る」


 そこで一度、言葉が切れた。


「他のものは調べれば事足りた。だが、お前のことだけは、調べて考えるほど、むしろ足りなくなる」


 完成しないままの言葉だった。


 けれどレナには、完成されたどんな言葉よりも明確に届いた。

 足りなくなる、と言いながら、少しも手放すつもりのない声だったから。


「代わりにお前が分類してくれないか」


「…………それは私も、ひどく困ります」


 困る、という言葉の形をしていないと、とても口にできなかった。


 レナはぎゅっと自分の手を握った。


「あなたに会ってからというもの、ずっと困りっぱなしです」


 レナは、薄く下手くそに笑った。


「——なのに、会わないままでいるほうが、もっと困る気がしていました」


 そう言ってしまってから、レナは少しだけ目を伏せた。

 言葉にしてしまえば、もう何もなかった頃には戻れない気がした。


 けれどアルは、まるでその一言を待っていたみたいに静かに息をした。


 二人は書庫を出た。


 レナはいつも通り扉に手をかけた。鍵を差し込もうとして、止まった。


 鍵が、ない。


 ポケットを確認した。鍵束を取り出したのは、書庫に入る前だった。アルに先に入ってもらうとき、手が塞がって、どこかに置いたはずだった。


 書庫の中を振り返ると、棚の端に置きっぱなしになっていた。


 レナは取りに戻り、扉を閉め、鍵をかけた。


 何も変わっていないように歩き続けた。廊下の灯りが白かった。


 日記は、棚に残されたままだった。

 けれど本当に置いてきてしまったのは、もっと別のものだった気がした。

 書庫へ入る前と同じ順序では、もう何も考えられない。



 一週間後、異動願いの承認が下りた。


 館長室から届いた封書には、見慣れた判子と「承認」の文字があった。レナはしばらくそれを手に持ったまま動かなかった。


 自分で出した願いだ。自分で引いた線だ。それが返ってきただけだった。


 正しいことのはずだった。

 そう言い切ってしまえば終われるはずなのに、胸のどこかがそれを承認しなかった。

 自分で引いた線のはずなのに、自分だけがその内側へ取り残されたみたいだった。


 言葉で閉じようとするたび、その隙間に名前のつかない何かが静かに入り込んできた。


 それは大きな感情ではなかった。ただ、書棚の奥に収まるはずの一冊が、どこにも入らないまま手の中に残り続けるような、そんな小さな違和感だった。


 十一月の最終金曜日、レナは荷物をまとめた。


 私物はもともと少ない。文房具と外套、引き出しの中の数冊。片付けに三十分もかからなかった。


 アルは来なかった。


 いつもなら開館前からどこかの棚にいるはずなのに、その日は朝から姿がなかった。


 来ないことが正しい、とレナは思った。来たら、何かが言えなくなる。来なければ、何も言わずに済む。正しいことの多くは、何かを言わずに済む形をしていた。


 箱をひとつ抱えて、カウンターに鍵を置く。


「お世話になりました」


 誰もいない図書館に向かって言った。もしかすると本に言ったのかもしれなかった。


 扉へ向かって歩き出したとき、その扉が開いた。


 アルではなかった。


 見知らぬ男が封書を差し出してきた。王室の紋章が入っている。


「レナ・ヴァルス司書宛に、直接お渡しするよう命じられました」


 受け取って封を切る。


 地方図書館への異動許可証ではなかった。


 王立図書館、整理編纂室への転属命令。

 旧蔵書再編計画のために新設される部署であり、王国魔法学者アルベルト・ユークレイスの再三の進言と、王都立図書館分類体系・第三版の有用性の確認を受けて決定されたもの、と記されている。


 欄外には、館長の手ではない細い追記があった。

 旧蔵書再編記録の整理人員については別紙参照、とだけある。

 その几帳面な筆致に、レナは見覚えがあった。


 レナはそこを、もう一度読んだ。

 再三の進言、という文字の上で視線が止まる。

 もう一度読んでも文面は変わらなかった。


 紙を持つ指先から、わずかに力が抜けた。

 うまく息が吸えないまま、どうしてか視線が窓際のあの席へ向く。

 誰も座っていないはずなのに、そこだけが先に胸へ触れた。


 旧蔵書再編。

 あの午後、アルが途中で止まった整理記録簿を見ながら言った言葉が、胸の奥でつながった。


 この人は、見ていたのだ。図書館のことも、仕事のことも、その先に広がる価値のことも。ずっと。

 見ていただけではない。

 何も言わないところで、ちゃんと手を伸ばしていたのだと、そこでやっとわかった。


 それだけではない。


 自分が離れようとしたことまで知ったうえで、引き留めるのではなく、別の道を作ったのだ。

 行くなとは言わないまま、行き先だけを書き換えてしまう。

 上書きするのではなく、最初からそこにあったみたいに。


 そのやり方が、あまりにもあの人らしかった。

 真正面から奪うのではなく、必要なものだけを静かに残していく。

 そうやってずっと見られていたのだと気づくと、胸の奥が遅れて熱くなった。


 しかもそれは、自分を閉じ込めるためではなく、もっと広い場所へ連れ出すための書き換えだった。


 その下に、見慣れた几帳面な文字で一行だけ添えられている。


『この本の続きは、お前と書く』


 その一行だけで、喉の奥がきつくなるほど十分だった。


 レナはその紙を持ったまま動けなかった。


 まるで、自分だけが知っていた未完の頁へ、ためらいなく手を伸ばされたみたいだった。

 ひとりで閉じるはずだった余白に、当然のように隣へ並ばれた気がした。


 この人は、ずっとそういう人だった。言葉より先に手が動く。気づいているのかいないのか、それさえ曖昧なまま、体が先に答えを出してしまう人だった。


 扉がもう一度開いた。


 今度こそ、アルだった。


 早足で来たのだろう、外套の襟が少し乱れている。いつもは正確なその人にしては珍しい乱れだった。

 間に合うように急いだのだと、その一秒だけでわかってしまった。


 アルはカウンターの前で止まった。


 レナの視線が、ふとアルの胸元へ落ちた。あの感情ノートは、今日もそこに入っているのだろうと思った。胸の詰まりに名前をつけられないまま、同じ頁に何度も書き足してきたのかもしれない、あの几帳面なノートだ。


「分類できないものに」


 アルはそこで、ほんの短く息を置いた。


「名前をつけることにした」


「……なんという名前ですか」


「まだ決められない。だが、お前を感じる時にだけ起きるものだ。お前がいないときには、いつも足りなくなる」


 少し考えてから、アルは付け足した。


「こんな曖昧なままにしておくのは、本来なら耐えがたい。だが、お前のことだと思うと、それすら手放したくない」


「……なぜ」


 アルはその質問にすぐには答えなかった。


「好きな言葉がある」


「なんですか」


「——言葉は、沈黙の形を取るときに最も多くを語る」


 あの栞の頁。

 あの詩句を、アルは静かにレナへ返した。


 その言葉を聞いて、レナは今までにない表情をアルに見せた。

 自分の中のいちばん静かな場所へ、ためらいなく触れられた気がした。

 それを見たアルも、レナに見せたことのない顔をした。


「実践してみた。沈黙すると、輪郭が浮かび上がってくることがある。だから、一人でいるたびに黙ってみた。……確かに、効果はあった。感覚を通して、いろんなことを俺に語りかけてきた。輪郭も、以前よりははっきりしてきている。なのに——」


 アルは、そこで言葉を切る。


「まだ、一人では決められない」


 視線が少しだけ落ちる。


「その名前を、レナと決めたい」


 ひとりで定義するのではなく、ふたりで決めるのだと。

 その言い方だけで、レナの胸の奥にあった何かがすっと緩んだ。


 最初から答えを知っている言い方ではなく、自分を必要とする言い方だった。


 完成された告白ではなかった。

 けれど、完成されたどんな言葉よりも真っ直ぐだった。


 レナは少しだけ黙った。


「ずっと、分類できないのはあなただけだと思っていました」


 アルが目を上げる。


「でも、違ったみたいです」


 レナは小さく息をついた。


「私のほうも、もうあなたをただの利用者には戻せそうもありません」


 少しだけ間を置いて、今度は逃げずに続ける。


「……戻したくも、ありません」


 レナは一度だけ息をついた。


「あなたがいるほうが、一日の並びがきれいだと思ってしまうので」


 一度言ってしまうと、もう隠せなかった。


「あなたがいないと、やっぱり困ります……」


 アルはしばらく何も言わなかった。

 ただ、答えを受け取るみたいに静かにレナを見ていた。


「よかった」


 その一言は小さかったのに、妙に深く響いた。


 アルが安堵した顔を隠そうとしなかったのは、そのときが初めてだった。


「俺も、お前がいない場所へ戻る気はない」


 完成された告白ではなかった。

 けれど、その言葉には選び直しの余地がなかった。


 レナはそのまっすぐさに、少しだけ目を伏せた。

 けれど、もう逃げるつもりはなかった。


 アルはレナの箱のいちばん上へ手を伸ばした。


 そこに入っていた小さな布張りの本を取り上げ、カウンターの上へ置く。


 最後の白紙の頁が開かれる。


 窓の外では、十一月の風が古い本の匂いを運んでいた。冷たい空気の中で、白紙の頁だけが、かすかに熱を持っているように見えた。


 その瞬間、レナの胸の奥で、長く張っていたものがほどけた。


 レナは何も言えなかった。


 代わりに、カウンター脇のペン立てから一本抜いた。


「……アル」


 呼んだのは、たぶん初めてだった。


 たった二音なのに、それまで口にしなかった時間のぶんだけ重みがあった。

 名前にした瞬間、それまで分類不能だったものの輪郭が、ほんの少しだけやわらかく定まる気がした。


 アルは何も言わなかった。ただ、その名を受け取った顔をした。

 その一度きりで、これまで呼ばれなかった時間まで報われたみたいな、そんな顔だった。

 レナはその表情を見て、呼んでよかったのだと初めて思った。


 白紙の頁の前で、今度は手が止まらなかった。


 ペン先に、ごく淡い青白い光がひとすじ走る。


 白紙の上へ、最初の一文字が記された。


 アルの手が、紙の端にそっと触れる。

 その距離を、レナはもう拒まなかった。


「王立図書館の近くに、気に入っているケーキの店がある」


 アルが言った。


「一緒に食べないか」


 レナは一瞬だけ目を瞬かせて、それから少しだけ視線を伏せた。


「……規則の範囲内なら」


 そう言ってから、ほんの少しだけ間を置く。


「でも、今日は少しくらい、規則の外でも構いません」


 アルは返事の代わりに、レナの箱を自然に持ち上げた。

 以前なら止めていたはずなのに、レナはもう止めなかった。

 並んで歩き出すと、歩幅が思っていたよりよく合った。

 外へ出る直前、箱を持ち直したアルの指先が、ほんの一瞬だけレナの手に触れた。

 どちらも何も言わなかったが、もう避ける気は起きなかった。


 名前はまだ決まっていない。

 けれど、それでよかった。

 決めるまでの時間ごと、もうふたりのものにできる。

 名前より先に、その時間を失いたくないと思っていた。


 きっとこれから先、何度でも立ち止まり、何度でも名付け直していくのだろう。

 白紙の頁が少しずつ埋まっていくみたいに。

 そのたびに隣にいるのがこの人なら、分類できない日があってもいいとレナには思えた。

 むしろ、すぐに言い切れないままの時間ごと、失いたくないと思った。

* * *


 王立図書館の近くのケーキ店で、アルは当然のようにレナの椅子を引いた。


 礼を言うと、「そのために引いた」と返ってくる。

 相変わらずだな、と思いながら、レナは苺のタルトにフォークを入れた。向かいでは、アルがチョコレートケーキを選んでいる。


「どうだ」


 レナはもう一口食べてから、小さく息をついた。


「……おいしい」


 そう答えると、アルは少し大げさなくらい満足そうに頷いた。


「よかった。ここは俺のお気に入りなんだ。……また来たい」


 レナは思わず顔を上げた。


「まだ来たばかりですよ」


「レナの食べている顔を見たら、また来たいと思った」


 真顔で言われて、レナはフォークを持ったまま少しだけ黙る。


「……急にどうしたんですか」


 アルは少しだけ首を傾げた。


「思ったことを言っただけだ」


「……よくわかりません」


「そうか。珍しいな。では説明する」


 一拍置いて、アルは言った。


「お前が可愛いからまた来たいと思った」


 不意打ちの言葉に、レナは息を止めた。


「…………それは、反則では」


「反則?」


 何のことはよくわかっていない顔をしていた。


「いえ、何でもありません」


 アルは少し考えるように目を細めた。


「レナと来たい理由のうちの一つを言っただけだ。まさか、可愛いの定義を間違えたか。愛らしいという意味で使ったのだが」


「…………合ってます」


「ならば愛らしいという意味が間違っているのか……愛らしいという意味は……どうやらまだ定義できそうにないな」


 やっぱり、おかしな人だ。


 そう思いながら、レナは頬が少し熱いことに気づかないふりをした。

 窓の外に見える王立図書館を眺める。

 こうして甘いものを食べる時間も、悪くないとレナは思った。

 ただ、今日いちばん甘かったのがケーキではなかったことには、気づかないふりをした。


* * *


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