エピローグ そして、いつかまた
欧州の某国。
空港から首都に向かう道の片隅に、小さな碑が立っている。
一人の男性が現地の人に場所を聞き、碑の前に立つ。
日本人である。
年齢は三十歳くらいだろうか。
仕立ての良いスーツを着ている。
男性は碑に掘られた名前を、指で辿る。
その中の一人の名前で指が止まった。
「ようやく来たよ、ロコ」
風が吹く。
日本の秋風よりも、少し冷たい。
男性は髪をかき上げ、碑の前に包みを置く。
「君なら、花より食べ物が良いよね」
男性は、初めて会話した日の、『ロコ』こと菰田紘子の笑顔を思い浮かべた。
二人とも、小学二年生だった。
◇◇
「ねえ、走らないの? 俊貴くん」
体育の授業を見学していた結城俊貴は、ぴょこんと目の前に現れた少女に言葉を返した。
「走れない、から」
「へえ……何で?」
「お医者さんから、止められているんだ」
俊貴は小児喘息を抱えていた。医者からは、短距離走くらいなら大丈夫と言われているのだが、俊貴自身が一歩踏み出す気になれなかった。
「そっかあ。早く、治ると良いね!」
ニカッと笑うと、紘子は授業に戻っていった。
運動会前の練習で、クラス全員、校庭で走っている。
紘子はいつも、集団のトップだ。
男子よりも、なんなら六年生よりも、紘子は速い。
紘子の走る姿を、俊貴はいつも、ぼんやり見ていた。
それは彼の心の、小さな憧れだった。
「クラスリレーは、全員参加です」
担任の言葉で、俊貴の顔は暗くなる。
発作を起こさないよう、恐る恐る彼が走ったら、きっとこのクラスは最下位になるだろう……。
「先生!」
勢いよく紘子が手を挙げる。
「俊貴くん、走れないでしょ?」
若い担任は、首を傾げ答えた。
「ゆっくりで良いのよ。歩いても構わないし」
「えっ、じゃあ、優勝出来ないじゃん」
紘子と速さを競っている男子が、不満そうな顔をする。
「先生、俊くん、お医者さんから走るの止められてるんだから、『トクベツなはいりょ』しましょうよ」
紘子が小難しいことを言う。
「まあ、そうねえ。校長先生に相談してみるわ」
やる気が感じられない担任だったが、なんとか校長の許可が出た。
俊貴への『トクベツな配慮』とは、伴走を付けるということだった。
コースの外で、応援しながら。
伴走者は紘子に決まった。
「一緒に走れば大丈夫!」
紘子は笑って俊貴の手を取った。
「まあ、私が最初に走って、ぶっちぎっておくからね」
「あ、ああ。ありがと」
本当は有難迷惑に近い、配慮だったのだが、思いのほか、俊貴の母が喜んでいた。
運動会を迎えた。
宣言通り、第一走者の紘子は、他のクラスの走者を半周遅れにして、バトンを繋いだ。
それを引き継ぎ、クラス全員、一位のまま俊貴の番が来る。
レーンの外側に、紘子が待っていた。
「大丈夫! 一緒に走るよ、トシ」
わけも分からず、何度も頷いた俊貴は、バトンを受け取り走り出す。
俊貴のスピードに合わせ、半歩だけ先を行く紘子。
俊貴の心臓が、ドクンドクンと音を立てる。
息は苦しいが喘鳴は出ていない。
ゴールの先に、母が大きく腕を振っている。
走れる。
走っても大丈夫だ!
紘子の笑顔。クラス全員の声援が、俊貴の背を押した。
そして、初めて俊貴は、ゴールテープを切ったのだ。
「やったね! トシ!」
「呼び捨て……」
「うん、トモダチだもん。私のことは『ロコ』って呼んで」
俊貴は少しずつ、体育の授業に出席出来るようになった。
校庭に出ると俊貴は、目の片隅でロコを探す。
走っても、ボールを投げても鉄棒でも、紘子はなんでも得意だった。
紘子の周りにだけ、光が集まっていた。
その年、運動の得意な小学生を集めての、選抜試験が開催された。
試験に合格すると、トップアスリート予備軍として合宿所に入れるという。
紘子は楽々合格し、合宿所に入ることになった。
「おめでとう」
俊貴は小さな花束を紘子に差し出した。
「ありがと! あ、お花も好きだけど、お菓子はもっと好きだよ」
悪戯な笑顔を見せながら、紘子は去った。
ひそかに、俊貴は紘子の応援を続けた。
あっという間に紘子は、ジュニアオリンピック候補者になっていく。
競技種目はフェンシングだと聞いた。
中学に進学した俊貴は、剣道部に入った。その中学に、フェンシング部はなかったからだ。
時々、新聞のスポーツ欄に載る紘子の記事を、ノートに貼っていた。
――ロコ、君が頑張っているなら、僕も負けない
俊貴が記事を貼り付けたノートが三冊を超える頃、紘子はジュニアユースで優勝した。
次はオリンピック。
十七歳の紘子が、女子フェンシグの金メダル候補として大きく取り上げられた。
――やったね、ロコ!
俊貴はスポーツ新聞を何紙も買って、記事を切り抜いた。
遠い国での開催だから、直に応援に行けない。
でも心から応援するんだ。
トモダチの君を――
だが……。
選手たちを乗せたバスが、テロに巻き込まれて爆発した。
生存者はいなかった……。
◇◇
「ミスター結城」
碑のまえで動かない俊貴に、声がかかる。
この国の書記官、レオナルドだ。
「そろそろ時間ですが……この碑に何か?」
立ち上がった俊貴は、一つ息を吐く。
「トモダチが、眠っているので」
レオナルドは納得した表情になる。
「あれは不幸な事件でした。我が国の未来ある者たちも、多数……」
俊貴は頷き、レオナルドに言う。
「だからこそ、今日の会議を成功させなければ。二度と、このような不幸を起こさないためにも……」
この日、新しい枠組みの国際的組織を設立する宣言がなされた。恒久的平和を理念に掲げて。
俊貴は風を受けながら、遠くの空を見る。
――ねえ、ロコ。僕は君を忘れない。君が僕を忘れても。
もう一度、君に会いたい。一緒に走りたい!
いつか、何処かでまた、会える日がくるのなら……。
その時は君の隣、君の側にいて、絶対君を、守りたい――
了
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