第1話 転んだ令嬢
※コロン様主催『アフォの祭典』企画に参加した「忌み子と呼ばれ見捨てられた令嬢は、転生前はトップアスリートだった・序」を加筆して投稿いたします。
コロンは転んだ。
歩き方が、ドチャクソ下手だからだ。
でもコロンは歩きたい。いや、正確に言えば――走りたい。
庭の石畳に膝をついて、涙でにじむ視界の中で、コロンはふらふらと手をつく。
両手は真っ黒に汚れ、裾も泥でぐしゃぐしゃだった。
けれど、その顔は笑っていた。
「いま、ちょっとだけ動けた……!」
その声を聞いて、遠くで洗濯物を干していたメイドが眉をしかめた。
「お嬢様、また転ばれましたの? お怪我は……」
彼女の言葉を待たず、コロンは立ち上がろうとして、また尻もちをつく。
四歳目前の幼女にしては、割としつこい執念だった。
コロン・コロンダ。
フィオ王国の南端にある辺境領、コロンダ子爵家の次女である。
生まれたその日に、彼女の人生は、滑り出しからつまずいていた。
「忌み子は捨てろ」
産声を上げたばかりの赤子を見下ろしながら、父である子爵は冷たく言い放つ。
この国では双子は忌みとされる。
神の恵みではなく、呪いの証。
ひとりは祝福、もうひとりは災い。
そんな迷信が根深く残っていた。
コロンはその「災い」のほうだった。
だが、運命の天秤をわずかに傾けたのは、一人のお産婆さん、ミックである。
ミックは丸い頬と優しい手をした、田舎訛りの強い女性だった。
「子爵様、このお嬢様を捨てるなんて、もったいないですじゃ」
軽い冗談めかして言ったその一言が、奇跡の種を残した。
子爵は「そうか」と頷き、コロンを殺さずに済ませた。
ただし――その瞬間から、子爵の中でコロンという娘は「存在しない子」になった。
コロンの母も同じだった。
コロンが泣いても抱かない。笑っても見ない。
母の視線の先には、いつももう一人の娘、双子の姉であるココミンがいた。
金糸のような髪、透き通るような白い肌、何をしても愛らしい完璧な子。
父と母の愛情も、家の財も、教育も、すべてココミンに注がれた。
対してコロンは、離れの粗末な部屋で育てられた。
育児を任されたメイドは一人だけ。名前はリサ。
彼女もまた「忌み子の世話係」という役目に嫌気がさしていた。
日の出とともに、リサはコロンを籠に入れ、庭の片隅に置く。
掃除や洗濯をし、時々水を与え、日が傾くころにようやく離れに戻す。
放置に近い育児。
それでもコロンは不思議と生き延びた。
ただし、生き延びた代償は、それなりに大きかった。
一歳を過ぎても、二歳になっても、彼女は立ち上がれなかった。
言葉も、出てこなかった。
周囲は「呪いが体に出たのだ」と噂した。
それでも、誰もコロンを助けようとはしなかった。
そんなある日。
三歳を少し過ぎたころ。
離れの天井を見上げながら、コロンは突然、流暢に喋り出した。
「……え? え? ここどこ? なんで私、こんな小さいの? えっ、か、体が、重っ!」
メイドのリサは手に持っていた桶を取り落とした。
「ひ、ひぃっ!? しゃ、喋った!?」
コロンは自分の手を見つめる。ぷにぷにとした小さな手。
声は甲高い幼女のそれだった。
だが、頭の中には明確な違和感があった。
記憶が二つ。頭の中に映像としての記憶があったのだ。
一つはこの世界の「コロン・コロンダ」としての短い人生。
もう一つは、前世の記憶。
喋り出すと同時に、彼女には分かった。
かつての自分は日本という国で生きていた。
赤羽のトレーニングセンターで、毎日八時間の練習をしていた。
女子フェンシングのジュニア代表、トップアスリート候補。
夢はオリンピックの金メダル。
だが、夢の途中で終わった。
遠征先の欧州でテロに巻き込まれ、あっけなく命を落とした。
目を開けたら、籠の中。
泣き叫ぶメイド。冷たい石の壁。
言葉も通じない。
――ああ、これ、異世界転生ってやつじゃん。
コロンは、絶望よりも先に呆れた。
「いや、なにこのハードモード。赤ちゃんスタートとか聞いてないし……」
リサは震える声で叫んだ。
「ひっ、ひいっ、しゃ、喋る! 忌み子が喋る!」
コロンは慌てて口を押さえる。
しまった。いきなり喋ったらそりゃ怪しまれる。
とっさに、幼児らしい無邪気な笑顔をつくった。
「ああ。ま、まま……?」
リサはぎょっとした顔のまま逃げ出した。
その日から、コロンは慎重になった。
この世界の常識を知らないまま、変なことを言えば命に関わる。
とりあえず、三歳児らしいふりをして、周囲を観察することにした。
観察すればするほど、この世界が「異世界」であることは明らかになる。
城壁、石造りの家々、日暮れに鳴る鐘の音。
そして、空を行き交う光る鳥――魔力を帯びた精霊生物らしい。
日本のどこを探しても、そんなものはいない。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
前世では「競技で生きる」ことがすべてだった。
それを失った今、何を目指せばいいのか。
その答えがまだ見つからなかっただけ。
――でも、まず、走りたい。
気づけば、心の奥底でその思いだけが、強く光っていた。
前世の記憶を取り戻した数日後。
コロンは初めて「立つ」ことに成功した。
離れの壁に手をつき、震える膝を押さえながら、ゆっくりと足に力を込める。
「……できた……!」
世界が、ほんの少し高くなった。
その景色を見た瞬間、胸の奥に蘇るものがある。
――あのときだ!
国立競技場のトラックを初めて走ったときも、こんな気持ちだった。
しかし今現在の体躯では、国立競技場どころか、狭い庭を歩くことすら危なっかしい。
すぐに膝が折れ、前のめりに倒れる。
顔から落ちた。痛い。涙が出る。
それでも、笑った。
声を出して笑った。
「よし、転んでも、起き上がればいいや」
コロンの独り言を聞いているのは、通り過ぎる風だけだった。
やがて、本邸から執事が、コロンの様子を見にやって来た。
名はセバラン。年老いた紳士で、唯一コロンを憐れむ人だった。
「……この子は、放っておいても死なないのだな」
彼は苦笑し、離れの埃を払ってやった。
そして、そっと言った。
「お嬢様、どうか生きてください。誰も見ていなくても」
爺様のような執事(実際、爺様だが)の言葉に、コロンはわずかに頷いた。
それはこの世界で初めて感じた、温もりだったのだ。
夕暮れ。
コロンは再び立ち上がる。
もう一度、足を前に出す。
――転ぶ。
――立つ。
――転ぶ。
――立つ。
繰り返し、繰り返し。
小さな身体が、土にまみれながらも前へ進む。
見上げた空には、茜色の雲が流れていた。
それはどこか、前世で見た夕焼けに似ていた。
「いつか、走ってみせる」
コロンは小さく呟く。
誰に聞かれるでもない誓いだった。
日が暮れる。
ちんまりとした小屋にも夜が来る。
メイドのリサが寝入ったあと、コロンは月明かりの中で手足を動かしていた。
柔軟、スクワット、腕立て。
前世のトレーニングを、思い出し、ジタバタ不格好な動きを繰り返す。
「筋肉は裏切らない……って、言ってたよね、コーチ」
細い腕が震える。汗が滲む。
それでも、やめなかった。
転生した世界がどんな理不尽でも、自分の身体だけは裏切らない。
それだけが、彼女の希望だった。
コロンは転んだ。
だが、そのたびに立ち上がる。
危うい小さな足取りが、やがて世界を変える一歩になることを――
まだ、誰も知らない。
Q:完結しろよな
A:ぎょ、御意っす




