3)憎しみ
最近、なぜかユヴェールと目が合うことが増えた。セイシアがつい気になって様子を見てしまうからかもしれない。
ユヴェールと目が合ったからといっても、セイシアの心は凪いでいた。正直にいえば、すっかり凪いでいるわけではないけれど。王子の瞳の麗しさに小波くらいは立つとしても。予知夢とは違うと言い切れる。
我を忘れて恋をしたあの予知夢とは違う。
そのことにほっとする。あの初日の邂逅があれば彼に惹かれたのかもしれないが、過ぎてしまえばもう恋心が揺さぶられることはなかった。
セイシアは誰かと愛し合いたいという憧れは強いと思う。
誰からも好かれずに虐待されながら子供のころを過ごしたせいか、愛情というものに切ない想いを抱いている。「無い物ねだり」なのか。自分には縁が無かったから余計に羨望してしまう。
けれど、予知夢ではユヴェールとの恋は悲恋で終わっていた。
予知夢のセイシアは、ユヴェールに惹かれた。体調の悪いまま慣れない学生生活が始まり、助けてくれたユヴェールに惚れてしまったのだろう。その切っ掛けはなくなってしまった。
そのために、二人の運命はすっかり変わってしまったようだ。
予知夢ではユヴェールと恋仲になったがために嫉妬され嫌がらせをされ、あげく禁忌の薬物のことを暴かれた。
予知夢でのあの辛い日々はユヴェールを愛していたから乗り越えられた。ユヴェールへの想いがなければ悲惨なだけだ。ようやく性悪な叔母から逃れられたのだから、このまま穏やかに暮らそう。
教室を移動し次の授業で使う教科書をそろえていると、目の前に誰かが立った。
見上げると、ユヴェールだった。
「セイシア・ラズウェルだね」
「はい、そうです。殿下」
セイシアは、反射的に立ち上がり臣下の礼をしようとして止められた。
「学園では必要はない」
「そうでした」
セイシアは入学式での注意事項を思い出して腰を下ろした。身分によって態度を変える必要はないと言われていた。最低限の節度さえ守れば良いのだと。その最低限の節度というのが難しいのだが、臣下の礼をするのは辞めて良いはずだ。
ユヴェールはセイシアの隣に座った。取り巻きの二人はいないようだ。
胸が騒がしい。どうして殿下が一人で隣にいるのだろう。
同じクラスなのだからおかしなことではないとしても。
セイシアがアロニスたちを横目で探していると「どうした?」とユヴェールに尋ねられた。
「ご友人のお二人はいないのですね」
「ああ、私の用事を済ませにいっている」
「護衛も兼ねているのかと思っていました」
「それはそうだが。学園内だからね」
なぜかユヴェールは気まずそうだ。学園内だから安全だ、と言いたいらしい。
「セイシア嬢は高等部から入学だね。親しい学友は見ないようだが」
セイシアがいつも一人だからだろう。そんなことまで王子は気にするのかと少々驚いた。
そういえばユヴェールは、冷淡そうに見えるけれど、誰とでも話をしている。側近の二人の知り合いと話すことが多いようだが、いつも誰かしらに朗らかな顔を向けている。
あの図々しいリゼルも、排除されることなく許しているのは大丈夫かとは思うが。光魔法属性もちは、それだけ大事なのだろう。
リゼルが付きまとっているので他の学生と話す機会があまりなさそうだが、それでも、気さくに話す姿を見るのだから、彼は案外、気安い人なのかもしれない。
「私は口下手で上手く話せませんし、社交的ではないので」
「今はふつうにしゃべれているが?」
「そういえばそうですね。たぶん、殿下が話をふってくれるからです」
ふと、ユヴェールの視線がセイシアの手に触れた。
「ほっそりした指だね。寮の食事は少なすぎないかい」
ユヴェールの口調は少し冗談めいていた。
セイシアはそっと手を握り込んだ。叔母にさんざん細い竹の鞭で叩かれた手だ。
ふつうの鞭打ちよりはマシかもしれないが、手の平に古い傷痕が幾筋もあった。普段は見られないように気をつけているが、今は油断していた。
「いえ、食事はしっかり食べています。ここの寮の食事は美味しいですし量もたっぷりしていますね」
セイシアは傷痕のことを触れられなかったのでほっとして頬笑んだ。
寮の食事はセイシアは気に入っていた。十分な量があるし献立も健康的で良い食事だと思う。寮生の中には文句を言う者もいたが、それまで豪勢な食事をしていたからだろう。
「まぁそう、だな。悪くは無い。セイシアは先日の実力試験はトップだったな。まさかの満点とはな」
「え? いえ、満点ではありませんよ。幾つか九十点代がありましたから」
セイシアは誤解を解くために慌てて首を振った。
「どう頑張っても百点が取れない試験があっただろう?」
「そんなのありましたか。もしかして、魔方陣構造学と魔獣生物学ですか」
「そうだ。あの小論文は満点は取れない」
「そうなんですか」
満点を取れない試験があるとは驚きだ。
「両方ともドーブル教師だ。彼の出題した小論文は、大賢者ガウエルでないと満点はとれない。ドーブル教師が自ら言っていた。小論文はガウエルくらいに書けて満点だそうだ。そこから、減点方式で点を付ける、とね。それでセイシアは九百九十点だったよね? 十点はどこで引かれた?」
「魔方陣構造学と魔獣生物学です」
「なるほど。もしも千点だったら、きっと不正だとかカンニングだとか騒ぐやつがいたな」
「ふ、不正? まさか、そんなこと」
セイシアはがっかりして力が抜けた。恋仲にはなれなくても嫌われたくは無かった。ましてや不正を疑われたとは残念だ。
「ああ、もちろん、私はそんなことは思っていないからね。魔方陣構造学と魔獣生物学の小論文で減点がそれぞれ、たった五点くらいだったんだろう? そんな天才の不正を疑うなんてありえない。ドーブル教師の試験では不正は出来ない。他にも不正などやりようもない試験はいくつもある。それで、数少ない不正が可能かもしれない試験で君が不正をやったんだろうなんて。見苦しく騒ぐやつは明らかに嫉妬で頭がおかしくなっている」
「疑われていないのなら良かったです」
セイシアは安堵して緊張を緩めた。こんな些細なやりとりで人を疑ったり緊張したりするのだから、やはり自分は人付き合いは下手だなと思う。
「それで、満点の君に聞きたいんだが。魔導理論の回答について、どうしても納得できないところがあってね」
「ええ、難しかったですね。授業ではあんなに踏み込んでいなかったのに」
「そうだったな。でも、君は満点だろう。問い三はよく正解できたな」
「あれは、一種の引っ掛け問題ですよ」
「引っ掛け問題?」
「ジーン教師がよく使われている魔導師ルグロンの著書。独特の言い回しを頻繁に使うんです。それで、ジーン教師の設問もどうしても似たような表現が使われがちで」
「つまり、設問を勘違いしやすい?」
「そうです」
「そんなことか」
ユヴェールががくりと項垂れる。
「ふふ。そうですよね、脱力しますよね。たぶん、ルグロンの著書を丸覚えでもしていないと勘違いしやすいです」
「セイシアは丸覚してるのかい、ホント?」
ユヴェールは驚愕に目を見開いた。
「えっと。丸覚え、してる著書もあります」
ほぼ代表的な著書はぜんぶだけれど。
「凄いな」
ユヴェールは心底、感心した。
「いえ。少々、家庭教師が厳しくて」
セイシアは叔母のことを思い出してうつむいた。思い出したくなかった。
「そうか。あ、あと、攻撃魔法基礎論の試験なんだが」
「攻撃魔法基礎論ですか。なかなか楽しい試験でしたね」
セイシアは思い出して頬笑んだ。
「あれを楽しいと言えるのかい?」
ユヴェールは苦笑する。
二人が話しているとアロニスとディアンが教室に入ってきた。気がつくと他の学生たちもほとんど移動してきたらしく席が埋まっている。
「お二人はこちらへ。私は後ろに移りますから」
セイシアが立ち上がりかけると、ユヴェールが止めた。
「いや、いい」
ディアンも「ええ、いいですよ。そのままで」と頷く。
「でも、二人は」
セイシアは「護衛ですよね?」という疑問を言って良いのかわからず口ごもった。
「かまいませんよ。お気になさらず」
アロニスもユヴェールの右隣にディアンと二人で腰を下ろした。セイシアは若干、腑に落ちないままに座り直した。
隣では王子たちがこそこそとなにやら話している。聞いてはいけないだろうと思うのだが、会話の切れ端が耳に届く。
「お話できたんですね」
「ああ、まぁ」
「邪魔などしませんからわざわざ私たちを追い払うのは辞めてください」
「いや、そんなことはしてない」
なんだろう。
やはり会話の切れ端では意味が通じなかった。
以来、ときおりユヴェールに声をかけられるようになった。
セイシアの隣が空いているときはユヴェールが座ることもよくある。
魔導科の教室では席は自由で決まっていない。セイシアは、窓際の一番後ろが空いているときはそこに座る。塞がっているときは窓際の一番前。そこも塞がっているときは廊下側の一番前だ。セイシアはかなり早く教室に移動するので、今までその三つの席のどれかは必ず空いていた。
ユヴェールたち三人は後からゆっくり入ってくることが多いので、たいがいセイシアの隣はすでに塞がっていた。ところがここ最近はユヴェールたちも早めに移動をするようになり、セイシアの隣にユヴェールが座る率が高くなった。
そんな日々が半月ほども過ぎるころ。この日もセイシアの隣にユヴェールが座っていた。
勢いよくドアが開いて、金色の髪をなびかせた少女が姿を現した。
リゼルだ。いつものことなので誰も特に反応はない。
またユヴェール殿下につきまとって、取り巻きの二人に「帰りなさい」と突き放されるのだろう。そうして、「まだ大丈夫なのにー」と口を尖らせながら帰るのが常だった。
リゼルは美しいので、ちらほらと視線が集まる。リゼルが娼婦の子であることを知っている者はいないだろう。今のリゼルはバーント子爵家の令嬢だった。光魔法属性を持っている魔導科の学生だ。そんな彼女なら、ユヴェール王子につきまとっても許されるらしい。
「ユヴェールさ、あ、殿下っ!」
名前呼びを誰かに注意されたのか、訂正しながらリゼルは元気よく走り寄ってくる。ユヴェールは嫌そうにリゼルから顔を背け、セイシアのほうを向いていた。
セイシアは、王子はどうしてそんなに嫌そうなんだろうと首をかしげた。
ユヴェールの前で立ち止まったリゼルがセイシアを見た。
とたんに顔を歪ませた。美しい顔が一瞬、まるで魔物のように醜く変貌した。
セイシアは恐ろしいものを見た気がして、身動きが出来なかった。
それはほんの短い間の出来事だった。すぐさま、リゼルはもとの美少女にもどった。
「殿下っ」
甘い声でユヴェールに言い寄る。わずか前のあの憎悪に歪んだ顔とは同じ人物とはとても思えない。
セイシアは慌てて視線を手元にそらし、教科書を開いた。文字を目で追うが、なにも頭に入ってこなかった。
ありがとうございました。
明日は夜20時に、2話、同時投稿いたします。




