1)プロローグ
ひどい体罰はあまりなかった。叔母のオルリーは体が不自由だったからだ。その代わりのようにいつも罵倒されていた。
庭を十周も走らされた。十周で済んだのは執事に咎められると困るからだろう。手の平を竹の鞭で叩かれるのは痛かった。試験の点が悪ければ食事抜きだ。
九歳のころ母が亡くなり、オルリーが教育係となってからセイシアの生活は一変した。
食事を抜かれるのが嫌で必死に勉強した。セイシアはいつも空腹だった。
魔法学の自習をしているとき、試験で良い点を取るために「記憶を呼び覚ます魔法」を調べた。十歳のときだった。
実際にやってみた。教科書を丸覚えしないと点が取れないような試験など、食事抜きばかりになるに決まっている。
魔法のやり方を熟読し何度も繰り返した。記憶の底に潜り込むような感覚を覚えた。この日はその感覚に慣れるくらいしか出来なかった。
その夜。
妙な夢を見たのは昼に試みた魔法のせいだろう。
セイシアは「姉」に話しかけられていた。実際のセイシアには姉などいない。
夢の狭間で聞こえてくるそれは、物語だった。面白い物語ではない。主題は「悲恋」だ。好みとは違うが暇つぶしになるし姉のことは嫌いではなかった。
このときのセイシアは、なぜか病弱で病床にいることが多かった。実際のセイシアとは違っている。叔母の虐待がなければセイシアは健康体だ。
物語は「セイシア」が登場する話だった。その不思議な物語を、夢の中のセイシアは不可解とも思わずに受け入れていた。
『悪役令嬢って悲惨』
と夢の中で言っている。どういう意味か夢の中のセイシアは知っている。
セイシアは「悪役令嬢」という位置づけらしい。ヒロインを邪魔するという意味でだ。けれど、セイシア自身はただ恋をして死にゆく運命に翻弄されるだけの存在だ。
姉曰く、「物語の山場」のためにいる役回り。
ひどい物語だ。セイシアは死ぬのだ。まだ十八歳、成人してすぐに。
セイシアは勉強のためより、その物語をもっと詳細に知りたくて記憶の魔法を訓練した。どうしても気になった。記憶の魔法を習熟するに連れて、語られる物語だけでなく挿絵もときおり「姉」に見せてもらう機会を得た。
夢の物語は予知だと気づくのにさほど時間はかからなかった。夢の通りになっていくのは恐ろしいほどだった。
夢ではオルリーが金に困り始めてから、セイシアへの虐待が悪質になる。
セイシアの教育係になる以前は、オルリーは魔法省で働いていた。魔法省での事故で身体が不自由になり、仕事を失い侯爵家で働き始めた。
オルリーには元から持病があった。
そのため、祖父は治癒師をつけていた。けれど、オルリーはこんな病んだ体に産んだと母を罵るばかりで治癒を怠けた。学園では素行が悪く停学になったことがある。祖父は、妻を罵ったオルリーにいつも腹を立てていた。
オルリーに関するそれらの話をセイシアに教えたのは母だ。予知夢ではそこまでは語られなかった。
祖父はオルリーが魔法省での不正に関わったため廃嫡した。曰く付きオルリーを安い給料でセイシアの家庭教師に雇ったのは父だ。
セイシアの父エルヴィンは婿だった。跡継ぎは母だ。エルヴィンは仕事と愛人だけにしか興味を持たない。教育係のオルリーにセイシアを委ねて、それきりだ。
その叔母の給金がエルヴィンに流用されるようになってからセイシアは叔母に売られる。セイシアはわずか十四歳、まだ子供だった。
一度は学園に逃れたセイシアだったが、十八歳のときに買われていた男に見つかり殺される。
予知夢は、間違いがない。セイシアの味方だった侍女の解雇や、嵐の被害、北の国境争いが終結すること、すべて合っている。
無残に殺される運命など、セイシアは受け入れるつもりはなかった。
予知夢のセイシアはなぜ大人しく言うなりになったのか。端から見れば、無気力で愚かな娘に見える。
現実世界でセイシアとして生きていれば理由はわかる。執事はほとんど屋敷にいなかったのだ。
祖父はあまりに突然に死んでしまった。元気に働いていたのに、心不全で逝ってしまった。執事はその穴埋めをしなければならなかった。執事の見た目も冷たそうで、話し掛けるのが躊躇されるような厳つい男性だった。
要するに、セイシアには執事が味方だという情報がなかった。虚しくなるような理由だ。
そのうえ、オルリーは祖父の娘だ。セイシアは祖父が生きていたころならまだしも、祖父を失えば、侯爵代理をしている父に蔑ろにされている娘だ。
使用人たちとは最低限の接触しかなく、セイシアはオルリーに託されている。
運がなかったとしか言い様がない。
今のセイシアには予知夢の知識がある。執事に助けを乞えばいいとわかるのだが、セイシアはオルリーの運命は変えたくなかった。
今の段階でオルリーが叱責を受ければ、狡猾な彼女は上手く立ち回ってしまうかもしれない。
オルリーは、セイシアが入学するときに解雇されれば、死ぬ運命だ。
セイシアにとっては、自分の叔母で、犯罪者気質のオルリーには、運命の通りに寿命を迎えてほしい。危険人物でしかないのだから。
もちろん、オルリーのために自分の身を犠牲にするつもりは毛頭ない。
セイシアはオルリーに金を与えることを考えた。それで、オルリーに言ったのだ。
「叔母上、この教科書はもう覚えました。古本屋に売って金に換えたらいいと思います」
オルリーは警戒するようにセイシアを睨んだ。
「なんでそんなことを言う?」
「執事たちの噂話を偶然、耳にしたんです。父が叔母上の給金を不当に減らしたって。ですから、教科書を売ればいいと思います。私はそのことを決して言いません。叔母上に世話になっていますから。教科書はとても高く売れます」
「ふうん」
オルリーはなにかを考える風だったが「検討の価値はあるかもね」と、思案顔で部屋を出て行った。
どうなるのか不安だったが、それからセイシアの本が次々と消えていったので上手くいったのだろう。
セイシアは叔母が本を売ってしまう前に慌てて本を丸覚えしていった。後から叔母に試験されたときに困るし、やはり本の知識が惜しいと思ったからだ。
セイシアは本が好きだった。無理矢理、覚え込まされるのは辛いが読むのは好きだ。記憶の魔法のおかげで本の丸覚えは苦ではなかった。どんどん覚えていった。
今年セイシアはようやく十五歳だ。叔母には辛い目にあったが、最悪の事態は免れ、学園に通う年となった。
オルリーは、セイシアは学園に通うことはないだろうと考えていた。このまま楽な家庭教師として働きながら本を売って小遣い稼ぎをし続けられると思っていたのだ。
セイシアのほうでは予知夢で知っていた。だいぶ予知夢とは違うことになっているが、大きな流れは変わっていない。
セイシアは学園に入学するはずだ。エルヴィンが文科部で昇進したからだ。それで娘が学園に通わないのは不味いと思っていた。
エルヴィンには愛人との間に子もいる。愛人は娼婦だ。文科部で昇進してしまったエルヴィンは愛人との再婚はやめた。
なぜ今頃まで愛人と再婚しなかったのかというと、父は婿で祖父が最近まで生きていたからだ。愛人をラズウェル侯爵家に入れることができず、そのうちに文科部で要職についてしまった。
エルヴィンの愛人が娼婦だったのは一部の貴族には知られている話だ。執事が話しているのを盗み聞きして知った。風魔法を使えば、密室の話を聞き出すことなど簡単だ。
父は娼婦に入れ込んで彼女を身請けした。婿のエルヴィンには自由になる金などあまりなかったので、自分の文官の給料をつぎ込んだ。セイシアの教育費も流用していた。
愛人は、今は「小さな商家の娘だった」ということになっている。だが、調べれば嘘はすぐに露顕する。よくもそれで文科部で要職に就けたものだが、貴族が愛人を持つのは珍しいことではない。ただし娼婦と再婚するとしたら、また別の話だ。没落した貴族や商家の娘ならまだしも平民で娼婦だ。
エルヴィンが下級文官であれば良かったが、上級文官は許されない。要職から引き摺り下ろされるのは間違いない。それで再婚を諦めた。
愛人の娘はセイシアよりも一歳年下らしい。つまり、そんなに昔から愛人と親密だったのだ。政略結婚の母には愛情がなかったのだとしてもエルヴィンなどを婿に選ぶべきではなかった。
セイシアは、学園入学と同時に寮に入る予定だ。
執事は挙動不審のオルリーを嫌っているので、最後までセイシアが学園に通うことは話さない。セイシアも話さない。最後に嫌がらせをされかねないからだ。
入学試験の日は、オルリーには親類に会いに行くと言っておいた。嘘ではない。学園長は祖父の従兄弟なのだから。
エルヴィンは愛人宅と仕事場にしかいないから、もう長いこと姿を見ていない。ラズウェル侯爵家が婿選びで失敗した結果がこれだ。セイシアはもうこの屋敷には帰ってきたくなかった。
ラズウェル侯爵家を継いだのはセイシアだ。母は亡くなり、祖父はそのときにセイシアを後継として手続きをしているので手出しは出来ない。遺産もセイシアが相続している。だからエルヴィンは余計に帰ってこないのかもしれないが、娼婦に入れ込む婿に遺産など残されるわけがない。
セイシアが十八歳で成人したら、セイシアが正式にラズウェル侯爵だ。
エルヴィンは、あと三年の間にセイシアを殺そうとする。愛人たちが父をそそのかすのだ。
だが、結局セイシアを殺すのは、あの男だった。
運命が変わった今、誰に殺されるのかわからない。知っていれば防げる。そのために魔法の修行もした。
入学試験に受かったという通知は執事から渡された。オルリーには当然、知らせない。
予知夢では、学園で第二王子と出会う。彼は水色がかった銀の髪に同色の瞳を持つ麗しい王子だ。父の愛人の娘とも出会うが、第二王子との出会いの方が大事だ。なぜかというと、セイシアと第二王子ユヴェールは恋に落ちるからだ、信じがたいことに。予知夢ではそうなっていた。
セイシアは魔力が高いので王家に望まれるのはありえる。互いの魔力量に差が無いほうが子ができやすい。魔力持ちは子ができ難いと言われているので、切実な事情だった。
王家は神殿で国神より子宝の加護をいただく儀式を受けるという。そういう話は母から聞いた。
実は、この儀式は形式的なものではない。神殿で精霊石の腕輪をもらうのだ。その腕輪に互いの魔力を注いで填める。すると、子ができる率がとても高くなる。これは、あくまで予知夢での話だ。実際は公にされていないので、貴族でも知っているものは少ない。
今まで恋どころか友情さえも縁がなかった。母に愛してもらった記憶はあるが、家族とも疎遠だ。母の死後、あの叔母に虐待されているうちに母の思い出は色あせてしまった。
セイシアは愛情というものに憧れを持っている。けれど、予知夢の通りに恋をするのは引っかかりを感じるのだ。それは、暗示ではないか、と。
セイシアが本当に王子に惹かれたときに、予知による思い込みで暗示にかかったようになるのと、想いの違いがわかるだろうか。
こうなると「王子と恋する」という予知は知りたくなかったとさえ思う。
入学の日。
前日には執事に馬車を手配してもらった。入寮し、荷物の片付けも終わらせた。部屋に落ち着くとようやく実感がわいてくる。
セイシアは無事にあの家と叔母から逃げられたのだ。