うつろ井戸【夏のホラー2025】
【うつろ井戸】ーーーーーーーーーーーーーーーーー
1
祖母が死んだとき、家の裏にあった古井戸を埋めるよう、母はすぐに言った。
「水が…呼んでた。あの子のときと同じや…もう誰も、連れてかせへん」
“あの子”とは、母の妹――つまり俺にとっての叔母――早苗のことだ。小学校に上がる直前、井戸に落ちて死んだ。遺体は水の底で三日間見つからず、浮かび上がったときは顔が、誰かわからないほど膨れ、白くぶよぶよになっていたという。
だがその井戸は、埋めようとした翌日、また口を開けていた。水は澄んでいて、覗きこむと底が見えた気がした。
覗いた夜、夢を見た。
底に沈んだ女の子が、こちらをじっと見上げていた。
水の中なのに、髪がふわりとも動かず、目だけがぴくりとも瞬きせずに。
2
俺は高校三年の夏を、祖母の死んだその家で過ごすことになった。
母は「一人で行くのはやめて」と言ったが、俺にはどうしても、気になることがあった。
早苗のことだ。
アルバムに、早苗の写真は一枚もない。けれど家の仏間には、何故か古い位牌が二つある。
祖母の名前の隣に、「智尋」という名前。
そんな名前の親戚はいない。母に訊ねると、異様に黙りこみ、そのまま俺を叱りつけた。
「絶対に、井戸には近づいたらあかん」
けれど、人間は、近づくなと言われるほど、近づいてしまうものだ。
3
夜、蝉の鳴きやむころ。
俺は一人、懐中電灯を持って、裏庭の井戸へ行った。
草は生い茂り、空気は湿ってぬるかった。懐中電灯をかざすと、井戸の水面がほの白く照らされる。静かに、ゆっくりと、覗き込んだ。
いた。
沈んでいた。
女の子が、じっと俺を見上げていた。年の頃は、小学校低学年。白い服が水の中でふわりと広がり、長い髪が顔を隠している。
俺が一歩退こうとした瞬間、水面が揺れもせずに、そいつの手が、井戸の外から、俺の足首を掴んだ。
「―――おにいちゃん」
その声は、耳ではなく、頭の中に響いた。冷たい水が、脛を伝って這い上がる。
俺は叫んで足を振り払い、井戸から逃げ出した。
家に戻ったとき、足は濡れていた。いや、濡れているのは足だけじゃなかった。背中から、首筋、耳の裏まで――水が流れていた。どこにも水などないのに。
4
夜中、布団の中で息を殺していると、どこからかぴちょん、ぴちょんと、水の滴る音が聞こえてきた。
天井からだ。
音はやがて、襖を滑るように近づいてくる。
ずるっ、ずるっ、ずるっ
水音と、這うような音。
息をひそめた俺は、布団をかぶり、目を閉じた。
次の瞬間、耳元でくちびるのない声が囁いた。
「おにいちゃん、また いっしょに およごう?」
その声を聞いた瞬間、なぜか俺は思い出した。
智尋――それは、俺の双子の姉だった。
四歳のとき、二人で井戸に落ち、姉だけが死んだ。母も、祖母も、記憶から姉を消した。俺だけが、生き残った。
生き残ってしまった。
5
翌朝、井戸はまた、埋まっていた。
俺は、なぜか笑いながら、その上に立っていた。
足元から、じわじわと水が染み出してくる。
靴の中が冷たくなり、ふと気づくと、俺の影が、二つある。
ひとつは自分の影。もうひとつは、手を繋いでいる小さな子どもの影だった。
――智尋だ。
今夜も、夢で会うだろう。
そして今度こそ、一緒に泳ぐのだ。
どこまでも深い、あの水の中へ。
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