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シレイ  作者: フクロウ
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ともだちの名

 ーー声が聞こえる。誰かを呼ぶ声だった。どこかで聞いたことのある声がじんわりと耳の奥に浸透していく。


 柊奈乃は海に浸かっていた。足も体も頭も全身が海の中に浸かり、ゆっくりと円を描きながら深い底へと沈んでいっていた。


 声は引き続き何者かの名前を呼んでいた。声は水を振動し、柊奈乃の耳に届く。柊奈乃は何も考えられなかった。ただ、冷たい水の中を感じ流れるままに落ちてゆくだけ。


 右も左も上も下も、ただ真っ暗な闇が広がる。次第に声は大きく低く歪んでいき、近づいてくる。


 水泡が発生した。柊奈乃の所へと移動していく。


 耳朶(じだ)に何か柔らかいものが触れた。そして。


『ーーせんせー』


 声が聞こえた。海の中では柊奈乃は保育士でいた。だから次の声ではっきりと誰を呼んでいるのかわかった。


『ほりせんせー』


 そこで目が覚めた。


 布団から起き上がり、すぐに横を向いた。汗はびっしょりとかいていたが。子猫のような紬希のふにゃっとした寝顔がそこにあり、二人の手はしっかりと握り合っていた。


(大丈夫だ。つながったまま)


 一日が始まった。


 紬希をソファで寝かせると、エプロンを身につけて朝食の準備を始める。残ったカレーを温め直し、食パンの上に載せ、さらにチーズを乗っけてオーブントースターで焼く。続いて目玉焼きをつくって、サラダを用意した。


 コーヒーを用意しているところへ圭斗が起きてきた。


「おはよー」


「おはよう。圭斗、今日紬希と一緒に出掛けてくるから」


「ん? どこに?」


「公園」


「そうか。まあ、事故には気をつけてくれよ」


「うん」


 ほんの少し。もしかしたらという気持ちもあったがやはり圭斗は何もわかってくれていないと、柊奈乃は判断した。こうなればもう本当に自分一人で紬希を守るしかない。嘘をつくのは後ろめたい気持ちもあったが、どうしようもない。


(紬希を守ることだけ考えよう)


 朝食を食べて圭斗を送り出してからすぐに、柊奈乃はトートバッグに荷物を詰めて紬希を着替えさせて出発した。



 二坂神社は、柊奈乃の家から車で10分とさほど遠くない場所にある。外観を見て既知の場所であることを知った。市内でも三大祭の一つに数えられる祭りが行われている神社で、柊奈乃も以前一度だけ当時の友達と一緒に来たことがあった。


 元々、柊奈乃はこの街の生まれではない。ドームのあった隣の市の出身だった。そこで育ち、大学まで通い、保育士となって働いた。保育士を辞めたあとは、同じ街にいることも(はばか)られ、この街へと移ってきたのだ。


 駐車場に車を止め、柊奈乃と紬希は手をつないで社務所まで進む。


 二坂、という名前に相応しく、上まで続く長い階段が特徴的だった。賽銭箱のある御社殿までは鳥居が3つ。祭りでは階段の両脇に焼きそばやわたあめ、クレープにお好み焼きと目移りするほど屋台が並んでいたものだが、当然今は何もなく、時折風に揺れて生い茂る木々のざわめきが聞こえるだけだった。


 そのざわめきとどこか懐かしい気のする森の香りに守られるようにして、一段一段ゆっくりと柊奈乃と紬希が上っていく。もちろん、手をつないだままだ。紬希は初めて来る場所に興味津々なのか首を左右に忙しく動かしていた。


「ママ! あれなに?」


 途中で見かけたのは何十個もの鳥居が連なる景色だ。別の入口から続いている階段に合わせるように鳥居が並んでいる。


「つむぎ、あそこいきたい」


「うん、いいよ」


 本当は早くお祓いを済ませたかったが、無理に急ぐ必要もないと柊奈乃は紬希の提案を受け入れた。内と外とを隔絶するような赤い鳥居をくぐるごとに気分が和らいでいくのを実感する。


 柊奈乃は途中で大きく深呼吸をした。前を見ても後ろを振り返っても、赤い鳥居が続いている。どこまでも永遠と続いているような錯覚を覚えた。


 紬希も柊奈乃を真似して口を大きく開けて肺いっぱいに空気を吸い込んだ。ほっぺたを膨らませた小動物のようなその顔に笑い声が漏れると、一気に空気は弛緩して二人して顔を見合わせて笑った。


(ここなら大丈夫な気がする。お祓いをすればきっと)


 最後の鳥居をくぐり終えると、ちょうど社務所が視界に入った。古い木造のつくりで藍色の屋根が印象的だった。大きく「社務所」と書かれた木の表札を確認すると、柊奈乃は自身と紬希にマスクをつけて少し建付けの悪い両開きの扉を開けて中へと入っていく。


 中にはおみくじや破魔矢(はまや)、絵馬が置かれていた。受付の小窓が開いて、中にいた白衣に袴姿の神主が気さくに歓迎の声を掛けてくれる。柊奈乃は愛想笑いを浮かべて曖昧にうなずくと、思い切ってお祓いをお願いした。


「事情を教えていただけますか?」


「はい」


 事情と言われてもどこまで話していいものかわからなかった。少し考えた上で、柊奈乃は紬希が交通事故に遭いそうになったこと、ネクタイで首を絞めていたこと、ドームで転落事故になりかけたことをかいつまんで話し、その理由として何か霊的なものが関係しているのでは、と自信なさげに話した。


(5年前の保育園のことはーー紬希の前だと言いづらい)


 神主は話を聞いている間、じっと柊奈乃の目を見つめていた。柊奈乃が話し終えると一つうなずき、にこやかに目を細める。


「七五三は知っていますか?」


「七五三? あっ、はい。神社に来てお祝いするやつですよね。子どもに着物を着せて」


「そうです。昔から『7歳までは神のうち』と言います。幼いうちは神の元へ帰ってしまう子どもが多かったですからね。だから、子どもが無事に成長できることを願って七五三が広まりました。お子さんは今、何歳ですか?」


 紬希に顔を向ける。紬希は嬉しそうに人差し指と中指と薬指の3本を出して、「さんさい!」と宣言した。


 神主は紬希に向けていた笑みを引き締めると、深刻な表情を柊奈乃には見せた。


「お子さんはまだ神のうちにいる存在です。ですから、大人には見えない何かが見えているのかもしれません。事情は承知しました。ただ今準備しますのでお待ちください」


 烏帽子を被って斎服を着た神主に案内されて社殿の中へと進んでいく。社殿の前は石畳が敷かれており、紬希は楽しそうに何度か跳ねて遊んでいた。左右の大木に挟まれた社殿の中に入る前に、神主は急に振り返った。


「そう言えば、お母さん自身のお祓いはしなくても大丈夫ですか?」


 ドキッとした。保育園の事故のことを知っているのかと思ってしまったからだ。


「いえ、心配ないのであればよろしいのですが」


「はい。私は、大丈夫です」


(今、心配なのは紬希のこと。私はどうあってもいいから紬希を守らないと)


 そう思案しながら歩いていくと、いつの間にか社殿の中へ入っていた。木の強い匂いが押し寄せてくる。促されるままに椅子へと座り、お祓いが始まった。


 白い紙をすだれ状に束ねた大麻(おおぬき)が紬希の頭に垂れる。祓詞が唱えられ、また紬希の頭に白い紙がかかる。


「マ、マ……」


 と紬希が苦しそうな声を出した。柊奈乃がつないでいた手を強く握ると、小さな手が握り返してきた。


 紬希にとっては怖い儀式だろう。だけど、これで済むのなら、終わりにできるならそれでいい。


 静かでいて厳格な祓詞が空気を支配していた。目を瞑ると、一昨日からの出来事が自然と頭に浮かんでいく。公園、家、そしてドーム。思い出したくない記憶だが、不思議なことに今は嫌悪感も恐怖感も感じない。冷静に第三者の視点で眺めているようだった。


 記憶はさらに遡り、5年前の事故へとたどり着く。眩しい太陽の日差し、子どもたちの歓声、笑顔、走り回る音に泣き出す声、「堀先生」と呼ばれた柊奈乃の手を引っ張る子ども。


 あの子の名前は覚えている。忘れたいけど、忘れられるわけがない。あの子の名前は。


(いつき)くん)


 祓詞が終わった。神主が二人の前に座り頭を下げた。


「これで終わりです」


「終わったんですか? ありがとうございます」


 柊奈乃も頭を下げた。つられて紬希も母親の方へ顔を向けながら真似をする。


「しかし、ずっとお子さんの手を握っていらして。紬希ちゃん、怖くなかったね」


「うん。こわくなかった!」


「お母さん、くれぐれもお気をつけください。さきほど七五三の話しましたけれども、現代でも幼い子どもが神の元へ帰ってしまう悲惨な事故や事件は数多く起こっています」


 改めて礼を述べると柊奈乃は紬希を連れて立ち上がる。社殿を出ると空気が違う気がした。


「空気がおいしいね。さあ、帰ろう紬希」


 ところが紬希は顔を強張らせて立ち尽くしていた。


「紬希?」


 その表情のまま、紬希は恐る恐るというふうに人差し指を階段の下へと向けた。


 目が、大きく見開かれる。


「ママ、きた、ともだちーーいつき」

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