ネクタイの跡
『だから、大丈夫だって。きっと寝ぼけて遊んでいただけだろ?』『どうしても仕事に行かないといけないからさ、頼むよ』『柊奈乃が目を離さなければ大丈夫でしょ』
ーーありえない、と柊奈乃はハンドルを握り締めながら改めて思った。昨夜の出来事は嫌な悪夢でも見ているかのように現実感がなくて、助手席に座る紬希は変わらず元気にいろいろなことを話してくれる。いつもは後部座席にいるからきっと景色が違って見えるのだろう。美味しそうなパン屋を見つければ手を叩き、チェーン店を通り過ぎるたびに「このおみせしってる」とはしゃぐ。その度に柊奈乃も笑顔を見せていたのだが、自分でもわかるくらい疲れた笑顔だった。
昨日すぐに首に絡まっていたネクタイを外した。幸い、すぐに普通の呼吸に戻り紬希は眠ったままだった。救急車を呼ぼうとしたが、圭斗は寝ぼけていたんだろ、の一点張りで聞く気がなかった。仕方なく、紬希の手を握りながらその横で過ごし、まんじりともせずに夜明けを迎えた。圭斗の高いびきを聞きながら。
(だけど、あんな風に何重にも絡ませて首を締めるなんてこと、紬希ができるだろうか?)
しかも寝ぼけてクローゼットのドアを開けてその中からネクタイを取り出し、自分の首にくくりつけたことになる。それよりもまだーー突拍子もない話だが、誰かがそうしたと考えた方が現実味がある。
(誰?)
と考えると、どうしても結びつけてしまうのが「ともだち」だ。柊奈乃には見えない友達。いや、紬希にしか見えない友達が、本当にいるのだとすると、それがやったと考えるのが一番辻褄が合う。
(……でも、そんなこと……)
ありえない。柊奈乃も二十数年生きてきて、その手の話は聞いたことがあるし、見たという噂も、見えるという話も聞いたことがある。仮にいたとして、しかし、それはわざわざ心霊スポットと呼ばれる場所や廃墟に突入するとか、何か曰くのある場所に知らず知らずのうちに侵入していたとか、それなりの理由がなければ遭遇しないものだと思っていた。それがなぜ今のタイミングで紬希に接触したのか理由がわからない。
(理由……)
もしかしたら、という懸念が頭をよぎり、柊奈乃は生唾を飲み込んだ。
(そんなはずない。だって、そうだとしたらなんで今頃……それに、これから向かう街は……)
浮かんだ不吉な考えを振り払うようにアクセルを踏む。徐々に加速していくスピードに、紬希は「ママ、はやい、はやい!」と喜んでいた。
とにかく、と柊奈乃は心に決めていた。何があっても紬希を守る、と。
今回のハンドメイド即売会は、隣の市で開催される。プロ野球やサッカーなどの試合やスポーツイベント、誰もが知っているような有名アーティストがコンサートを開いたりする全長約50メートルの巨大ドームを貸し切って行われることもあり、注目度は抜群。客足も期待できるとあって、早めに着いたというのに駐車場はすでに満杯に近かった。
車を適当な場所に置くと、柊奈乃はハンドメイドの先輩であり今日のイベントに一緒に参加する予定の清水若葉へ、先に着いたとメッセージを送った。
助手席を見れば、紬希が寝息を立てながら眠っていた。首筋には、まだ昨夜のネクタイの跡が薄っすらとついており、柊奈乃は眉根を寄せながらすぐにチャイルドシートを外した。そして、起こさないようにそっと、その小さな手を両手で握ると、顔を近づけて祈るように額に当てた。
着信音が弾けた。紬希から手を離さないように片手で器用に操作をする。スマホの画面には清水若葉と表示される。
「もしもし」
「ごめん、道が混んでて。今すぐ着くから待ってて〜」
「わかりました!」
わざと明るいトーンの声を出して、電話を切った。会話に起こされたのだろう、紬希が「う〜ん」と伸びをして薄っすらと目を開ける。いつもと変わらない大きな瞳が柊奈乃を真っ直ぐ見つめた。
「ついたの?」
「うん、もうすぐ中に入るからね」
「たのしみ! おおきいところだね」
「大きいよ。展望台もあるしね。紬希、ちょっとママ緊張してきちゃった」
「ママもきんちょうするの?」
と聞きながらも紬希は興味津々にユーチューブで流れていた曲を鼻歌で歌いながら、車の窓からドームの様子を眺めていた。たくさんの人の中から、自分たちと同じように子ども連れで会場へ入っていく親子の背中が目に止まる。
紬希がくるりと柊奈乃に笑顔を向けた。その笑顔をずっと見ていたいと思いながらも、柊奈乃はいつものマリーのマスクを紬希の耳にかける。
「ママ、つむぎ。たのしいゆめだった」
「ヘ~どんな夢?」
「あのね。ともだちがいっぱいいたの。それでみんなでまるになってあそんでた」
『ともだち』というワードにヒヤリとする。
(でも夢の話。昨日のこととは関係ない)
「そこにねママもいたよ。おにいちゃんやおねえちゃん、あとつむぎとおなじくらいのこもいた」
そうしゃべる紬希の表情はにこやかでとても嬉しそうに柊奈乃には感じられた。遊具公園でもそうだったように、紬希はやっぱり友達がほしいのかもしれない。
「紬希、やっぱり保育園行きたい?」
やや間があって紬希は首を横に振った。
「でも、ママがいっしょだもん。つむぎはだいじょうぶ」
(……やっぱり行きたいんだね。でも……)
この街に来るとどうしてもあのときのことを思い出す。どんなに天気が晴れ渡っていても、心はくすんでいく。
(考えてはダメだ。集中、集中。今日はイベントを楽しむために来たんだから)
「ごめ〜ん、遅くなって。お、この子が紬希ちゃん? マスク似合ってるじゃん! マリーの大ファンだ!」
「そうだよ! だいファンなの」
「いいね! 身近にファンがいるってさ。いつでもレポがもらえるじゃん!」
快活な、という言葉が似合う女性だった。花で例えるならばヒマワリ、いつでも変わらない明るさを持っている笑顔の似合う人ーーという印象を、柊奈乃は清水若葉に最初に会ったときから抱いていた。
清水と知り合ったのはSNS上でのやり取りがきっかけだった。ハンドメイド作家を志したものの、どうしたらいいかわからずにSNSで作品を上げていた柊奈乃に、「かわいいキャラクターですね」とメッセージが来たのが始まりだった。
カフェで初めて直接顔を合わせたときにも、そうだった。圭斗が帰ってくるのが遅く、約束していた時間よりも一時間以上過ぎて合流した柊奈乃に放った言葉は「ここのケーキめちゃくちゃおいしいよ」だった。
持ち前の明るさと気さくさに引き出される形で、柊奈乃はハンドメイドのことだけでなく家庭のことや子どものことも含めて取り留めもなく清水に話をしてしまっていた。
清水は子どもがおらず、結婚歴もなかったが、清水はハンドメイドの先輩であるとともに、年上の友達でもある。柊奈乃にとってはそういう関係性だった。
清水は初対面の紬希ともすぐに意気投合したようで、マリーのグッズについて話ながら、ブースに必要な持ち物を一緒に運んでいった。
「えっと、369番、369番」
会場は柊奈乃が想像していた以上に広くそして大きかった。野球やサッカーの試合で使われるのだから当然ではあるのだが、観客席から見ているよりもアリーナから見た景色の方がずっと高く感じる。
「あった! ここだ。ヒナはここ、私は隣ね!」
「ヒナってなに?」
「ヒナは、紬希ちゃんのママのニックネームだよ。私がつけた」
「すごい! かわいいね!」
「そうでしょ〜」
二人の会話を聞いていると恥ずかしくなってしまって、柊奈乃は聞こえていないふりをしながらすぐに準備を始めた。一ブース辺りに用意されているのは2枚のパネルと長机、それとパイプ椅子が一つずつ。それらを自由に使ってその店らしさを表現するのも、即売会でのポイントだった。
柊奈乃は一枚のパネルを背面に置き、もう一枚を横に設置した。真ん中には机を置いてTシャツやマスク、帽子、缶バッジ、靴下にトートバッグと並べていく。
「つむぎもてつだう!」
「ありがとう」
紬希には飾り付けを一緒にお願いした。マリーのイラストとともにオレンジ色を基調とした柔らかくて暖かいイメージの壁紙をパネルや机に貼っていく。最後にパネルに貼ったのは、お店のロゴだ。そのロゴを指差しながら紬希は聞いた。
「ママ、これなんて読むの?」
「『ホワイトオレンジ〜マリーのお店』だよ」
「ほわいと、お?」
「長いからね。わかりやすく言うと、マリーのお店ってこと」
マスク越しでもわかる紬希の笑顔がパーッと明るくなった。
「マリーのおみせ! つむぎすき!」
紬希はいつでも真っ直ぐ思いを伝えてくれる。それが嬉しいことでもあるし、少しくすぐったいときもあった。自分のお店の名前を「好き」と言ってくれる人なんてそうそういない。いつかは本当にお店を出すことができるんだろうかーーそんな淡い幻想を胸にしまって、柊奈乃は隣の清水のブースをのぞいた。
「よし、終わった〜! あっ、ヒナのとこもできたの?」
「う、うん」
清水のブースはセンスが光っていた。オシャレなカフェを思わせるモノクロの壁紙に、きらびやかなネックレスやピアスが並ぶ。最近はスマホケースにもハマっているらしく、手帳型やアクセサリーを散りばめさせたスマホケースが机の上を鎮座していた。
それだけじゃない。その隣のブースもずっと奥まで並んでいるどのブースもが、自分のブースよりも素敵に見えてきてしまった。
(どうしよう……急に自信がなくなってきた)
「大丈夫だよ。私がここで最初にブース出したときなんて、あまりにも買ってくれないどころか誰も足を止めてくれなくて悔しくて泣いて帰ったんだから」
不安な思いが表情に出てしまっていたのか、清水が悪戯っぽく目を細める。
「大丈夫だって! マリーはさ、ヒナが保育士やってたときにも人気だったんでしょ? ほら、紬希ちゃんもマスクしてアピールしてくれてるから宣伝になるんじゃない?」
確かに子どもたちにはマリーの絵を描いてほしいと何度もせがまれた。紬希も気に入ってくれているし、と子どもたちには人気があるだろうと思ってマリーのキャラクター化を始めたのだ。
「ん? 紬希ちゃんどこ行くの?」
清水の一言に、反射的に肩が震えた。後ろを振り向けば紬希がどこかへ走っていこうとしている。
「紬希! ダメ!!」
また大声を出してしまった。静止を告げられたロボットのように急に立ち止まった紬希は、怒られたかと思ったのか肩を落としてトボトボと歩いて帰ってくる。
「ど、どうしたの? そんなに大声上げなくても……」
「ごめんなさい。でも、慣れないところだから紬希がどこか行ってしまうんじゃないかと心配で」
「そうかもしれないけどーー紬希ちゃん、もしかしてお店の宣伝になるかもしれないと思って走っていったの?」
戻ってきた紬希は清水の顔を見上げて小さくコクン、とうなずいた。
「わかった。ごめんね、ありがとう」
柊奈乃は紬希を抱きかかえると、そのまま机の後ろに置いたパイプ椅子に座らせた。
「じゃあ、紬希は店番をしてくれる? お客さんが来たらいらっしゃいませ、ていうの。いい? だから、ママの側から離れたらダメだよ?」
「……うん、わかった」
少しふてくされながらも納得してくれたらしい紬希の頭を撫でていると、開場を知らせるアナウンスが入った。
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