ほりせんせい
蛇口から流れる水が食器についたカレーの汚れを落としていく。柊奈乃はそれを眺めていた。片手にスポンジを持ったまま。
キャハハハハ、と笑い声が弾けて我に返った。食事を終えた圭斗の膝の上に紬希が座り、楽しそうにテレビを見ていた。映っているのは紬希が好きなユーチューバーだ。両親に子どもたち2人の家族でやっているユーチューバーで、今日は生配信をやると言っていた。
(生配信? そうだ、時間!)
慌てて時間を確認したらもう夜の7時を回るところだった。柊奈乃は、急いで後片付けを済ませると、作業部屋にしている自室へと向かった。
「ごめん、パパ!」
「わかってるって。なんかやることあるんだろ? 紬希はちゃんと寝かせておくから」
「え〜やだ! つむぎはパパといっしょにねる!」
「わかった、わかったって。今日は紬希とパパが寝るんだもんな。でも、早く寝ないとお化けが出るぞ〜」
「……お化け」
なんでもない単語に反応してしまう。圭斗は、メガネを上げると不思議そうな顔で柊奈乃を見た。
「ん? お化けがどうかした?」
笑顔を取り繕う。
「ううん。なんでもない。……あの、ごめんね。それから、紬希のことお願い。今日、疲れていると思うから」
「あ? ああーーわかった」
リビングを抜けて部屋のドアを開けると、明日の用意でごちゃごちゃに散らかっている室内の様子が飛び込んできた。
(どこまでやったんだったっけ? ええっと、もう商品はできているから、あとは袋に詰めるだけで、お店の飾り付けとそうだ、看板!)
作業に入る前に、スマホを取り出してSNSをチェックする。何人かから明日のイベントへの問い合わせや応援のメッセージが届いていた。それらに一つ一つ返信し、これから明日の準備を始めることを発信する。
「よし、頑張るぞ!」
柊奈乃は看板製作に取りかかった。看板と言っても、よくカフェの前に置いてあるような本格的なものではなく、会場が用意してくれているパネルに貼り付けるポスターのようなものだった。ただ、それだけではインパクトが弱いので、同じく会場が貸してくれる商品を置く長机に貼る横長のポスターも作ろうと決めていた。もちろんどちらにもすぐわかるようにマリーのイラストを大きく描く。デザインはもう下書き済みなのであとはカラーを塗っていくだけ。
地道な作業だった。お金があれば印刷してすぐに終わるのだが、限られた費用でやっている柊奈乃は自分一人でやるしかなかった。
暑い夏の時期。夜になって気温が下がったとはいえ家にこもった熱と集中して作業に当たっているせいで額に汗が滲む。タオルでこまめに汗を拭きながら臨む柊奈乃の表情は、家庭では見せたことのない真剣な顔そのものだった。
どのくらい時間が経ったのか、不意に部屋のドアがノックされた。
「柊奈乃? ちょっといい?」
(……よくはないけど)
「なに? 圭斗。紬希はもう寝た?」
ドアが開く。日に焼けたことのなさそうな色白の顔がほんのりと赤い。きっとお酒を飲んだのだろう。
「もう眠ったよ。確かに柊奈乃が言う通り疲れているみたいだ。聞いたぞ、交通事故に遭いそうになったんだって?」
ビクリと反射的に肩が動く。圭斗の眉根がピクピク動き、目がすわっている。
「ごめん、心配かけたくなくて言ってなかったの」
まずいーーと思って柊奈乃は立ち上がった。
「でも、大丈夫。ちょっと遊具公園の駐車場に行っちゃっただけだから。紬希も気をつけるって約束してくれたし」
「ちょっとじゃないだろ。気をつけてくれよ。今は紬希のこと、柊奈乃に任せてるんだからさ!」
圭斗の声のボリュームが上がっていく。普段は優しいのだが、お酒が入ると気が大きくなるときがあった。
「ごめん」
柊奈乃は頭を下げた。お酒を飲んだ圭斗と話しても変に誤解されそうだった。何よりももう思い出したくなかった。紬希の言っていた友達だとか腕を引っ張られたこととか。きっと偶然か紬希の思い込みに決まっているのだから。
「もういいよ。それよりさ、初めて友達できたんだって? よかったじゃん。少し心配してたんだよな」
「……う、うん」
「どんな子なんだよ。また遊ぶって喜んでたけどさ」
「えっと……」
(どうしよう。でも、本当のことを言わないとややこしくなる!)
「……見てないの」
「はっ……?」
圭斗は何を言っているかわからないというように、眉間にしわを寄せた。
「たぶんだけど、空想なんじゃないかなって。3歳にもなるとさ、空想の世界で一人遊びもできるようになるから」
「いや、でも、そんな感じじゃなかったって。なんか、リアルに友達と遊んでた感じの話し振りだったけど」
「……そうなんだ」
(早く話を終わらせたい。これ以上考えたくない。やっぱり偶然で思い込みで……)
ーー『ほりせんせー』ーー
声が聞こえた気がして柊奈乃は自然と耳を塞いでいた。目は見開き、呼吸が荒くなった。鼓動が速くなっていることに気がついたのは、圭斗が話す言葉を聞いてからだった。
「ならさ、やっぱり保育園か幼稚園に通いたいんじゃないの?」
「え?」
「紬希さ。空想するほど友達ほしいんだったら、預けたらいいんじゃないか? 柊奈乃が働いてくれれば収入面でも安定するし。保育士免許持ってるのにもったいないじゃん。辞めてからもう5年も経ってるんだから、ハンドメイドなんてやめて保育園の先生やった方がいいんじゃない? ほら、夢だったんでしょ?」
「……う、うん。そうだね。考えてみる」
柊奈乃はにっこりと笑顔を浮かべた。内心とは裏腹に。
(……なに、言ってるのかな?)
「よし、じゃあ。俺はもう1缶飲んでから寝るわ。作業、頑張ってね。無理はするなよ~」
「うん! ありがとう!」
ドアが閉じた。足音が聞こえなくなるのを確認してから柊奈乃はため息を吐く。
(……やっぱり、なんにもわかってないんだね。圭斗は)
半年前からイベントがあることを伝えて、半年前から明日の日のために毎日作業して、それでも間に合わなくて、こんなに頑張ってるのに保育士を勧めるってどういうこと? ハンドメイドをやめろってどういうこと?
「保育士やれるならとっくにやってるんだよ……」
(嫌だな……また、あのときのことを思い出してしまう。声が聞こえた気がしたのもきっとーー)
柊奈乃は服の袖で目をこすると、塗り途中の看板に向き直った。泣き言をいっちゃダメだ。とにかく明日。明日に向けて頑張らないと。
夜は更ける。誰もが寝静まる真夜中の時間帯は、自分以外誰も存在していないのではないかと思ってしまうほど静寂に包まれていた。
柊奈乃が製作作業のなかで一番好きなのは、このカラーを入れる工程だった。売り物である以上、ミスは許されず常に緊張感がつきまとう。それでも一筆一筆塗っていくうちにキャラクターが生き生きと動き出す、そんな瞬間がある。大げさではあるが、命が宿ると言ってもいいかもしれない。特にいくつも作るグッズと違って看板は今回の一度きり。より丁寧に慎重に描いていった。
コトッ、と壁に何かが当たった音がした。静かな部屋は昼では気にならないような生活音が気になってしまうものだが。
またコトッ、と音がした。どうしても気になってしまい、柊奈乃は目を瞑り耳を音のする方へ傾けた。
(……何も聞こえない)
少し過敏になりすぎてるのかもしれない。気にしないことが一番ーー。
ドンッ、と強い音が壁を蹴り柊奈乃は立ち上がった。
今のは確かに聞こえた。そう思うと急に不安でいっぱいになる。
『でも、またあそぼうって。つむぎ、やくそくしたの』
(ーーそんなわけがない。だけど……)
柊奈乃はなるべく音を立てないよう静かにドアを開けた。リビングの電気がまだついている。
ゆっくりとリビングのドアを開けると、圭斗がソファに横になったまま寝ていた。ビール缶がテーブルに置いてあるところを見ると、飲みながら眠ってしまったのかもしれない。
(紬希のこと見ててって言ったのに)
一際大きな音が寝室から聞こえてきた。続いて急かすように何度も壁が叩かれる。
「紬希!?」
何かあったのは間違いなかった。急いで寝室のドアを開けて中を覗き込む。敷いた布団のどこにも子どもの姿は見当たらなかった。
「ウソっ!!」
電気をつける。長い一瞬が経って灯りが部屋中を照らすが紬希はどこにもいなかった。
「なんだよ、もう。まだ夜中だぞ……」
「音が聞こえないの!? 紬希がどこにもいないじゃない!!」
呑気なあくびに鋭い声を出してしまった。
「な、なんだよ、その言い方ーー」
「クローゼットが開いてる!」
圭斗の服が入っているクローゼットだ。ベルトなど危険なものも入っているためいつもはしっかりと閉じているのに、今は半開き状態だった。
その隙間から揺れる何かが見える。
(紬希の……パジャマ?)
ハッと最悪な自体が頭をよぎり柊奈乃はクローゼットの扉を大きく開けた。
中ではネクタイが首に巻かれた状態の紬希がゆらゆらと揺れていた。
全身が震え、悲鳴が上がった。
よろしければ、「いいね」や「評価」、「感想」などよろしくお願いします。