鬼
チーン、と仏壇の鈴の音が鳴り響いた。喜びのあまりに小刻みに揺れる手がろうそくに火をつけた。ほのかな灯りが飾られた遺影を暗闇の中から浮かび上がらせた。
「樹……」
線香にろうそくの火が移り、煙がゆらゆらと空気の流れに乗って漂っていく。
「堀先生には、樹の姿がはっきり見えていたんだよね。ママは黒い影しか見えなくて、ちょっと寂しかったんだ。でもねーー」
辻柊奈乃とその娘が病院へ運び込まれたその日の夜。次こそ連れて行けるようにと同じ仏壇の前で祈りを上げていた結の前に、樹の姿が現れた。これまではかろうじて人影とわかる黒い靄のような集合体だった樹が、ついにあの日のままの姿を見せた。
寂しげな瞳と、結には見えた。保育園で嫌なことがあったその帰りに見せる表情だった。何も言わずとも結は察した。あの女が相も変わらず逃げているのが悲しいのだと。一緒に遊んでくれないのが辛いのだと。
思いが通じた。樹は言った。
「ほりせんせーいっしょにあそぼう」
結はもう傍観者ではいられなかった。樹のために自ら行動することを決めた。ちょうどそれは辻柊奈乃に対する憎しみや嫉妬を晴らすことにもなる。
「運命。そう、これは運命だったの」
結は、慈しむように丁寧に手を合わせた。
「ごめんなさい。堀先生がうちに来たとき、正直ママはちょっと嫌な気分だった。だけどね、樹のためと思ってニコニコしてたの」
勝手に樹の自転車に近付いたのは本当に腹が立った。ジロジロと見る娘を止めることもせずに。
結は、家まで来たのだから辻柊奈乃は土下座でもして謝罪するのかと期待していた。許してほしいと懇願するのだろうと。それが、たとえ自分や自分の娘の命欲しさだとしても、決して気分が悪くなるわけではない。
しかし、玄関に招き入れてもぼうっとしたように何も言わず、苗字を変えたなどとどうでもいい話をペラペラと喋り、ようやく謝ったと言っても頭を下げただけ。
結は、辻柊奈乃と対峙してもやはり同じ気持ちを抱かざるを得なかった。
なんで、どうしてこんな女が?
沸々とくすぶる感情が高まっていく。張り付いた笑顔の裏で、結の中の灯火は燃え盛る炎のように膨らんでいった。
連れて行くのなら私を連れて行ってほしい。こんな女なんかよりも私の方が樹を理解できる。いつまでだって一緒にいられる。一度たりとも手を離すことなんかなく、ずっとずっと抱き締めてあげられる。
それなのにどうして? どうしてこの女を選ぶの?
辻柊奈乃が仏壇の前で線香を折ったのも許せなかった。涙を流すのも、樹に向かって謝るのも、何もかもが許せなかった。樹の保育士の顔をするのが憎かった。今さら会いに来て、樹の何になるつもりなのか。
紬希という子は素直で聞き分けもよく可愛らしい子だった。親の愛情を真っ直ぐに受けて太陽の光を浴びるひまわりのように育った子だ。だから最後に、せめて最後に皮肉を込めて結は「本当に可愛らしいお子さんですね。先生は、どうぞ大切にしてあげてください」と告げた。
二人に残された時間がもうわずかしかないのを知っていたからだ。
二人を見送ったあと、結はすぐに近くの駐車場へと向かった。車をそこに置かせてもらっているからだ。自分が考えることが実現すると確信していた結は、車に乗り込みハンドルを握ると舌なめずりをしてそのときを想像した。
自分の命だけではなく、愛する娘の命も救えないと知ったときの表情を。絶望に呑み込まれ、恐怖に怯える表情を。
結果として、樹の願いを叶えるのだ。ここから先はもう我慢しなくていい。
車を発進させる前に、結はルームミラーを覗いた。そこに映っていたのは自分の姿ではなかった。髪は乱れ、目は血走り、これから起こることへの喜びのあまりに開いたままの口は三日月のように嗤っていた。まるで、鬼。鬼のように。
車を神社前公園へと走らせる。すでに耳に心地のいい叫び声が聞こえていた。異常な様子に、道路の周りには人だかりができており、ざわざわと観衆の声が煩く感じたが、もう関係なかった。
我が子の名前を連呼する辻柊奈乃が道路へと連れ出される。無様に倒れ込み、その長い髪が波打つように揺れた。
辻柊奈乃ーーいや、堀先生。あんたは私から樹を二度奪った。樹を見殺しにして樹の心も奪った。それなのにどうして平穏に生きられるの? どうして子どもを育てられるの? どうして笑っていられるの? どうして生きていられるの?
車が近づく音に気がつき、辻柊奈乃は顔を上げた。結は、アクセルを踏み込みスピードを加速させる。恐怖に歪んだ顔が実に愉快だった。
これは、運命。運命なの。樹を奪ったあんたはここで死ぬ運命なのよ。
断末魔が聞こえる。全身を震わせるような絶頂が、結の体を足先からてっぺんまで痺れさせた。
「……樹。堀先生はそっちに行ったの? ……そう。じゃあ、紬希ちゃんは? ……そっか、よかったね。じゃあ、樹、また友達が欲しくなったら教えてちょうだい。友達はいっぱいいた方が楽しめるでしょ?」
声はしばらく待っても返ってこなかった。結はろうそくの火を吹き消すと、家中の電気をつけた。キッチンから袋を持ってくると、冷めてしまった手つかずの料理を皿ごと捨てていく。
「樹、待ってるから。ママは樹のためならなんでもできるの」
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