二つに折れた線香
「ありがとうございます」「本当にすみませんでした」「そんなこと言わないでください」ーー表面上を取り繕うようないろんな言葉は即座に浮かんだが、柊奈乃は何も言うことができずにその場で立ち尽くしていた。
自分の今の心を正確に伝えるべき言葉が浮かばない。感謝の気持ちも謝罪の思いも、罪の意識も、それから言いようのない悲しみも、全てがごちゃまぜに合わさって柊奈乃の心の中にあった。
(樹くんは死んだんだ)
その事実と重みが改めて突きつけられる。一人の幼い命が無くなる。しかも唐突にだ。それが遺された家族にどれだけの痛みと喪失をもたらしたのか、樹の母親の痩せこけた顔が物語っていた。あるいは夫と別れたのもそのせいかもしれない。
(私は樹くんが死ぬ瞬間を見ていた。……だけど)
死ぬとはどういうことか本当のところで理解していなかった、ということにはたと気がつく。逃げていたからだ。死という事実から目を逸らし、無かったものとして記憶の奥底にしまいこんでしまっていたから。
「……ごめんなさい」
口をついて出た謝罪の言葉は目の前の石塚結に向けられたものではない。石塚樹に対して長い年月を経てようやく手向けられた言葉だった。
「だからいいんです。先生、どうかあの子の顔を見てやってください。奥にあの子がいますから」
手で示された方へと滲んだ視界のままに体を向けると、柱の陰に仏壇が置かれていた。
「さあ、ママのこと、ここで待っててね。ママは大事な用事を済ませないといけないから」
柊奈乃は感謝の気持ちを込めて石塚結に頭を下げた。遺影の写真を見てしまえば、あの子が樹であることがすぐにわかってしまう。
「紬希、ちょっと待っててね」
「うん、つむぎひとりでまってる」
紬希に微笑みかけると、柊奈乃は部屋の奥へと進んでいった。開け放たれた窓から心地いい風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしていた。カーテン越しにはさきほど見た赤い自転車の姿が見える。
(樹くんのお母さんは、ここから庭の様子を見てたのかな?)
柱の裏に回り込めば大きな仏壇があった。まだ新しい花が活けられ、きっと樹が好きだったであろうスナック菓子やチョコなどのお菓子が供えられていた。中央には赤い野球帽子を被り、ポーズを決めた小さな男の子の写真が鎮座している。
樹と目が合う。これ以上ないくらいの満面の笑みだった。柊奈乃は右手で胸を押さえた。懐かしさや申し訳なさ、温かさに哀しさ、いろんな感情が込み上げてくるのと同時に樹との記憶が次々と蘇ってくる。
怒ったり、泣いたりするときもあったけどいつも笑顔を見せてくれた子だった。クラスには最後まで馴染めなかったけど、柊奈乃が話しかけるとはつらつとした笑顔に変わった。一緒にマリーの絵を描いて、たくさんおしゃべりもしてくれた。
(同じだったんだね。絵という共通点を通して誰かとつながる。本当はそれがもっともっと続いていくはずだったのに)
ぼんやりと、柊奈乃が思い出していたのは自身の母親が交通事故で亡くなったときの記憶だった。ライトが照らす暗い地面に鮮血が広がっていく。
(突然いなくなってしまったお母さんは、私に絵を残してくれた。絵を通してお母さんとつながり、生きる力をくれた。でも、私はーー)
つながりを断ってしまった。今までの何もかもを忘れて新しく生まれ変わろうとしてしまっていたのかもしれない。
「……ごめんね。もう遅いけど、許されることじゃないけど、あのときすぐに駆けつけられなくてごめん。抱きしめてあげられなくてごめん。手をつないであげられなくてごめん……ごめんなさい」
柊奈乃は手を合わせると、ろうそくに火を灯し線香をつけた。くゆる煙が漂う。
手が震えていた。人を弔らうその動作が、言ってみれば儀式が、抑えつけていた理性を取り払い、昂ぶった感情を外へ吐き出させるのかもしれない。
線香が折れる。あっ、と声を上げた拍子に瞳から大粒の涙が零れ落ちてきた。嗚咽が込み上げ、涙で見えにくくなった世界の中で2つに折れた線香をあげた。
柊奈乃はもう一度手を合わせると、深く祈りを捧げて樹の前から離れた。
「ありがとうございます」
テーブルへ戻ると、石塚結が深々と頭を下げてきた。
「いえ、そんな! 本当はもっと早く来なければいけなかったのに、本当にすみません……」
「いいんです。これであの子も救われます。きっと」
なかなか頭を上げようとしないことにどう声をかけていいか困っていたところ、紬希が助け舟を出してくれた。
「ママ、ないてるの? いやなことあったの?」
「違うよ。嫌なことがあったわけじゃない。ただやっと、ママは謝ることができたの」
「ふーん」
会話を聞いていた石塚結がくすくすと笑い声をあげながら頭を上げた。
「ごめんなさい。こんなに謝ってばかりだと、娘さんも不安になりますよね。これでもう終わり。先生、本当にありがとうございました」
互いにぎこちなく笑顔を交わす。カラン、とコップに入れられた氷が音を立てた。心が解けるのはまだ先かもしれないが、半歩でも未来へと進めた気がしていた。
「それでは、今日はこれで失礼します。またーー」
「ええ、ぜひまたあの子に会いに来てください」
床に置いた鞄を背負うと、柊奈乃は「ほら、行くよ」と紬希を急かして玄関へと向かった。
「娘さん、本当に可愛らしいお子さんですね。先生は、どうぞ大切にしてあげてください」
石塚結は、最後にそう言って控え目に手を振った。紬希が元気よく手を振り返し、柊奈乃は笑顔でそれに応えた。
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