謝罪
返事をする間もなくすぐに鍵は開いた。黒い扉が音を立てて開き、光のもとへ現れた顔は樹の母親だった。
反射的に表札をちらりと見る。石塚結。母親の名前は、結だ。
石塚結は、軽く頭を下げると口端を上げた。保育園で毎日顔を合わせていたときと同じような人と壁をつくるような微笑みだった。しかし、柊奈乃の記憶にあるよりもさらにほっそりとした顔は、頬がこけており切れ長の目も少し窪んでいるように見えた。
「あの、すみません私はーー」
「わかっています。変わらないですね、堀先生。息子に会いに来てくれたんですか?」
「あっ、はい……そのーー」
「どうぞ中へ入ってください。今日は暑かったでしょう。今、冷えたお茶でも用意しますね。かわいい娘さんは、ジュースがいい?」
紬希は緊張しているのか、柊奈乃の手を握ったままコクリ、と小さくうなずいた。
2人を玄関先へと招き入れると、石塚結はすぐに居間へと戻っていってしまった。開口一番に頭を下げて謝罪しようと考えていた柊奈乃は、予想外の応対に戸惑ってしまい家の中へと入ることができなかった。
質素な造りだった。備え付けの下駄箱の上には何も置かれておらず、外壁とは対照的な白い壁にも絵など飾り物はない。唯一、敷かれた赤色の絨毯だけが静かに個性を主張していた。
(樹くんは確か赤色が好きだったっけ)
赤い野球帽子をいつも被っていた。だとすると、庭にあった自転車も……?
「遠慮なさらないで、どうぞこちらへ」
「す、すみません」
促されて靴を脱いで絨毯の上に上がる。紬希がきちんと靴を揃えて脱いだのを見て、石塚結はパチン、と手を叩いた。
「息子と同じくらいなのにしっかりしてるんですね。うちの子は何度言っても、まるで蹴るみたいに靴を脱いでたんです」
「そうですか……」
胸が痛む。それ以上にどう反応したらいいのかわからず、柊奈乃は曖昧にうなずくことしかできなかった。
玄関に靴が一足しか置かれていなかったのを見るに、きっと几帳面な性格なのだろう。綺麗好きなのかもしれない。
居間へと通されると、開け放たれたドアのすぐ側にすでにお茶とオレンジジュースが注がれたガラスコップが置かれたテーブルがあった。三人掛けらしく椅子が三脚置かれている。そのうち一つの椅子は子ども用の足掛けが付いているハイチェアだ。
「娘さんはこちらに」
紬希はそのハイチェアへ座り、向かいに柊奈乃が座った。石塚結は二人の間にある真ん中の椅子へと腰掛けて、コップを手に取ると麦茶を口にした。
「久しぶりですね、堀先生」
「あ、あの、すみません。実は結婚して苗字を変えたんです。今は堀ではなく、辻、辻柊奈乃と言います」
何をどう言ったらいいのかわからず、ひとまず苗字が違うことを訂正しようと思った。堀先生と呼ばれる度に紬希が首を傾げることも理由の一つではあったが、柊奈乃自身その名で呼ばれることに抵抗があった。どこかで名前を聞きつけて、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてくるのではないかと恐怖心が沸き上がってくる。
石塚結は珍しくにっこりと微笑んだ。
「結婚なさったんですね。おめでとうございます。でも、急に名前が変わると言いづらいものがあります。先生はずっと先生と呼んでいたので、私との間では先生とお呼びしてもいいですか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。先生、久しぶりに顔を見られて嬉しいです。あの子もきっと喜んでいるはず。先生のこと本当に大好きだったんですよ」
「そ、そうですか。すみません、あの連絡もせずに急に押し掛けるような形になってしまって。そのーー」
「いいえ。家にいても、最近は特に何もすることはないので。……私、別れたんです。今は独り身で。なのでむしろ急なサプライズみたいで嬉しいです」
(別れた? じゃあ表札は……)
「あっ、遠慮せずにジュースいっぱい飲んでいいのよ。冷蔵庫にまだ何本もあるから、おかわりもどんどんしていいからね」
紬希はジュースを飲めたことが嬉しかったのか少し頬を緩ませて、大きな声で返事をした。
(会話が上手く進まない。調子が狂うというか……いや違う、お互いに言いにくいことを伏せているからか)
柊奈乃は手に持っていたコップをテーブルの上に置くと、おもむろに立ち上がり、手を組んで背筋をすっと伸ばした。石塚結の視線が紬希から柊奈乃へと移り、口元から笑みが消える。
「あのときは、申し訳ありませんでした」
目をつむり、頭を思い切り下げた。これ以上は下がらないという限界まで。今更許しを請うつもりはなかった。だが、自分の罪を償うためにはこうするより他に方法が思い浮かばなかった。
「……いいですよ」
頬を撫でる風のように柔らかな声が柊奈乃の頭の上に降った。
「本当は謝罪なんていらないんです。あれは事故ですから。誰かが悪いわけではない。強いて言うなら運が悪かった。あの子の運命がそういうふうになることを決めていたんだ、と、そう思うことにしたんです」
柊奈乃は顔を上げた。溢れそうになる涙で揺れる視界の先には柔和な笑顔があった。
「ですが、謝罪を受け取らないと、先生も心が苦しいままでしょう。ですから、もういいんです」
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