5年越しの扉を開く
ローズマリーに似た鮮明な黄色い屋根に向かって、柊奈乃は一直線で向かった。途中、上下に動く振動で紬希が寝惚けた声を出しながら目を覚ます。
「ママぁ? どうしたの?」
紬希の声を無視して柊奈乃は全速力で走る。髪は振り乱れ、息は上がり大きく上下する胸は張り裂けそうになるくらいに苦しかった。一方で、うるさいくらいの足音が静寂を壊し、周囲の音が戻ってくる。遠くから聞こえる救急車のサイレンの音が今の柊奈乃にとっては嬉しかった。
「紬希、もう大丈夫だからね」
足音が止まった。体を屈めて肺に溜まった空気を一気に吐き出すと、改めてその家の外観を見上げる。木造の墨色の外壁に黄色い屋根が映えるが、よく見かける白や茶色の外壁が隣に並ぶなかでは異質に浮いていた。玄関まで続く舗装された真っ白なコンクリートの右横は小さな庭になっているようで、陽の光に向かって一斉に顔を向ける花の隣には、自転車が置かれていた。
子ども向けの補助輪がついた赤い自転車だった。近くへ行って見てみれば、ところどころ塗装が剥がれていた。とはいえ、全体的には綺麗に磨かれていて新品とさほど変わらないように見える。
「ねぇ、ママ、このじでんしゃ、なに?」
「ううん、なんでもないよ」
もしかしたら名前が書いてあるかもしれないと思ったが、どこにも名前は書かれていなかった。
紬希が興味を持ったのか柊奈乃の背中から降りてきて角度を変えては自転車をまじまじと見つめる。
「これで走れるの?」
「うん、たまに乗っている人見かけるでしょ?」
坂が多く平地の少ない柊奈乃が住む街では、自転車に乗る人が極端に少ない。自転車で登るには険し過ぎる坂道が街中にあり、冬の間は深い雪が積もって自転車の移動は不便になるためだ。柊奈乃も以前は自転車を1台持っていたが、今の街に住むなかで使う機会がないだろうと処分してしまった。
自転車に夢中になっていた紬希が突然「あっ!」と声を上げ、家の方を指差した。
「ママ! だれかこっちみてた!」
すぐに紬希が指差した窓へと視線を向けるが、そこには誰もいなかった。
「あれ? いま、いたのに……」
「ううん、いるよ紬希」
家の中から物音がする。すぐに気がつかなかったが窓は半開きになっており、外から流れてくる風でカーテンが揺れていた。
(誰かいる。その人物があのお母さんであれば、私の姿に驚いて家の中に入っていっちゃったのかもしれない)
柊奈乃は紬希を連れると意を決して玄関への階段を上り、風除室のドアを開けて扉に掛けられた表札を見た。
木製のプレートには、3人の名前が記されていた。〈石塚怜司〉〈石塚結〉そして、〈石塚樹〉と。
間違いない。この家は樹くんの家だ。
「ママのおともだちなの?」
何も知るはずのない紬希は純粋に疑問を口にした。しかし、柊奈乃は言葉を濁してしまう。
「友達ではないんだけど、ね」
(……なんて言えばいいんだろう。事実をありのままに話して、紬希はどう感じるのか)
インターホンを前にして決心が揺らぎそうになる。扉一枚挟んで家の中にはあの子の家族がいる。向こうもきっと気づいているだろう。
待ち構えているのかもしれない。逆に拒絶されるかもしれない。もう何年もお詫びにも来なくていきなりなんだと。
責められる母親を見て紬希はどう感じるのか。もしかしたら「人殺し」と罵られるかもしれない。その覚悟はあった。
(でも、紬希は、紬希は何も知らない。知らない方がいいこともある)
「ママ、どうしたの? ピンポンおさないの?」
小首をかしげる紬希の体を柊奈乃はぎゅっと抱きしめた。ここまで来て知らないわけにはいかない。紬希はもうあの子と遊んでしまっているのだ。
「紬希、ごめんね」
「なに? なんでごめんねいうの、ママ」
もう一度強く抱きしめると、紬希の肩に手を乗せてまだ真っ直ぐなその瞳から目を逸らすことなく、柊奈乃は話を続けた。
「ママはさ、昔、保育園の先生だったって言ったけど、実はさっき寄った保育園の先生をしてたの。さっきの先生みたいな優しい先生になりたくて。だけどね、なれなかったんだ」
初めての話に紬希は目を大きく開きながらも、うんうんとうなずいて母親の独白を聞く。
「事故があったの。紬希と同じくらいの子が高いところから落ちて」
名前までは言えなかった。紬希の知っている子が、友達と認識しているかもしれない子が、実はすでに死んでいるなんていうことを理解できるかわからない。混乱を生んでしまうかもしれない。
「ママはそのとき何もできなかったの。先生なのに何もできなかった……だから」
改めて口にすると、胸がつまり言葉が鈍る。柊奈乃は目の前で真剣に話を聞いてくれる娘に微笑みかけると、閉じかけた口を開けた。
「謝りにきたの。このお家が、その子の家だから」
話し終えると再度、紬希を抱きしめる。愛しい体温が伝わり、震えそうな体と心を解きほぐしてくれる。
柊奈乃は心を決めて立ち上がった。立ち上がって、今度は躊躇することなくインターホンを鳴らした。その音が家中を駆け巡る一瞬の間に心臓が何度も大きく跳ねる。
家の中を歩く足音が聞こえた。紬希が手をつないでくれた。インターホンの受話器が上がった。
「……どうぞ、堀先生」
インターホン越しに聞こえた声は、柊奈乃には落ち着いた声に聞こえた。
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