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シレイ  作者: フクロウ
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陽炎

 樹の担任だったときに、入所の際の書類に目を通し、自宅の場所はうろ覚えだが、まだ記憶していた。柊奈乃の記憶では樹の家は保育園から歩いて通える距離で、同じような家庭の多い閑静な住宅街に立っていたはずだ。


 もしかしたら事故の後、引っ越してしまったかもしれないがまだ住んでいる可能性もある。まずは家を探して見つからなければ別の手段をと、考えていた。


 人気の少ない路地に入ると、スマホで地図アプリを起動して周囲のマップを探す。それと同時に緊張で顔が強張るのを感じた。


 怪異が起こるのは決まって人気の少ないところでだ。最初は公園で周りの親子から離れたときに。ドームでは人のいない展望フロアで。そして、神社では紬希と柊奈乃、二人しかいない空間でおぞましい姿が現れた。


 今回、石塚家に向かうにあたって、紬希には半ば無理矢理マリーのマスクではなく市販の白い布マスクに替えてもらい、自身もマリーのイラストが描かれたグッズは身につけないように徹底した。その存在がマリーを介して二人を識別しているのかはわからない。それでも、何もしないよりは多少なりとも内心は落ち着く。


「紬希、何かあったとしても絶対にママの手を離さないでね」


 掌が今まで以上に強く握りしめられる。熱気を帯び汗ばんだ紬希の手から我が子の緊張も伝わってくるような気がした。


 慎重に周りの様子を窺いながら一軒一軒しらみつぶしに表札を確認していく。誰かに見られれば咎められるような不審な行動だろうとはわかっていたが、他には方法がなかった。保育園にはもしかしたらまだ在籍時の情報が残っていたかもしれないが、まさかもう部外者の人間が個人情報を見せてもらうことができるわけもなかった。


 夏の日差しは強く、歩けば歩くほど額から汗が噴き出てくる。時折、休憩しては水筒に入れた麦茶で水分補給をしたりハンカチで紬希の広い額の汗を拭ったりしながら同じことを繰り返していく。


「ねぇ、まだぁ? ママ」


「ごめん、疲れちゃったよね。もうすぐだから頑張ろう」


 歩道の縁石に座り込んだ紬希の手を軽く引っ張ると、若干抵抗しながらも紬希は起き上がった。


(でも、そろそろ限界か)


 予想以上に入り組んでいて住宅の多い場所だった。「もう、家がないのでは」という不安も頭によぎる。加えて、いつ何が起きるともわからない状況の中では、疲れは累積して溜まっていく。柊奈乃自身も知らず知らずのうちに鼓動が早くなっているのを感じていた。


「ーーせんせー」


 突然声が聞こえたような気がしたが、それが空耳だということは振り向かなくてもわかっていた。紬希が何も反応していない。声が聞こえたのが自分だけなら、気のせいに決まっている。


 ごくり、と喉が鳴った。


(……別のこと、考えよう)


 そうだ。家がなければどうすればいいのか。探偵にでもお願いして、住所を突き止めてもらうか。でも、そのお金は? 圭斗に内緒で上手くことを運べるものなのか。


(……だいたいどうやって、この状況を説明すればいいの?)


 自問自答してみるが、体にべっとりと纏わりつく暑さからか考えはまとまらない。常軌を逸していると言われても仕方がないことをしている。あれ(・・)を目の当たりにしないと到底理解されないだろう。


 また頭痛がして、柊奈乃は額に手をやった。軽い熱中症かもしれない、と考える一方で原因は別にあることをすでに悟っていた。


 人気はないのに軒下や電柱の陰が気になってしょうがない。あるはずがないのに視線が気になり、後ろを振り向きたくなってしまう。


 柊奈乃の額から垂れた汗が頬を伝い、コンクリートの地面へと一滴落ちていった。


 結局また同じことを考えているのだ。いつ暗がりの中からその姿が現れるのか、いつあの声が鼓膜を揺さぶるのか。自分を囲むあらゆるモノが異様に気になり、柊奈乃は詰めていた息を吐き出した。


「つむぎ……?」


 絶対に離さないでと約束したはずの紬希の手が不意に離れ、ぎょっとした面持ちで柊奈乃は後ろを向いた。


 紬希は疲れ切ってしまったのか、その場に座り込んでしまっていた。


「ママ……つむぎ、つかれた」


 無理もない。目的もわからず歩き回るのは酷だ。直前の休憩から数分ほどしか時間は経っていないが、もう限界だったのだろう。


 柊奈乃は紬希の両腕を背中に回すと、そのまま体を抱き上げた。汗の匂いとこの頃の子ども特有の柔らかな匂いが鼻孔をくすぐり、束の間張り詰めていた緊張を和らげてくれる。


 柊奈乃は消えかけていた笑顔を浮かべ、紬希の背と頭を撫でた。


「紬希、もうちょっと頑張れる?」


「うん……がんばる」


 健気な声に胸が熱くなり、もう一度頭を撫でた。安心したような吐息が耳元で聞こえる。


「ありがとう。すぐに見つけるからね」


 まだ小さな体とはいえ、抱きかかえればずっしりと重い。実際問題、早く石塚の表札を探さなければ柊奈乃の体力も限界を迎えてしまう。


 ぶらぶらと揺れる紬希の足をつかみ体をしっかりと持ち上げると、柊奈乃は硬いコンクリートの上を歩き始めた。密着している熱のせいで一分も歩けば汗が噴き出した。


(……あの子は何か言ってたっけ)


 過去の記憶を思い返す。あの保育園の一室でマリーの絵を描きながらいつもおしゃベリをしていた。好きなことや見たテレビ番組の話、それから家でのエピソード。


(家での話は、お母さんとやり取りが多かったっけ。嫌いなものを食べられるようになった話やお母さんの仕事の話)


 あそこの家は両親がいたはずだ。いつも送り迎えはお母さんだけでお父さんは一度も見たことなかったけれど、子どもを中心に見ていたのはお母さんだったのだろうか。


 いつも心配していたお母さんだった。あまり会話を交わしたことはなかったが、初めて保育園に来たときになかなか離れようとしない我が子を引き渡すのに時間がかかっていたのを強く覚えている。


 決して怒るようなことはしなかったが、服を引っ張っていた手を優しく離し、困ったように眉を上げた表情でなだめていた。柊奈乃を含めて保育士が抱っこして連れて行こうとしても、泣きそうになると引き返して自分の膝に乗せ、囁くような声で説得しながら頭を何度も撫でていた。結局、柊奈乃が半ば強引に間に割って入り、送り出すことで保育園に預けることができたのだが、そうしなければいつまでも離れられなかったのではないかと思う。


 大切にしているという印象を感じた。いや、あえて言えば過保護と感じるほど子どもとの距離が近かった。親子の関係はそれぞれであるし、まだ3歳児だから距離が近いのは当然ではあるが、子どもの感情に敏感過ぎる気がした。赤ちゃんとの距離が近い親は、赤ちゃんが泣き叫ぶと動揺してしまって上手く対応できなくなることもあるが、ちょうどそんな関係性を2人の様子を見ていて柊奈乃は感じ取っていた。


「ほりせんせー」


 そうだ、あのとき。あの子は言っていた。


「マリーのめとおなじいろだよ」


 確か、自宅の屋根の色だったはずだ。マリーの瞳は、マリーゴールド。すなわち黄色の屋根の家。


 柊奈乃は太陽の光に逆らって顔を上げた。眩しい光が目に飛び込み、我慢できずしかめ面になってしまう。


 黄色の屋根はきっと限られる。見つければきっと目に飛び込んでくるはずだ。


 見渡す限りそれらしい建物は見つからず、柊奈乃は開いたままにしていたスマホに目を落とした。地図アプリを片手で操作し、周辺の画像を表示する。しばらく操作を続けると、色鮮やかな黄色の屋根が予想通り目に飛び込んできた。


(あった、たぶんこの家……)


 画像ではさすがに表札までは確認できない。ここまで行って確かめるしかない。スマホをはいていたスカートのポケットへと滑り込ませると、ようやく前へと進み始めた。


 寝息が聞こえる。疲れて腕の中で眠ってしまった紬希の顔の汗を拭い、乱れた髪の毛を直すと、鞄をズラして背中へとおぶさった。


 コツコツコツ、と革靴が高い足音を鳴らす。やけに静かだった。真っ昼間の住宅街だから静かだとはいえ、まるで音を感じない。どこにでもいるカラスの鳴き声も、窓を開け閉めする音や車のエンジン音、何一つ聞こえてこなかった。


 ゾワッと背筋が凍りつく。柊奈乃は恐る恐る、音を立てないようにもう一度だけ後ろを振り返ろうとした。亀の歩みよりもさらに遅く、ゆっくり、ゆっくりと。


 陽炎(かげろう)のようだった。ゆらゆらと遠くのコンクリートの地面が揺れている。暑い夏にはよく起こる現象で気にするほどでもないはずなのに、柊奈乃はじっとその先を見つめていた。直射日光を浴びて暑いはずなのに、変わらず背中は大量の氷が入れられたように冷たく、体中の血液が停止してしまったのでは、とありえない想像すら巡るほど全身が硬直していた。零度以下の真冬に外で小一時間放り出されたように小刻みに体が震えてくる。


 大小様々な住宅に囲まれた細い路地のその奥に一際暗い影がある。屋根が積み重なり、夏の陽光さえ通さない暗闇だ。異界のようにぽっかりと空いた暗がりを柊奈乃の瞳が凝視していた。


 くゆりと揺らめく影はまるで生き物のように蠢いている気がした。見間違いと思い込みたいのに心のどこかがそうではないことを確信し、頭の中で警鐘を鳴らしている。


 ーー見ていてはいけない。今すぐ離れないといけない。足を動かして走って、反対側へ逃げなければいけない。


 そう訴えているのにも関わらず、瞳の中は暗闇に染まった路地を映したままだ。音という音が全部スポンジに吸い取られてしまったかのように静寂に張り詰めた空気の中でやはり音もなく暗がりのそれは細かな蠕動を続ける。


 柊奈乃の目が大きく見開かれた。そして、急いで目的の場所へと向かおうと何も気づかぬフリをして前を向いた。


 黒色の瞳の中に映ったのは一つの形だった。蠕動が止まり、暗闇の中からぬるりと現れた形。それをしっかりと視認する前に柊奈乃は目を逸らしたが、間違いなくそれは人の成りをしていた。正確に言うならば人の影のような形だ。


「ほりせんせー」 


 反対側へと体を向けた柊奈乃の前には見てはいけない存在が佇んでいた。息を呑み足を止めてしまった柊奈乃の元へ「せんせー」「せんせー」と呼びかけながら歩み寄ってくる。病院で聞いたときと同じ高い声が何度も呼びかけてくるうちにくぐもり地底から聞こえるような重苦しい声へと変わる。柊奈乃の目の前へと来たときには頭が割れて夥しい量の血がポタポタと流れ出ていった。


 頭から垂れた血が腕に回り、血に濡れていく。赤く染まった腕が柊奈乃の服を触ろうと伸びた。


 柊奈乃の背中で紬希がうなされたような声を上げた。止まっていた柊奈乃の足がバネのように動き出した。


(何してるの!? 逃げなきゃ!!)


 触れそうになった手を避けて、走り出す。かつての園児の声がどんどん小さくなっていき、それと同時に後ろから感じていた得体の知れない気配も薄くなっていった。


 角を曲がったところで視界が急に開けた。色とりどりの屋根の奥の方にスマホで見たばかりの黄色い家が見える。


(あそこだ!)

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