つれてかれた手
小さな黄色のバケツに手のひらサイズのおもちゃのスコップを使って少しずつ少しずつ砂を集めていく。バケツいっぱいになったところでスコップの背でなでるように砂を平らに整えるとその場でひっくり返す。お子様ランチに出てくるチキンライスのように綺麗な稜線の小さな砂山ができあがった。
もう3個目だ、と辻柊奈乃は心の中で少し息を吐いた。大人なら一分もあれば終わる作業を飽きることなくゆっくりと時間をかけて完成させ、今4個目に取り掛かろうとする子どもの姿に嬉しさを感じつつも、つい口を出してしまいたい欲にも駆られていた。
(砂山を並べてみるとか、上に乗っけたり、穴を開けたら砂のお城が作れるかもしれないけど)
子どもの自由な発想に任せることが大事とうずうずしている自身の両手にも言い聞かせる。「こっちがいいよ」「こうしたら」と口と手を出して型にはめるのは簡単だけど、それではせっかくの創造性を奪ってしまうことになる。これは、母親がそう育ててくれたことでもあるし自分が学んできたことでもあった。つまり、適度な距離で見守る、ということが大事なのだ。
靴の中に砂が入るのも構わず、手を砂まみれにしながら、それでもキラキラと輝く瞳を見つめながら柊奈乃はマスクの下で笑みを零した。
最初は砂の感触を楽しんで、それから穴を掘ることを覚えて、泥だんごを一緒に作って、山を作れるようになって。
今は少し離れて見守っていられることに成長を実感していた。
(もう、3歳だもんね)
しみじみとそう思った。混乱と混沌の渦中にいるような日々を経て、大人の目から見れば本当に少しずつ少しずつ自分でできることが増えて、その代わりに手が離れていく。嬉しいことでももちろんあるし、ほんの少しの寂しさもあった。
(もう、3歳か)
3歳にもなれば世界はぐんと広がる。歩いたり走ったりするのも達者になり、言葉もどんどん身に付いていく。周りのものすべてに興味津々で、毎日急速に成長しようとする。
だからこそ柊奈乃は、注意して見守ってあげなければと強く心に決めていた。子どもは集中力もすごいが、別の物事に関心が移るのも早い。
そう思っていた矢先に、急にスコップが砂場に放り投げられた。顔を上げればもうすぐバケツがいっぱいになろうというところだったのに、立ち上がって砂場を出ようとしていた。公園に来ている別の子どもたちの歓声が聞こえたために、そちらへ注意が向いたのかもしれない。
「待って、紬希!」
やや強めの口調で呼び止めてしまったからか、小さな肩がびっくりしたように上下に動いて後ろを振り返った。愛らしいまんまるの瞳が見開かれ、人形のように小さく薄い唇が息を吸った。
「ママ、なぁに?」
それだけで可愛いと思った。ちょっと前まではふにゃふにゃだった言葉も、だいぶしっかりとしてきた気がする。まだ舌足らずのところはあるが、それもまた可愛い。何をしていても可愛いのだから、反則だ。
「こっちおいで。顔に砂がついてる。きれいにしてからいかないと」
「うん!」
一生懸命、という言葉が似合う走り方だった。柊奈乃の目から見ると、紬希はどちらかというと運動が苦手なように映った。マイペースというか動きがゆっくりで、手足をバタつかせているのにちっとも前に進まない。
肩の辺りまで伸びたストレートの黒髪が爽やかな風になびく。弾けた笑顔は真夏の太陽のようで、勢いよく抱き着いてきたときの土と汗とせっけんの香りが夏を感じさせた。
ギュッと一度抱き締めると、我が子の顔を胸から離して肩掛けもできるトートバッグから猫のキャラクターが描かれたハンカチを取り出した。
「マリー! ママ、あたらしいマリーいる!」
「うん、そうだよ。新しいの作ったの」
猫の名前はマリーと言った。正式名称はマリーゴールド。恰幅がいい黒猫なのだが、顔の半分ほどある大きな瞳がマリーゴールドの黄色い花の色に似ているために柊奈乃がそう名付けた。ちなみに雄猫である。
紬希はマリーが好きだった。柊奈乃がデザインしたTシャツやデニム、帽子につける缶バッジ、さらに最近ではご時世柄マスクもマリーグッズで揃えている。
柊奈乃からすると自分の娘が喜んでくれるのは素直に嬉しい半面、気恥ずかしい気持ちもあった。まだ交友関係が狭いために、そこまで注目を集めることはないが、たまに見知らぬ人から声を掛けられることもある。
そういうときでも紬希は気後れすることなく、自慢気にマリーの説明を披露する。あるとき、犬の散歩をしていたおばさんに声を掛けられたときには、「マリーちゃんの大ファンなんだね」と言われて、それからことあるごとに「ファン」という言葉を使うようになった。きっと意味を正確には理解していないだろうが、「大好き」という感覚で「ファン」「ファン」と毎日のように使っている。
だから花柄で彩られた新しいマリーのハンカチを目にしたときには、紬希の目は爛々と輝いており、早くそのハンカチで顔を拭いてほしいのか、ぶつかるんじゃないかというくらい柊奈乃の顔の近くに頬を寄せた。
「はやくふいて!」
紬希は目を細めて思い切り笑顔を見せた。ただでさえふっくらとした頬がさらにもっちりと膨らんだ。
丁寧に顔から首までの汚れを拭き取ると、柊奈乃は紬希を後ろへと向かせた。髪の毛の砂も落として、手ぐしで整える。
「髪、少し伸びたね。邪魔だしちょっと髪しばろっか」
「うん!」
カバンから小さなシュシュを2つ取り出して、柊奈乃は器用に髪を結んでいった。その間紬希は自分の鼻歌に合わせて体を上下に揺らしていた。
ここ朝川公園、辻家では通称「遊具公園」と呼んでいる公園は、急な坂道の多い市内でも遊具がしっかりと整備されている公園だった。車道からすぐに駐車場に入ることもでき、子ども連れに人気のある公園でもあり、紬希の目にはきっとブランコやシーソー、鉄棒などの一般的な遊具から大型の滑り台やそれらが合わさった複合型の遊具で遊ぶ子どもたちの姿が映っている。
鼻歌が止まると、紬希は急に振り返った。
「あっ、まだ片方終わってないからちょっと待っててね」
「ねぇ、ママ?」
訴えかけるような目は少し深刻そうだった。手を止めると柊奈乃は微笑みながら目を合わせる。
「うん? どうかした?」
「つむぎさぁ、ちゃんとあそべるかな?」
「なにか怖い遊具あったの?」
聞きながら柊奈乃は、「ああ」と納得していた。大人には遠慮しないでどんどん話しかけられる性格だが、子ども相手だと人見知りを発揮してしまう。兄弟のいない紬希は家にいるときも外へ出掛けるときも常に母親か父親と一緒だった。大人と接するのは得意でも子どもとなるとどうしたらいいかわからなくなるのかもしれない。
紬希は首を横に振った。
「ちがう……けど、ママもいっしょきて!」
「うん。大丈夫。一緒に行くよ」
急いで髪の毛を結び、お団子ツインテールに仕上げると外していたマリーの刺繍入りマスクをつけさせた。
「マリーもつけて。はい、完成。それじゃ行こっか!」
離れないようにしっかりと手を握って走り始める。少し不安そうだった紬希の表情も一瞬で変わり、嬉しそうな笑い声を上げて走った。
砂場から離れたところに遊具は設置されていて、紬希くらいの年齢の子どもから小学生くらいまでの高い声が一面を埋め尽くしていた。その様子に圧倒されてしまったのか、紬希は途端に大人しくなってしまい、母親の手をぎゅっと握った。
「好きな遊具で遊んでいいんだよ?」
シーソー、ブランコ、すべり台ーー紬希の視線の先を追うと全部の遊具が別の子どもたちに遊ばれていた。空いている遊具もあるものの、隣に子どもがいて遊びづらいのかもしれない。
「順番、待とうか?」
紬希は不満気な声を出した。
「やだ、あそぶ」
「じゃあ、空いてるところ行こう? ほら、手つないで一緒に」
「やだ」
沈んだ声になる。こうなってしまえばなかなか切り替えられない。きっと他の子どもが声をかけてくれればパッと表情を変えて遊びにいけるのだろうけれど、そんな気の利いた子どもはなかなかいるはずもない。
「あっち、いく」
紬希が指さしたのは、大型の遊具だった。
大型の遊具は子どもがたくさん遊んでいても、入れ代わり立ち代わり遊んでいるのであまり気にならないのかもしれない。
(だけどーー)
「ダメだよ! 約束したでしょ! あの大きな遊具はもっと大きなお姉ちゃんとかお兄ちゃんにならないと遊べないって! 約束守れないなら家にーー」
そこで柊奈乃は気がついた。紬希がまたびっくりして動けないでいたことを。自分は肩を揺らしてつい、怒鳴ってしまっていたことを。
「ごめん、紬希……」
強張った体を抱き締め、優しく頭を撫でる。遊びたいと思うのは自然なことで、紬希はただ思いを言葉にしただけ。
(それなのに私はまた)
「ごめんね」
「……うん、ママ、だいじょうぶ」
腕を放しても落ち着かず、柊奈乃は頭をなで続けていた。以前からこの繰り返しだった。少しでも危ないことはなるべく避けるようにしてきたし、紬希が危険な行動を取ろうとすると頭の中が真っ白になってしまう。目の届く範囲にいてくれたときはさほど気にならなかったが、あっちこっちへと動けるようにこの3歳くらいになると、つい声を荒らげてしまう回数が増えていた。
不意に紬希の瞳が上がった。
「ママ、でんわ」
「あっ、うん」
スマホを取り出して画面を見れば「辻圭斗」の文字が表示されていた。
(え、今仕事中だよね……緊急の電話?)
「ごめんね、パパからだ。紬希、ここにいてね」
通話ボタンを押す。電話の周りはガヤガヤとうるさく、聞こえ漏れてくる声の感じからやはり職場からだということがうかがえた。
「なに? どうしたの?」
「いや〜あのさ……ちなみに今どこ?」
嫌な予感がする。圭斗がすぐに用件を言わないときはだいたい何か問題があったときだ。そして、残念ながら柊奈乃のその予感は的中した。
「悪い。明日、休めなくなった」
「え? ……ごめん、どういうことかな?」
「仕事がさ。急用が入ってしまったんだ。ごめん」
「ごめんって……明日はハンドメイドの即売会があるって、前から言ってたじゃーー」
「あー悪いって。しょうがないだろ、こっちは仕事なんだから。じゃあ、あの、今度美味しいものでも食べに行こう、それじゃ!」
切られてしまった。一方的にしゃべられて。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
(だって、前から、半年も前から紬希をお願いしてたんだよ? 自分は仕事って、私だって、私だってーー)
小さな口からため息が出た。もしかしたら圭斗は約束を忘れていたのかもしれない。それか、覚えていたけどなかなか休みを言えなくてーー。
(まあ、いいや。今に始まったことじゃないし。ちょっと大変かもだけど、紬希を連れていけないわけじゃないし)
「あれ?」
電話の前までそこにいたはずの紬希の姿が消えていた。
辺りを見回してみる。遊具ではたくさんの子どもたちが遊んでいるが、紬希の姿はない。遊びたがっていた大型遊具にもおらず、シーソーにもブランコにもいない。もちろん今遊んでいた砂場にもいなかった。
背筋が寒くなった。汗ばんだ体が痺れたように冷たくなっていくのがわかる。手が震えている。
(いやーーウソーー紬希……どこ? どこ?)
「紬希どこ!?」
嫌な思いを打ち消すために声を張り上げた。近くにいた子ども連れの母親が怪訝そうな顔で見つめているが、そんなこと今の柊奈乃にとってはどうでもいいことだった。
(いや……いやーー)
「紬希!!?」
遠くで一人で走っている子どもの姿が確認できた。きっと紬希だ。しかし、そこは駐車場。駐車場の先はすぐに車が走る道路だ。
「紬希!!!」
柊奈乃はその瞬間、全速力で走り始めた。肩からマリーのイラストが印刷されたバッグを落としたことも気がつかずに懸命に足を動かした。
(ここにいてって言ったのにどうして!? それになんであんな遠くまで!)
紬希は右腕を前に伸ばして道路に向かって走っていっていた。まるで誰かと一緒に走っているかのように。やがて周りの大人たちも危険な状況に気がつき、ざわざわと声を上げ始める。
遊具公園は高速道路の入口も近く車通りが多かった。何よりも広い直線の道路で多くのドライバーは法定速度以上のスピードを出して走る。
もし、紬希が夢中になって道路に出たのなら、もし、車が猛スピードで突っ込んできたのなら、もし、もし、もしーー。
「紬希!」
間一髪のところだった。道路に飛び出す直前に紬希は急に走るのをやめて、後ろから柊奈乃が羽交い締めする形で愛娘を捕まえた。
「何してるの!? 紬希! そこにいてって言ったでしょ!!」
「いたい! ママっ!」
「あっ……ごめん」
すぐに手を離したものの、紬希は大声を上げて泣き出してしまった。
「ごめん、ごめんね。……そんなに痛かった?」
「ちがう……ママがおこった」
しゃくりあげるように泣きながら、たどたどしく言葉をつなげていく。柊奈乃は後ろからもう一度抱きしめると紬希の顔へ頬を寄せた。
「ごめんなさい。紬希。でも、気をつけて。ママの側から離れちゃダメ」
優しくなだめるように伝えたつもりだった。よくあることだと言い聞かせる。この年齢の子どもにはよくあること。
(あのときだって、そうだった。ちょうど紬希と同じ3歳になったばかりのーー)
「てをつれてかれたの」
「……え?」
娘から返ってきた言葉は柊奈乃が全く予想していないものだった。
「つむぎのて、つれていかれた」
「どういうこと!? 誰に?」
「ともだち。ともだちがこっちであそぼうって」
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