訪問
「ぴきゅにっく、ここでするの? ママ?」
「ううん、他に行くところがあるの。……行かなきゃいけないところが」
紬希にはピクニックをするからと理由を作って出かけた。実際にサンドウィッチや紬希の好きな唐揚げやウインナーなどを用意して、どこかで弁当箱を広げて過ごそうと思っていたが、事故を思い出すここではできるわけがない。
「どこにいくの?」
何も知らない紬希は不思議そうに目を瞬かせると、ぐいっと顔を上げた。真っ白なマスクで顔の半分が隠れていてもくりくりとした瞳が生き生きと感情を伝えていた。
愛らしいその表情を見つめながら、柊奈乃は思った。この子は何も知らない。樹とのことも、保育士だった過去も、事故のことも何も知らない。何も知らないからこそ、私が守ってあげなければいけない、と。
柊奈乃はふわりと笑顔を作った。
「ママがずっと行かないといけなかったところだよ」
弁当箱も入れて少し重い鞄を背負い直すと、柊奈乃は踵を返して誰もいない神社前公園の駐車場を後にした。片側二車線の大きな道路に出ると、景色を眺めながら歩道をゆっくりと歩き、長い横断歩道の前で止まる。
車が行き交う音に混じって子どもの快活な声が聞こえた。後ろを振り返れば、自分と同じような母親が保育園児くらいの小さな子どもを連れて横切っていった。
自然と、柊奈乃の耳奥にかつての子ども達の歓声が蘇ってくる。何も疑うことがなく、楽しみに満ちた声だ。この先もずっと心が跳ね上がるようなこの声にたくさん囲まれて過ごしていくはずだったのに、全てが一瞬でなくなってしまった。
いや、なくしたのは自分なのだ。責任を放棄し、逃げたのは自分なのだ。
赤から青へ信号が移り変わると同時に、柊奈乃は横断歩道の上へと一歩を踏み出した。大勢の子ども達がいれば渡るのも一苦労する長い長い横断歩道だったが、紬希一人ならばあっという間に渡れてしまう。渡り切った先、見上げれば柊奈乃が在籍していた保育園が見えてくる。
「あそこにいくの?」
紬希の目が輝いているように見えた。やっぱり通いたいのだろう、保育園に。紬希だって上手く遊べないけれど、本心は友達がほしいと思っているはず。
(……樹くんと同じように)
柊奈乃はわずかに首を横に振って否定を示した。
「ごめんね、あそこはちょっと見るだけ」
太陽のような紬希の目の輝きが消える。前を向くと、繋いでいた手をぎゅっと握り返してきた。
「うん、つむぎもみたい」
本当はたぶん、遊びたいと言いたいはず。そんな紬希の気持ちに気づかないふりをして、柊奈乃は歩みを進める。
一歩一歩、近付いていくうちに建物が大きくなっていく。赤い屋根にクリーム色の外壁、大きく開放的な窓。そして、ギィと開け閉めする度に耳障りな音を出す、錆びたかんぬき錠のピンクの門扉。
ちょうど外遊びの時間だったのか、門扉の上から中の様子を覗くと、小さな園庭に、帽子を被った子ども達や半袖で汗だくの保育士が遊んでいる姿があった。鬼ごっこでもしているのか、みんなして園庭を走り回っている。眩しい笑顔に楽しげな声が柊奈乃の視線を捉えて離さなかった。
安心安全でこそ、保育は成り立つ。当たり前のことが申し訳程度のこじんまりとした園庭で実践されていた。あの事故が無ければ、未然に防げていれば、この子ども達と一緒に過ごしていたのは、もしかしたら自分だったのかもしれない。
首周りの髪の毛をざっくりと切り揃えたショートカットが印象的な保育士が柊奈乃に気づき、中腰の姿勢から立ち上がると気さくに声を掛けてきた。
「こんにちは。親御さん……ではないですよね。見学の方ですか?」
目線が紬希の方へと移る。確かに、子ども連れで保育園の様子を見ていれば見学者だと思われるかもしれない。
「……いえ、以前この辺りに住んでいたことがあって、たまたま通りかかったもので……」
柊奈乃は小さな嘘をつくと、門扉から手を離した。保育士は柔らかく目を細めると柊奈乃の元へ近付いてきて、紬希の顔をまじまじと見つめた。マスクの下の表情はわからないが、きっと微笑んでいるのだろう。
「お子さん、3歳くらいですか?」
「あ、ええ、そうですが……」
知らない顔の保育士だった。他の園から異動してきたのかもしれないが、まだ20代前半くらいの見た目からすると新卒採用かもしれない。
「どこか保育園か幼稚園かを利用されたりとかは」
「まだです。その……検討はしているのですが」
それは嘘ではなかった。いつかは預けたいと考えていたのは事実だった。
「うーん、今日開放日だったら遊べたんですけどね。残念」
保育士は、紬希と同じ目の高さまで腰をかがめると、少し首を傾けて質問した。
「お名前はなんて言うか教えてくれる?」
紬希は少し緊張しながらも堂々と自分の名前を名乗った。それを聞いた保育士はまた目を細めてうんうんとうなずく。
「かわいい名前だね。保育園はね。今まで知らなかったお友達もいっぱいできるところなんだよ」
「……ホント? つむぎでもいっぱい……?」
「うん。保育園の先生もいるから大丈夫。最初はなかなか上手くいかなかったりするかもしれないけど、みんな友達になって一緒に遊べるようになるからね」
マスクの下で紬希の顔がぱあっと笑顔になったのがわかる。母親の言葉よりも時には保育士の言葉の方が力強く響くときもあるのかもしれない。
ショートヘアの保育士は姿勢をただすと今度は柊奈乃の方を見て頭を下げた。
「すみません、余計な話だったかもしれないですが、なんとなくつむぎちゃん、不安そうに見えて」
「いえ、あの、むしろありがとうございます。業務で忙しいのに気を遣っていただいて……」
「いいえ、大丈夫ですよ。何かあれば私でよければ相談に乗りますので。それでは」
保育士はふわりとした余韻を残しながら軽く会釈をすると、子ども達の元へと戻っていった。去り際に紬希が小さくバイバイ、と手を振れば、しっかりと目に留めて大きく手を振って返してくれる。
「素敵な先生だったね」
保育園を後にしながら、柊奈乃は紬希の横顔に向かってぽつりとそう漏らした。はっきりと口にできないのは後ろめたさがあるからだ。
ああいう保育士になりたいと願っていた。もちろん仕事の顔だということはわかっている。それでも、子どもとその親の不安にも理解を示し、そっと寄り添えるような気持ちの通った保育ができればと思っていた。そういう保育士になろうと努めてもいた。毎日クタクタになるまで動き回り、子どもの話に耳を傾けて、業務後も学校で習ってきたことの復習をしてーーそれなのに、今は保育園そのものを怖がってしまっている。
横を歩く紬希は、「うん」と言うと柊奈乃の目を真っ直ぐに見上げた。
「つむぎ、あのせんせーすき。ママ、あのね……。つむぎ、やっぱりほいくえんにいきたい」
「……つむぎ」
「あのね。パパがいってたの。つむぎ、ほいくえんいきたい? って。……でも、ママが」
行かせたくないって言ったから?
(いや、そんなこと直接言葉にしたことはない)
もしかしたら圭斗が勝手に紬希に話したのかもしれない。そうじゃなくても態度に現れていたのかも。
(自由に生きてほしい……そう思っていたのに。私の考えがいつの間にか紬希の選択肢を奪ってしまっていたの?)
柊奈乃の細い指がこめかみの辺りに触れた。少しだけキリリと突き刺すような頭痛が走る。
紬希が本当は保育園に行きたいと思っていることは知っていた。その本音を正直に引き出したのは、初めてあったはずのあの保育士だった。
指を離し、次の目的地に向かって歩き始める。
(……私は何をしていたのだろう)
そう思った。願ったものは手に入らなくても、別の形の幸せをつかみ、育んでいけると思っていたのに。
「紬希。保育園に行こう」
「ママ、いいの?」
嬉しそうに丸くなる瞳に、にっこりと微笑みかける。
「うん。もう、ママは大丈夫だから。今日の用事が終わったら、一緒に保育園探そうね」
「うん! つむぎあのせんせーのほいくえんがいい!」
「う〜ん、それはちょっと難しいかもしれないけど、優しい先生のいる保育園、見つけようね」
「うん!」
止まっていた時間を動かし、新しい未来に向かっていくためにちゃんと向き合わないといけない。罪を償わないといけない。
真っ直ぐに前を見据えて柊奈乃が向かう先は、石塚樹の家だった。
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